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国鉄鶴見事故で亡くなった三枝博音

25日に起きたJR西日本福知山線の事故は、死者百七名、重傷者は百名を超え、危険な状態な方も十数名にのぼる大惨事になった。百名を超える人々が、平日の朝、ふだん通りの通勤や通学、あるいは買い物などの外出で留守にした家に、病院や遺体安置所から無言の帰宅をされたことを思うと、胸が痛む。いちいちは書かないが、テレビ・ラジオや新聞で知るJR西日本の経営陣や運行部門などの幹部の経営姿勢には憤りを覚える。そして彼等の事故対応などには、腸が煮え返る思いだ。井出正敬相談役は国鉄改革三人組の一人と聞く。南谷昌二郎会長は三人組の親衛隊十八人衆の一人。そんな合理化推進者の二人の後継者である垣内剛社長、民営化18年になる民間企業経営者というより、典型的なキャリア官僚の顔だ。記者の前で、事前に用意されたペーパーを読む姿には、呆れたと言うよりも、恐ろしさを感じてしまった。厚生労働省の組織的・恒常的な疑いもある裏金作りの事件で兵庫労働局長が自殺したが、こんな経営陣であれば同様な事故も、そして現場担当者たちの自殺などの事件も、悲しいことだが起こるだろう。
事故現場となったマンションの住人たちも大変な被害にあった。マンション管理組合として、JR西日本への買取りを求めるのでは、との報道もある。マンションの一階に慰霊碑を、との声もあがっていると言う。もっともな話だと思う。このトップ三人は、買取り、慰霊碑の建立に同意するだろう。ただ、経営合理化を推進して黒字化を実現してきただけに、これらの費用を企業経費として負担することに抵抗を覚えるのではないか。だとすれば、自分たちの退職慰労金や今までの役員報酬、役員賞与などから捻出するなどの策を講じてほしい。そして買い取ったマンションは、将来が約束されている彼らのようなエリート社員の社宅や研修施設とし、事故を教訓化してほしい。
昭和38(1963)年の11月、横浜市鶴見区生麦で起きた貨物列車と上り下りの横須賀線電車との二重衝突事故いわゆる鶴見事故は、小学生の時分であったが記憶にある。翌日が休日で学校や稽古が休みだったのか、夜更かしをしていて、テレビでこの事故を知った。深い闇の中で、事故のあった構内だけが救助・復旧作業のためのライトに照らされ、線路や鉄骨や横転した列車が不気味に映っていたことを憶えている。この鶴見事故では百六十一人が亡くなった。
いまや教育までが商売になったこの国でも、戦後の一時期だが、第一級の研究者や実践家が手弁当で教えに集まった理想の学園、野散の大学があった。その大学、『鎌倉アカデミア』の学校長として理想の教育を求め尽力した哲学者 ・科学史家の三枝博音も、この事故での犠牲者のひとりである。設立当初からの財政難と新制大学として認可を渋った文部省の前に、廃校を決断せざるを得なかった三枝博音は、その後に横浜市立大学の文理学部長、そして学長としてアカデミアで頓挫した『生きた学問』や『学問の自由』などの教育実践を推し進めていた。
遺体安置所であった鶴見の総持寺から自宅のある北鎌倉までの途中、三枝博士の遺体を載せた車は大船のかつてのアカデミア校舎跡を静かに通り過ぎた、という。