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2005年04月 アーカイブ

2005年04月04日

『権威の失墜』について考える

拙宅の本の整理をしていて、7、8年前にブームになった「複雑系の経済学」関連の本に目が止まった。その中の一冊、『複雑系のマネジメント』(ダイヤモンド社)を久しぶりに読んだ。先ごろ、十年に及ぶ経営トップの座を降りたソニーの出井伸之氏と、京都大学経済研究所所長の佐和隆光氏との対談が、その冒頭にある。対談は1997年8月、出井氏が日本を代表する経営者として高い評価を受け、飛ぶ鳥も落す勢いであった頃のもの。出井氏は「複雑系」「収穫逓減と収穫逓増」「リ・ジェネレーション」などについて、大いに語っている。企業は変らなかったらマーケットからは懲罰を受ける、政治家も選挙で懲罰を受けるが、行政はそういうことはない、との佐和氏の発言を受けて、出井氏は言う。「企業は国家の制度改革を待っていられません。自分で変えるしかないんです。日本という国は、五〇年前の敗戦によって一回リセットがかかりました。そこからスタートして、これまでの繁栄をつくってきたわけです。しかし、いま一度あえてリセットをかけなければいけない。ところが、「まだ大丈夫」と思っている人が多数派で、「変らなければ」と考えている人は少数派です。しかし、変化のスピードはものすごい。好むと好まざるとにかかわらず、変わらざるをえません」。人間は厄介なものである。自分のことが最も判らないものである。聡明なはずの氏も、自分に向って吹く変化の風を読むことに疎かった。このところの経済紙誌はじめジャーナリズムは、出井氏の退陣は遅すぎたとの大合唱で、十年前の社長就任からの数年は異常なほどに持ち上げておいて、今度は無能呼ばわり、大悪人のように叩いている。いつものことだが、マスコミの不見識には呆れる。
昨秋にNHKでは常態化していた制作費横領が発覚、その隠蔽やら、海老沢会長の組織壟断、政界との癒着など、殆ど毎日のように報道が続き、挙げ句の果ては、朝日新聞とNHKとの泥試合にまで発展した。そこに元・東大生の堀江某とニッポン放送はじめフジ・サンケイグループとのバトルが勃発。ニューズバリューが無いと思ったか、ともにやましいことがあって取り上げることに逡巡してか、あれほどに互いを批判しあった朝日もNHKも停戦状態に入り、今はこの騒ぎを報じることに必死である。見識の無いこと夥しい。
かつて日本の権威と言われた「東大、朝日、NHK」、ソニーの出井氏同様に見事なほどの失墜ぶりである。

2005年04月07日

ウィーン・フィルのライナー・キュッヒルを聴く

先月の23日に東京オペラシティコンサートホールで聴いた、ウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒル率いる弦楽四重奏団の余韻が二週間近く経った今も残っている。先日の朝日新聞夕刊に載った、音楽評論家・伊東信宏氏の音楽評には、「弓のスピードの緩急だけでアンサンブルを見事に統率してしまうさまはちょっと見物」だとあり、また、「もともとキュッヒルの演奏は、思わせぶりなタメや見栄を排した清潔なものだ…」との評に、得心した。私は、元来が演劇書の収集が趣味という訳でもなく、物欲というものが全くと言って良いほどに無く、人や物に対する執着、粘着性すらも低い方だと思っている。一視同仁、直情径行を旨としているつもりで、それこそが思わせぶりや、見栄や、人様の顔色を窺うことは得手ではない。幼い時分から、思わせぶりな態度や見栄を張ることに抵抗を覚えていた。しぜんそんな性分が芸術的な嗜好にも影響しているのだろう。
松竹経営幹部たちの努力が奏効してか、なんとか4月からは、警察官への公務執行妨害容疑で逮捕された(ちょっとしたいたずら、だとか、オイタが過ぎただけだとかと、芸能マスコミ周辺は言っているのだろうが、そんな甘いものではない。松竹が払うであろう代償がどれほどのものか考えたか。それどころか下がる一方の芸能というものの社会的地位が、この悪たれの為にどれほど下がったことか。)親不孝も出演している。この父方の祖父である17代勘三郎は、若い時分から達者な役者との評価はあったのだろうが、私は子供の時分から感心したことが無い。というよりも、彼の芸の品格の無さもだが、あざとい芝居にうんざりさせられていた。襲名したばかりの当代勘三郎については、敢えて論ずるまでもないだろう。私が生まれる前の先代が、新聞劇評がまだ批評として成り立っていた頃に、どう評されていたか、 『現代日本演劇史』昭和戦後篇(大笹吉雄著・白水社刊)で調べてみた。
東京新聞昭和21年12月17日の秋山安三郎は、「島衛の島蔵のもしほ(17代勘三郎)、千太の染五郎など、四日目にまだ台詞が入っていないという醜態の上に、もしほに至っては狭い舞台で例の浮かめ方をしているのでみるに堪えない不快を憶える、これでは東京の真ン中で旅芝居をしているのも同然で、何より貴重な舞台の出演に感動のない精神は責められねばなるまい」。東京新聞昭和25年9月8日の戸板康二は、「勘三郎、しのぶのあどけなさを出そうとする技巧が目立つ。同じ事が『戻駕』における福助の禿にもいえる。ああいうビタイは、もうやり切れない」と書いている。かつて先代が座頭での歌舞伎座や国立劇場の公演で、たびたび団体観劇の回に不幸にも出くわしたことがあるが、そんな時の勘三郎は、身上ともいえる媚態はどこへやら、団体客相手に芝居をしても仕方が無いとでも思ってか、地なのだろう不遜でやる気の無いゾンザイな演技をしていた。歌舞伎の勉強のつもりが、人間は時と場合によって態度が変わるものなのだと、芝居以上に教えられたものだ。
GOLDONIのHPの巻頭随想『劇場の記憶』に、明治大学の神山彰先生がお書きのように、「演者も観客も中腰でいる騒々しく落ち着き皆無」の歌舞伎座に、本格派の吉右衛門が戻る6月が待ち遠しい。

2005年04月13日

経路依存性と行政組織

先日久しぶりに読んだ『複雑系のマネジメント』(ダイヤモンド社刊)に、現代日本経済史の岡崎哲二氏のインタビュー、「経路依存性から見た日本企業社会」が載っている。氏の説明によれば、経路依存性とは、歴史的な経路によって現在は制約を受け、将来もその影響を受ける、ということ。ホンダやソニーがイノべーティブな価値を追求する、あるいはトヨタがコスト効率を重視する、という組織のクセも経路依存性かとの問いに、氏は肯定し、企業文化はそう簡単には変わらず、企業組織の中に、長い歳月をかけて行動様式や思考を規定する有形無形の装置が仕掛けられていて、相互補完的に機能している。多くの企業が手掛ける新規事業や新規ビジョン・制度の制定などの新しい試みにも、この経路依存性の影響を受ける、と答えている。GHQが日本経済のシステムをリセットしたと言われる事についても言及している。GHQが行ったことは戦時経済に移行する前のシステムの破壊、財閥の解体や持株会社の禁止、地主制度の解体だった。法的なシステムを変えても、広い意味での制度には経路依存性が働いた。財閥をはじめとする戦前のシステムは、国家総動員法をバネに提出された勅令・関連法によってつくられたシステムに取ってかわられた。したがって、GHQは戦時中に機能を停止させられていた戦前のシステムを壊し、その結果、戦時中に出来たシステムの役割が相対的に高まった、と。氏のインタビューを読んでの私の独断的理解は、敗戦時に生き残った中央官僚組織が、GHQを騙し利用しながら、「国家総動員法」のエッセンスを延命させ、中央集権と翼賛型の行政を、「大日本帝国陸軍」という最大の官僚組織の崩壊したこの国に根付かせることだったのか、というものだ。
ヤミ残業、カラ出張、背広支給、職務特殊手当の乱発など、不正の限りを尽くす大阪市政がマスコミで取り上げられるが、これなどは氷山の一角で、中央官庁も、全国二千数百の地方行政も似たり寄ったりの様であろう。行政が作った公団や財団など外郭団体などの税金や地方債、郵貯などの投融資についての不正経理処理や、退職金稼ぎの渡り鳥の天下り人事ばかりか、役所をあげての怠業・腐敗・不正は、当の官吏に犯意の自覚が無いほどに組織化・日常化している。テレビの街頭インタビューで、ある大阪市民は、「市役所は大阪から出て行け」と、なかなか巧いことを言ったそうだが、感心ばかりしてはいられない。

2005年04月23日

名人・豊竹山城少掾を聴く日々

今週の19日に、このGOLDONIのHPに新たに4名の知人に書いて戴いたエッセイを掲載した。その執筆者のお一人である光産業創成大学院大学教授の北川米喜さんからつい先日頂戴したカセットテープが面白く、GOLDONIで日に何度もかけて聴いている。どんなものかといえば、義太夫の昭和の名人・豊竹山城少掾が登場するNHK放送番組を収録したもの。晩年の山城少掾には少しだけだが記憶がある。昭和34年に80歳で引退しているので、生では聴いたことも無く、舞台の記憶は無いが、家が近かったからか、小学生時分にはたまに見掛けた。芸界でも特段に偉い人とでも親に言われでもしたのか、暫くは何も知らぬ小学生にとっての生身の少掾は、拙宅の写真でしか知らない九代目市川團十郎に並ぶほどの尊敬の対象だった。
テープのA面には、明治41年の録音の、三十歳前の津葉芽太夫時代の『三十三間堂棟由来』平太郎住家の段、その五十年後、引退直前の昭和33年の録音の、『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段もあり、芸歴(修業歴)七十年の大名人・豊竹山城少掾の語りに堪能している。聴いている時に、現代演劇の専門書店であるゴルドーニを初めて訪れる人は、古典芸能の専門書店かと訝ったりしている。モーツァルトの交響曲第四十番の収録されたSP盤を、それこそ擦りきれてしまうほどに聴いた小林秀雄は、『モオツァルト』を遺した。豊竹山城少掾の語りを、テープが伸びきってしまうほど聴いても何も生み出せそうに無い鈍才の私だが、聴きなれぬ義太夫を耳にしてか不審そうな新規の御客との交流を楽しんでいる。

2005年04月29日

『中村雀右衛門』を育んだ戦争体験

3月10日のこのブログで、荷風の『断腸亭日乗』を引用し、六代目尾上菊五郎が倅(養子)の菊之助(故・七代目尾上梅幸)の徴兵検査の折、「内々贔屓をたより不合格になるやう力を尽せしかひありて一時は入営せしがその翌日除隊となりたり。…」と書き写した。真相は知らず、いずれ調べてみて書くつもりでいた。一昨日、拙宅にあった当の梅幸が書いた『梅と菊』(日本経済新聞社、1979年刊)を調べたら、該当する記述があった。「何はともあれ私は頭をまるめ、身辺を整理して指定の十五日、珠子に見送られて横須賀の重砲連隊の営門をくぐった。ところが私はその前年に痔の手術をしたことがあり、厳重な身体検査の結果、即日帰郷となった。その時はお国のためにお役に立たなくて残念だと思う一方、内心ホッとしたようでもあり、複雑な心境だった。芝居は中日を過ぎてまだ十日ほどあるので翌十六日、いったん家に帰り、楽屋にいって父に報告して舞台に出ようと思ったところ、父は楽屋の人たちにはばかってか、「もう出るな、休んでろ」といい、その月は休んでしまった。休んだといっても大手を振って表へ出るわけにはいかず、坊主頭を抱えて家で謹慎していた」。
先ほど読み終わった、四代目中村雀右衛門著『私事(わたくしごと)』(岩波書店、2005年1月刊)によれば、彼(当時は大谷廣太郎)は昭和15年の12月から21年の11月までの6年間、中国・広東省からベトナム、タイ、インドネシアと転戦、生死をさまよった。ほかに戦争に駆り出された歌舞伎役者は、二代目尾上松緑、十七代目市村羽左衛門、当代中村又五郎などだそうだ。「歌舞伎界のなかには、戦争に行かなかった人もいました。どこかに話をつけることもできたようで、召集されたものの、一日で軍隊から帰ってきた方もいるそうです。何か方法はあったようですが、父はそういうことはしませんでした」。
荷風が「耳にしたる風聞」、菊之助が翌日に除隊されたことは事実だった。荷風のこの「風聞」の中に、歌舞伎興行の松竹絡みのこともあるので、ついでに紹介しておく。「大谷竹次郎の倅龍造とやらいふ者、これは父竹次郎その身分を利用し余り諸方へ倅不合格になるやうに頼み廻りしため検査の時かえつて甲種合格となりたりといふ」とある。この龍造とは、昭和59年2月に、長男で現在は松竹の副会長をしている信義氏と口論し、自宅に放火、お手伝いさんを焼死させ逮捕された当時の松竹社長・大谷隆三だろう。
松と竹、梅と菊。天晴れ過ぎて言葉も無い。