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『中村雀右衛門』を育んだ戦争体験

3月10日のこのブログで、荷風の『断腸亭日乗』を引用し、六代目尾上菊五郎が倅(養子)の菊之助(故・七代目尾上梅幸)の徴兵検査の折、「内々贔屓をたより不合格になるやう力を尽せしかひありて一時は入営せしがその翌日除隊となりたり。…」と書き写した。真相は知らず、いずれ調べてみて書くつもりでいた。一昨日、拙宅にあった当の梅幸が書いた『梅と菊』(日本経済新聞社、1979年刊)を調べたら、該当する記述があった。「何はともあれ私は頭をまるめ、身辺を整理して指定の十五日、珠子に見送られて横須賀の重砲連隊の営門をくぐった。ところが私はその前年に痔の手術をしたことがあり、厳重な身体検査の結果、即日帰郷となった。その時はお国のためにお役に立たなくて残念だと思う一方、内心ホッとしたようでもあり、複雑な心境だった。芝居は中日を過ぎてまだ十日ほどあるので翌十六日、いったん家に帰り、楽屋にいって父に報告して舞台に出ようと思ったところ、父は楽屋の人たちにはばかってか、「もう出るな、休んでろ」といい、その月は休んでしまった。休んだといっても大手を振って表へ出るわけにはいかず、坊主頭を抱えて家で謹慎していた」。
先ほど読み終わった、四代目中村雀右衛門著『私事(わたくしごと)』(岩波書店、2005年1月刊)によれば、彼(当時は大谷廣太郎)は昭和15年の12月から21年の11月までの6年間、中国・広東省からベトナム、タイ、インドネシアと転戦、生死をさまよった。ほかに戦争に駆り出された歌舞伎役者は、二代目尾上松緑、十七代目市村羽左衛門、当代中村又五郎などだそうだ。「歌舞伎界のなかには、戦争に行かなかった人もいました。どこかに話をつけることもできたようで、召集されたものの、一日で軍隊から帰ってきた方もいるそうです。何か方法はあったようですが、父はそういうことはしませんでした」。
荷風が「耳にしたる風聞」、菊之助が翌日に除隊されたことは事実だった。荷風のこの「風聞」の中に、歌舞伎興行の松竹絡みのこともあるので、ついでに紹介しておく。「大谷竹次郎の倅龍造とやらいふ者、これは父竹次郎その身分を利用し余り諸方へ倅不合格になるやうに頼み廻りしため検査の時かえつて甲種合格となりたりといふ」とある。この龍造とは、昭和59年2月に、長男で現在は松竹の副会長をしている信義氏と口論し、自宅に放火、お手伝いさんを焼死させ逮捕された当時の松竹社長・大谷隆三だろう。
松と竹、梅と菊。天晴れ過ぎて言葉も無い。