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2005年11月 アーカイブ

2005年11月04日

『文化庁助成金の不正受給』について(続)

関西歌劇団を傘下に持つ財団法人関西芸術文化協会による文化庁助成金(税金)の不正受給問題は、大阪の事件だからだろうが、讀賣新聞大阪本社版の記事と、インターネットでの讀賣ニュースでの報道だけのようだ。
東京の新聞各紙、とりわけ学芸・文化部門の沈黙は不自然で不気味でもある。
10月22日に、この『提言と諌言』で、この不正問題の報道を纏めて紹介したので、今回は一昨日の、同じ讀賣ニュースをダイジェストにして紹介する。

<関西芸術文化協会の不正受給、文化庁がずさん助成>
    ―6公演の収支決算 条件不足を”黙認”―

 文化庁は、同協会主催の計9公演のうち6公演について、助成金支給条件を満たしていない欠格決算を黙認していた。支給条件は、公演経費が助成金の3倍以上で赤字であること。文化庁に提出した収支決算書によると、5公演の経費が助成金の3倍未満で、1公演は「黒字」と報告されていたが、文化庁は助成金返還などの措置は取っていなかった。同庁は「公演前に算出された見積もりに対する助成制度で、実際の支払額は助成金額に影響しない」とするが、ずさんな助成制度自体の見直しが迫られそうだ。
なかでも、黒字は、02年度の「源氏物語」。支出約2600万円に対し、助成金800万円を加えた約2900万円が収入で、約300万円の収益が出たという。ほかにも、04年度の「コジ・ファン・トゥッテ」では、支出約3900万円に、「道具代」「衣装費」の架空請求分が約600万円含まれており、これを差し引くと支出は3300万円。公演には1200万円の助成金が支給されており、結局、この場合の支給条件である3600万円を満たしていないという。
 文化庁芸術文化課によると、助成金は、公演前の見積もりに基づいて各団体などと請負契約したうえで支給。「実際の支払いが少なかったり、収入が多かったりして、契約時の計算書と収支決算書の内容が異なり、支給条件を満たさなくなっても返還を求めない」としているが、同協会の不正受給問題の発覚を受け、「防止策を検討中」
という。
 収支決算にかかわった同協会関係者は「経費が助成金支給条件に足らなくても問題はない、と当時の上司から言われていた。文化庁の問い合わせはあったが、訂正を求められたことは一度もない」と話しているという。

2005年11月07日

『総目次』と『閲覧用書棚の本』

ご案内が遅くなったが、10月23日から、ブログ『提言と諌言』の総目次のページを新たに作成した。昨2004年4月19日の<公演の招待扱い>から、2005年11月4日の<『文化庁助成金の不正受給』について>までの131本の文章を載せた。ご笑読をお願いする。
また、その中で、「閲覧用書棚の本」は、6月20日から9月末まで、13冊の本を23回にわたって書いた。書き始めた当初は、演劇書専門GOLDONIを、9月末で閉店する予定にしていて、閲覧用として所蔵している本の何冊かを紹介出来ればと思っていた。
ご存知のように、このブログは、最初からコメントを付けて戴かないようにしてあって、その分、反応も頂戴しにくいものだが、この「閲覧用書棚の本」については、電話やmail、あるいはご来店、外出先などで、読後の感想を賜ることが多く、中には、「続けて書きなさい。ライフワークになるものですよ」などと、激励下さる方もいくたりかあって、今月から再開することにした。
今回は念の為に、今までの13冊の本を紹介する。是非お読み戴きたい。

6月20日 
『左團次藝談』 二世市川左團次著 南光社 1936年 
6月23日27日 
『寿の字海老』 三世市川寿海著  展望社 1960年 
7月7日9日  
『鏡獅子』 二世市川翠扇著・市川三升編纂 芸艸堂1947年
7月13日 
『歌舞伎劇の経済史的考察』 山本勝太郎・藤田儀三郎著 寶文館 1927年
7月26日 
『獨英觀劇日記』 穂積重遠著 東寶書店 1942年
8月3日11日 
『岡本綺堂日記』 青蛙房 1987年
8月20日23日 
『藝のこと・藝術のこと』 小宮豊隆著 角川書店 1964年
8月26日 
『ひとつの劇界放浪記』 岸井良衛著 青蛙房 1981年
9月7日 
『明治の演劇』 岡本綺堂著  同光社 1949年 
9月10日11日13日 
『九代目市川團十郎』 市川三升著 推古書院 1950年 
9月15日18日21日 
『岸田國士全集』 岩波書店 1991年
9月23日 
『「かもめ」評釈』 池田健太郎著 中央公論社 1978年 
9月25日27日30日 
『加藤道夫全集』 浅利慶太・諏訪正編集 青土社 1983年

2005年11月08日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(壱)

今回は、岩波書店刊行の日本古典文学大系『歌舞伎十八番集』に所収の『役者論語』を取り上げる。
安永五(1776)年九月に、京都の役者評判記の版元である八文字屋が出版した、この『役者論語』の冒頭には

此書や、むかしより上手名人と稱ぜし役者のはなしどもを古人書留めし巻々なり

として、「舞臺百ケ條」「藝鑑」「あやめ艸」「耳塵集」「續耳塵集」「賢外集」「佐渡嶋日記」をあげ、

右七部の書は、優家の亀鑑なれども梓にちりばめ、付録に當時三ケ津役者藝品定を加入する而已

と記す。
「優家の亀鑑なれども梓にちりばめ」は言うまでもなく、<俳優の家の手本・秘伝ではあるが出版する>というほどの意味である。三ケ津は、京・大阪・江戸のことである。

此書をとくと御覧ん被下候へは役者善悪鏡にかけたることくあきらかにわかり申候。右も無ちかい近日より本出し申候故おしらせ申上ますかほみせ二の替芸品定并ニやくしや大全やくしや綱目やくしや全書かふき事始なとも此書に御引くらへ御覧ん被下べく候上手下手の分ち相見へ申候

岩波版の校注・解説者の郡司正勝氏は、この出版広告に着目し、「この書に載せた古人役者の金言が、当時の劇評の基準となるべきもの」との、版元の出版意図があったことを指摘し、「劇評の基準としての『役者論語』をもって、現代の役者を批判した実例を挙げて示そうとしたのではないか」と述べている。

今回は、「舞臺百ケ條」から取り上げる。

一 精を出すといふは、ねても覚ても、仕内を工夫し、稽古にあくまで精を出して、さて舞臺へ出ては、やすらかにすべし。稽古に力一ツぱい精出したるは、やすらかにしても、少しは間はぬけぬものなり。稽古工夫には心をつくさず、舞臺にてばかり精を出だせば、きたなく、いやしく成て、見ざめのする事うたがひなし。さて惣稽古といふものは、初日より二日も前にすべき事也。初日の前日は、とくと休みて、きのふの惣稽古の事を、ほつほつ心におもひめぐらし、気をやすめて、初日を始れば、初日よりおち付て、間のあく事なし。前日にアタフタと稽古し、夜をかけて物さはがしく、翌日を初日とすれば、わるひ事もかなりがけにせねばならず。此ケ條大切の事なり。

メディアでは全く取り上げる事がないが、この5月の新国立劇場での井上ひさし書き下ろし戯曲公演は、初日の三日前に本が出来上がるという、本来であれば公演中止をすべき興行であった(5月25日の『提言と諌言』<『危険な綱渡り』を上演中の新国立劇場>)。つい先月の帝劇公演も、本が初日の前日に仕上がるという、ぶざまなものだった。こんな仕上がりでは、さぞかし製作側も、俳優も、スタッフも、アタフタとしたことだろう。新国立の方の演出者は芸術監督だそうだが、初日直前に劇場内の他の公演の稽古場に現れ、「うちの稽古場は覗くな。皆気が触れているから」と、本人も気が昂ぶっていたのだろうか、真顔でのたまったそうだ。
帝劇公演の方の演出者も、この新国立劇場の芸術監督氏だったそうで、その偶然に驚かされたが、さてどんな心境だったのだろう。
最近は生き馬の目を抜くほどの、泣く子も黙る芸能プロとも手を組む早稲田大学の出身で、この郡司正勝教授の教え子だというこの芸術監督氏、郡司先生から直々に演劇者にとっての亀鑑、バイブルとも言える『役者論語』を学ばなかった、のだろうか。

2005年11月10日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(弐)

今回は富永平兵衛著の「藝鑑」を取り上げる。
この書を初めて読んだのはいつの頃か長い間思い出せずにいたが、近松研究の泰山北斗、乙葉弘教授の浄瑠璃講読の講義の教本を昨晩たまたま見つけ、その中に、「芸鑑を調べること」との走り書きがあり、それが18歳の頃であると判った。
この『藝鑑』の、これから採録する條は、以来三十有餘年の間に幾度読んだことだろう。
映画やテレビの番組で見たとは思えないが、この一條に描かれた世界が、私の脳裏には映像となって大事に納められている。
幼少の折に劇場主になろうとして四十数年、浄瑠璃と演劇製作を学んで三十有餘年、いまだに劇場を持てず、傑作を製作出来ないでいるが、劇場主、あるいは演劇製作者としての模範は、ここに描かれる座元・村山又兵衛である。

一 明歴二年丙申。其比は京は女形のさげ髪は法度にてありしに、橋本金作といふ女形、さげ髪にて舞台へ出、其上桟敷にて客と口論し、脇ざしをぬきたる科によつて、京都かぶき残らず停止仰付けられたり。これによつて京都座元村山又兵衛といふもの、芝居御赦免の願ひに御屋敷へ出る事十餘年。しかれども御とり上なかりし故、又
兵衛宿所へもかへらず、御屋敷の表に起臥して毎日願ひに出るに、雨露に打れし故、着物はかまも破れ損じ、やせつかれて、人のかたちもなかりしなり。其比の子供(色子)、役者ども、多くは商人、職人となり、又は他國へ小間物など商ひにゆくものあまた有。わづかに残りし子供、役者銘々に出銭して、食物を御座敷の表へはこび又兵
衛をはごくみしが、芝居御停止十三年、寛文八年戊申にかぶき芝居御赦免なされ、三月朔日より再興の初日出せり。狂言はけいせい事也。此日は不就日なりとて留めけれども、吉事をなすに惡日なしと、おして初日を出しぬ。十三年が間の御停止ゆりたる事なれば、見物群集の賑ひ言語に述がたし。
村山氏の大功、後世の役者尊むべき事なり。

舞台芸術の世界では、バブル経済の破綻した1990年代から、遅れてきた文化バブルとでも言うべきか、文化庁の文化芸術、とりわけ舞台芸術への支援・助成制度が量的に拡大し、96年からは重点的支援策である現在のアーツプランが始まった。
関西歌劇団の母体である財団法人関西芸術文化協会による助成金不正受給事件(10月22日11月4日の『提言と諌言』をお読み戴きたい。)は、見事なほどに氷山の一角であろう。今までにこの制度で支援を受けたものは数百の団体・ホール・劇場に及ぶだろうが、不正をしていないと証拠を出して立証出来るところはほとんど無いだろう。この制度に先行して実施されている、現在の独立行政法人日本芸術文化振興会による芸術文化振興助成対象活動等の助成事業を含めれば、この十数年でも、延べ数千の団体が助成金を受けている。このような助成のあり方を、文辞正しきは『ばら撒き』と言う。この『ばら撒き』、新国立劇場の得意の「チケットばら撒き」程度の事であれば、私ひとりの批判で事が済む。
事は国費(税金)に係わることである。「補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律」によれば、補助金の不正受給は5年以下の懲役もしくは100万円以下の罰金を科せられる犯罪行為である。
年間50億円を超える国費が運営委託費の名目で投入される新国立劇場の遠山敦子理事長、長谷川善一常務理事は、ともに文部(科学)省の出身、所謂天下り官僚である。遠山氏は、このアーツプランを当時文化庁長官として推進、長谷川氏は、この芸術文化振興助成活動を前任の日本芸術文化振興会理事として管掌していた。今後、文化庁が訴訟準備に入り、検察や警察が動くような事になれば、身内の文部科学省の後輩たちばかりか、あまたの芸術文化団体に累を及ぼすことになるだろう。その中には、嫌疑の係る人物も炙り出されるかもしれない。文化行政ばかりか舞台芸術の世界にとっても厳しい事態が来るだろう。
アーツプラン始め助成制度の存廃を議論・検討すべき時期が来たのかもしれない。その際に、最初に取り上げられるのは、新国立劇場の50億円という巨額な国費投入の是非であろう。そして、もし仮にそんな動きが具体化したとしたら、理事長始め百数十人の役職員は、人事を尽して支援を訴え賛同を求めて行動するのだろうか。財務省前や国会議事堂の請願受付で、端座して訴えをするほどの心構えが出来ているのだろうか。
村山又兵衛のように、気概と見識と行動力を持たなければ劇場経営者は勤まらないと思うのだが、民であれ官であれ補助金に慣れ切って自立心を持たない今日の舞台芸術の世界では、望むだけ野暮な話なのだろうか。

2005年11月12日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(参)

一 女形は楽屋にても、女形といふ心を持べし。辧当なども人の見ぬかたへむきて用意すべし。色事師の立役とならびて、むさむさと物をくひ、さてやがてぶたいに出て、色事をする時、その立役しんじつから思ひつく心おこらぬゆへ、たがひに不出來なるべし。
一 所作事は狂言の花なり。地は狂言の實なり。所作事のめづらしからん事をのみ思ふて、地を精ださぬは、花ばかり見て實をむすばぬにひとしかるべし。(中略)花のさくは實をむすぶ為なれば、地をたしかにして花をあしらへと、若き女形へ度々異見せられし。

元禄時代の名女方であった芳沢あやめの芸談「あやめ艸」全二十九條の内のよく知られた二條である。

十歳の頃、道行ものの清元『お染久松』の久松を渋谷の今は無き東横ホールで踊ったことがある。稽古ではお相手の主役・お染さまの拙さに泣かされたが、その外の稽古場まで私の着物を入れた風呂敷を持って付いて来て呉れた内弟子のお姉さんから、その様子を耳にした師匠に諭された。
「下手を相手にしたときには、その下手を上手に見せるように心掛けなさい」。
私も充分に下手の部類だと思っていたが、お染さまよりは上手である事を認められたことがうれしく、稽古よりは出来の良い本番になった覚えがある。師匠のあの時の言葉が、「あやめ艸」にあることは、乙葉先生の講義を受けた時に知る訳だが、彼女が郡司正勝先生と勉強会を続けていた事を知ったのもその頃だった。この師匠には、「浄瑠璃をしっかり読みなさい」「良い舞台を観なさい」などと良く言われた。最近何を読んでいるかと訊かれ、辻邦生と応えたら、「いいセンスしているわ」と、珍しく褒められたりしたのも、その頃だった。
かつて舞踊家は、一級の教養人でもあった。
この師匠のことは、昨年の12月19日の『提言と諌言』<水道橋能楽堂の『劇場の記憶』>に書いたので、ご笑読戴きたい。

一 人の金をかへさず、はらひもせず、家をかい、けつこうなる道具を求め、ゆるゆると暮す人と、相手の損ねる事をかまはず、我ひとり當りさへすればよいと、思ふ役者が同じことなり。金をかしたる人何ほどか腹をたつべし。相手になる役者みじんに成ことなれば、つゐには身上のさまたげともなるなりと申されし。 

享保14(1729)年、57歳で没した吉沢あやめの言葉は、三百年後の今も新しい。
かつて俳優は、一級の観察者でもあった。

2005年11月15日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(四)

今回は元禄時代の大名優・坂田藤十郎などの聞書として知られる金子吉左衛門著「耳塵集」である。

一 或藝者、藤十郎に問て曰、我も人も、初日にはせりふなま覚なるゆへか、うろたゆる也。こなたは十日廿日も、仕なれたる狂言なさるるやうなり。いかなる御心入ありてや承りたし。答て曰く、我も初日は同、うろたゆる也。しかれども、よそめに仕なれたる狂言をするやうに見ゆるは、けいこの時、せりふをよく覚え、初日には、ねからわすれて、舞臺にて相手のせりふを聞、其時おもひ出してせりふを云なり。其故は、常々人と寄合、或は喧嘩口論するに、かねてせりふにたくみなし。相手のいふ詞を聞、此方初て返答心にうかむ。狂言は常を手本とおもふ故、けいこにはよく覚え、初日には忘れて出るとなり。

昨04年6月の当方のHPのリニューアルで、毎月の『推奨の本』というページを始めたが、今年05年3月のそれに、歿後に十代目市川團十郎を追贈された市川三升が書いた 『九代目市川團十郎』(1950年 推古書院刊)を取り上げた。

「父は常に門人等に教えて曰ふ。
台詞は覚えたら一度忘れてしまふことだ。そして又新しく覚える。すると今度はほんたうの自分の腹から台詞が出て来るし個性と言ふものが出て来る。舞台に出てもし台詞がつかえたりすると、ややもすると自分が丸出しになり味もなにも無くなって醜態を演ずることになる。そこを一旦忘れて更に覚え直すことになれば、自然台詞の意味もよくわかり、気分もはっきりするから、徒らに台詞に捉はれるといふことが無くなる。忘れたらその台詞に似た言葉でふさげ。
台詞はただうろ覚えに覚えただけではいけない。腹に台詞を畳み込んで置けば、同じ意味の言葉で責をふさげるから、頓挫を来すことは無い。…」(「時代と世話と」より)

九代目は、この役者論語の耳塵集を若い頃から読んでいたことだろう。このことを舞台で実践し、また実感したことだろう。
「覚えて忘れろ」は、明治の名人のひとり、七世市川團蔵の言葉だったか。
『歌舞伎十八番集』の脚注に郡司正勝氏が書いているが、初代中村吉右衛門はその母から、「せりふをおぼえたら、一度忘れてしまえ、そうでないと、いかにも機械の様になって、本当の味が出ない。舞台にニジミが出ないよ」と教えられたという。ちなみに、この母・嘉女は、市村座の座附茶屋『萬屋』の娘で、上方役者の三代目中村歌六に嫁したが、長子の吉右衛門には、父の真似をしてはいけない、九代目の真似をしなくてはいけないと教え込んだほどの団十郎贔屓で、そんなこともあってか夫婦喧嘩が絶えなかったという。
付け加えれば、この吉右衛門と三代目中村時蔵は正妻・嘉女の子であるが、十七代目中村勘三郎(当代の父)は、還暦を過ぎた歌六とお妾との間に出来た子である。先だっての十八代目襲名披露興行に、親族である二代目吉右衛門や、五代目歌六ほかの一門の主だった俳優が出演していないという異常な事態を、新聞記者や歌舞伎評論家は書いたのだろうか。不勉強で知らなかった者もいるだろうし、判っていながら事情があってか書かなかった者もいるのだろう。
ともに先代になるあの兄弟間にあったであろう諍いが、子や孫の代にも影を落としているのだろう、か。

2005年11月18日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(五)

今回は民屋四郎五郎著の「續耳塵集」から、いくつか採録する。

一 元祖沢村長十郎、狂言に、長持のうちに忍びの者ゐるをしつて、鑓にてつく仕内ありて、長十郎袴のももだちとり、思入してつかつかと行き、なんのくもなく長持をつきしに、坂田藤十郎其時いふやうは、さてさて長持のつきやう心得がたし。ちとちと工夫せられよといひければ、長十郎其夜工夫して、翌日袴のもも立ちを取、長持の傍へつかつかと行、又跡へ戻り袴もおろし、そろそろとさし足して長持の傍へより、聞耳をたて、内に忍びゐる様子を考へて、一ト鑓につきければ、藤十郎手を打て、さてさて驚き入たり。後々は其一人たるべしと、ほめられたるとかや。はたして三ケ津に名人の譽れ高し。

一 金子一高曰く、狂言末になれば、役者ざれ笑ふ。我は末に成ても大事によく勤む。その故は東國西國數百里あなたの人、今日の見物の内に有。其遠方の稀人は、又と見る事なし。名ある役者のざれて見せるは、残念の事也。藝者のたしなむべき義と、同座の人におしへけり。

一 櫻山庄左衛門はせりふ付に便有ゆへ、古歌をよく覺しとて、此人三千餘首古歌をそらにて覺たり。それゆへ庄左衛門はせりふ付上手也と、役者よく用ひたり。

一 片岡仁左衛門曰く、俳諧を仕習ふべし。神祇・釋教・戀、何にても役にしたがひ心も詞も文盲ならず、藝のたよりとなるは、はいかい也とすすめしと也。

一 ある老翁曰く、役者に五徳あり。貴き御方の前にもゆるされ出、諸人に賞せられ、自然と古語を覺へ、又勤めて脛脈をめぐらし、嗜て年若く見ゆ。

昨年6月の当HPのリニューアルで新規に作った『推奨の本』のページでは、度々、岸田國士、岩田豊雄、加藤道夫、千田是也、浅利慶太など演劇の先達の本から、特に演劇人にとっての教養のあり方について言及されているところを採録させてもらった。是非、まとめてお読み戴きたい。
芳沢あやめ、坂田藤十郎など元禄期の名優たちばかりか、下って明治期の九代目團十郎など傑出した俳優たちは、観察者であり、そして教育者でもあった。そして彼等は、それぞれがその時代の一級の教養人であった。
60年代のアンダーグラウンド演劇が勃興してのち、教養のある演劇人は絶滅した。傑出したと呼ぶべき俳優もおらず、規範とすべき作品も無く、規矩正しい演劇人が消えた今、これからの演劇を、次代の演劇人を誰が創り育てるのだろうか。
今年の春から、新国立劇場に演劇研修所が設けられた。所長、副所長を務める演出家たちは、商業演劇、芸能プロなどの芸能人・タレント出演の舞台演出で凌ぎをしている。そんな者たちが中心になって運営している研修所の研修生は15人、今年度予算は6千数百万円である。研修生一人あたりでは4百万円を超える額になるが、全額が国費である。「演劇」や「芝居」という字すら満足に書けない者が多数いるといわれる研修生たちに、芸能界擦れした教養人でも教育者でもない彼等は、一体何を教えているのだろうか。

2005年11月22日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(六)

今回は、「賢外集」「佐渡嶋日記」から採録する。

一 坂田藤十郎曰く、歌舞妓役者は何役をつとめ候とも、正眞をうつす心がけより外他なし。しかれども乞食の役めをつとめ候はば、顔のつくり着物等にいたる迄、大概に致し、正眞のごとくにならざるやうにすべし。此の一役ばかりは常の心得と違ふなり。其ゆへいかんとならば、歌舞妓芝居はなぐさみに見物するものなれば、随分物毎花美にありたし。乞食の正眞は、形までよろしからざるものなれば、目にふれてもおもしろからず、慰にはならぬものなり。よつてかくは心得べしと常々申されし。

一 坂田藤十郎曰く、歌舞妓やくしやといへるものは、人のたいこをもつ氣しやうにては、上手になりがたし。そのやうに心降ると、後は役者同士の出合も、はなはだ疎遠になる物なりと、若き者どもに毎度申されし。

以上は「賢外集」の二條である。
坂田藤十郎がいかなる役者であったか、その一端をご紹介した。
今月末からの京都・南座、新春の東京・歌舞伎座は、鴈治郎改め坂田藤十郎襲名興行である。立派な平成の藤十郎になって欲しい。そして、形ばかりの歌舞伎タレント紛いが目立ち、目利きがいないマスコミや観客が騒がしい昨今の歌舞伎が、滋味深い古典芸能として、今の歌舞伎に失望して去ってしまった見巧者の観客や、ミーハーではない新しい観客が歌舞伎を観るように務めて欲しい。人気だけで芸も品も無い世襲俳優全盛の昨今、これからの観客に、初代藤十郎の偉大さをも知らしめる活躍を望みたい。

「閲覧用書棚の本」の『役者論語』、〆は「佐渡嶋日記」の十六條からひとつ、「日記」内の「しょさの秘伝」という舞踊の心得からひとつを採録する。

一 ひととせ備中國宮内といへる所の芝居へ罷下り、ふと當所にて死去せし古人金子六右衛門が古墳に参らんとこころざし、少シのよすがを求め、やうやう方角を知て、叢の中に分入、ちいさき石塔あり。花をさし水を手向、それよりほとりにて、人をやとい塚の前の薄など刈りとらせ、ほそき板をひろひ得て、矢立の筆にて金子六右衛門墓と書つけ、さしおきたり。天地は萬物の逆旅といへど、取わき役者は、一所不住にて、何國にて終をとるやらん、空しき身の上にてぞ有ける。

一 ふりは目にてつかふと申て、ふりは人間の體のごとし。目は魂のごとし。たましいなき時は、何の用にも立ず。ふりに眼のはづれるを死ぶりといひ、所作の氣に乗て、ふりと眼といつちにするを、活たる振とは申なり。それ故ふりは目にてつかふと心得べき事第一也。はてしなき故筆をとめぬ。

2005年11月24日

「閲覧用書棚の本」其の十五。『中村吉右衛門』(壱)

 ―文壇で会つて見たいと思ふ人は一人も居らぬ。役者の中では会つて見たいと思ふ人がたつた一人ある。会つて見たら、色々の事情から多くの場合失望に終るかも知れぬ。それにも拘らず、芸の力を通して人を牽き付けて止まぬ者は、この唯一人である。この唯一人とは、言ふ迄もない、中村吉右衛門である。

明治44(1911)年8月号の『新小説』に掲載された、小宮豊隆の『中村吉右衛門論』の書出しである。25歳の初世吉右衛門を、27歳の豊隆が論じたものだ。今回は、この『中村吉右衛門論』ほか、豊隆が吉右衛門についてものしたエッセイや、二人の対談が載った、昭和37(1962)年、岩波書店刊の『中村吉右衛門』を取り上げる。

―「人」として教育せられ、又「人」として生活する前に、「型」に育てられ、「型」に活きた今の多くの役者は、「型」を操るには自在の妙を得ても、「型」に相応しき「心」を盛る事が出来なかつた。役者とても人である。人と生れた以上、或る程度に或る種類の閲歴を積んでゐる事に変りはないが、ただ、その閲歴の種類と程度とが多くの場合限られたる範囲を薄く浅く触れてゐるに過ぎなかつた。

―自己の扮すべき役役を自己の閲歴を提げて独自の解釈を試みようとした最初の役者は、恐らく九代目団十郎であらう。(中略)自己天賦の箇性と閲歴とを残り無く傾け尽して、古き「型」に新しき生命を盛つた吉右衛門の努力は、旧型に泥むを棄てて、我から古をなさんとする意気を示すものである。

―我等に直接なる生活経験と全然遠ざかり行かんとする歌舞伎芝居に最も近代的の価値を与へる為には、あらゆる歌舞伎役者は、吉右衛門の踏み行く(また団十郎の踏んだと推せらるる)道を踏まねばならぬ。吉右衛門の踏む道が大なる意味に於て完成する時は、歌舞伎芝居が真の意義に於ける芸術として完成する時である。この道を外にして歌舞伎芝居の進みやうはない。又かくの如くにしてのみ歌舞伎芝居は、形は古くとも、いつ迄も味新しき内容を人に与へ得るものである。

―吉右衛門の芸術を貫く二大特徴は、真摯と熱情とである。換言すれば、熱あり力ありて、ただ一筋に深く突き進まんとする、徹底したる態度の発現といふ事である。台詞廻しに見る劇しい熱著といふのも、この徹底したる態度の変形に外ならない。既に真面目である。駄洒落の分子と遊戯の分子とを欠くのは当然である。既に熱烈である。生温き好悪と生温き愛情とは、その堪え得る処ではない。

―日常生活に於ける吉右衛門は、極めて口数少き人ださうである。更に又、少しも自己に就いて語らぬ人だそうである。劇に関する月刊雑誌、或は新聞記事に見ても、多くの役者は愚にもつかぬ苦心を喋喋広告してゐるに反し、吉右衛門は未だ嘗て自己の苦心を語つて居らぬ。みだりに自己を吹聴して反応を他に求むる者は、自ら信ずる事薄き証拠である。自己を他より得来らんとする、幼稚にして且つ浅ましき心を現はすものである。

豊隆が帝大の学生時分から師事した作家の夏目漱石は、明治44年の夏の盛り、氷の塊を金盥に立てて背に置き、汗を拭きながら吉右衛門論を執筆中の豊隆に手紙を送り、「吉エモンとか申すもの暑さのみぎり故成るべく中らぬ様あつさり願候」と書き添えたという。(「私の『中村吉右衛門論』のこと」)
結果は漱石にとっては予見した通りのものになった。
「書中だからあつさり願い度と云つたら君は畏まりましたと云ふに拘はらず君はあんな暑苦しいものを書いた。暑苦しい思をする以上は其代りに何か頂だかなくつちや割に合はない。君は何を与へたといふ積だろう」(同上)

2005年11月28日

「閲覧用書棚の本」其の十五。『中村吉右衛門』(弐)

―今の興行者や役者が半可な新しがり屋にかぶれて、古いものの新しさを尊重し、愛護する事を忘れるといふ事は、畢竟は彼等自らを滅ぼす日、自ら路頭に迷つて、果てはのたれ死をする日を、自ら招き寄せるといふ事に過ぎない。
事実、縦令それがどのやうに古い年代に書かれた脚本であらうとも、それに新しい解釈を容れ得る内容を持つた脚本であるならば、いつまでも新しいものとして舞台の上に活躍する。例へばこの『勧進帳』のやうな芝居は幾度繰り返して見ても、見る度に新しい、鮮かな驚嘆を私に経験させる芝居である。『勧進帳』は、役者がかなりに下手な役者であつても面白い。役者が旨ければ旨い程、余計に面白くなる。深くも、強くも、劇しくも、大きくも、―どうとも新しく見せる事の出来る芝居である。

―歌舞伎役者は無暗に新作物を演る事の愚をやめて、古い名作を新しく演活す心掛けを持つて貰ひたいといふ事を、毎度の事ながら付け加へて、この一篇を結びたいと思ふ。新しい新しいと世間で言はれてゐる歌舞伎役者と雖も、まだ本当に新しい芝居を見せてはゐない。新しい魂なら、何を表現の方便にしても、其処には屹度新しいものが浮いて来る筈である。(「『勧進帳』の比較」)

最近の渋谷の商業劇場や興行資本がその場凌ぎで遣りたがる、新作や改作ものに対する批判のような文章だが、これは、『中村吉右衛門論』と同じく、『新小説』に載った、90年以上も前の小宮豊隆の批評である。
大正3(1914)年4月、東京の歌舞伎座、市村座、帝國劇場の3座は、『勧進帳』の競演となった。GOLDONIの「閲覧用書棚」にある『帝劇の五十年』(昭和41(1966)年、東宝株式会社刊行)と『歌舞伎座復興記念・歌舞伎座』(昭和26(1951)年、歌舞伎座出版部刊)によれば、歌舞伎座は、十五世市村羽左衛門の弁慶、二世市川左団次の富樫、五世中村歌右衛門の義経。市村座は、六世尾上菊五郎の弁慶、初世中村吉右衛門の富樫、七世坂東三津五郎の義経。帝劇は、七世松本幸四郎の弁慶、六世尾上梅幸の富樫、七世沢村宗十郎の義経であった。
『歌舞伎座』には、「結局劇評を綜合しますと、弁慶は幸四郎に、富樫は左団次に、義経は歌右衛門にと軍配が上がったやうであります」とあり、『帝劇の五十年』では、「弁慶のかぎりは幸四郎に誰もが軍配をあげた。」とある。
しかし、豊隆の印象は全く違うものだった。
「事実、三座の弁慶に対する私の批評の如きは、随分世間の批評家達の見る処と掛離れたものとなつている。」と豊隆は前置きし、羽左衛門の弁慶(歌舞伎座)と吉右衛門の富樫(市村座)を高く評価する。
「幸四郎の弁慶は、あの白痴らしい気の抜けた処のあるのが第一の欠点である。」「殊に羽左衛門は幸四郎に比べて、舞台の空気を支配し得る能力を余計に備えている。」「吉右衛門の富樫は、感激に富んだ、意気のためには凡てを放擲する気組を持つた富樫である。五分も隙かさぬ鋭利な処を、濃やかな、暖かな、大きななさけを包んでゐる富樫である。」と市村座の作品を評価する。

―所謂おのぼりさんを誘き寄せる策略ででもあろう。四月興行の各座は大抵在来の脚本ばかりを選んで舞台に上ぼらせてゐる。それが却つて見物としての私にとつてかなり愉快な事であつた。殊に『勧進帳』のやうな面白い芝居を、歌舞伎、帝劇、市村などの役者が競争の形で、取分けそれに全力を傾けて演じて見せてくれたといふ事は、所謂「新作物」の舌触りの粗い、肥料臭い田舎料理に畏縮してゐた私にとつて、非常な誘惑力を備へた滋味の献立てであつた。

漱石先生の批評で、「頭から『中村吉右衛門論』全体を否定されてしまつた気がした」豊隆だったが、その3年後に書いたこの「『勧進帳』の比較」は、勧進帳の作品解説としても興味深い。
新作物を「肥料臭い田舎料理」と譬える豊隆だが、彼はたぶん自腹を切って月に何本もの芝居を観劇していたのだろう。そんな者は昨今トンと見掛けないが、そのような見巧者でなければ書けない、辛辣だが的確な批評である。

2005年11月30日

「閲覧用書棚の本」其の十五。『中村吉右衛門』(参)

― 『沼津』で役者が見物に口を利くといふ習慣が、いつごろから始まつたものか、私は知らない。第一私には、これが初めての経験である。しかし花道が見物席の中を貫き、ある場合には見物は役者の肉体に触ることもできるやうな状態で、役者がその上で芸をする仕組になつてゐる歌舞伎では、見物席の中から役者が飛びだして舞台に上つて行つて芝居をするといふやうな工夫も随分前からあつたらしいので、この『沼津』の工夫も、恐らく相当古い時分からのものだらうと思ふ。これはある意味で、見物が一緒になつて芝居をするといふことである。少くとも昔の見物はかういふ仕組だの工夫だのがあるために、役者に親近感を持ち、芝居を自分のものと感じ、役者のためにも芝居のためにも親身になつて肩を入れる気になつたに違ひないのである。
もっともこれは実は逆で、昔は見物が役者と親類付合をするやうな関係にあつたから、かういふ仕組だの工夫だのが自然と生れて来たかも知れない。しかし実はそれはどうでもいいことである。大事なことは昔歌舞伎が見物から、自分のものとして愛されてゐたといふことである。
新劇が興隆しそうにしては、またいつのまにかぐづぐづになつてしまふ。それにはいろいろな原因が考へられるが、しかし一番大きな原因は、新劇が見物から、自分のものとして愛されてゐないといふ点にあるのではないかと思ふ。もちろんそのために新劇がすぐ歌舞伎の真似をするがいいかどうかには、議論の余地が十分ある。ただ額縁の向ふで演じられてゐる芝居が、自分たちとはほとんど縁のないものであるといふ感じを与へてゐるのでは、これは歌舞伎でも新劇でも同様であるが、芝居はまづおしまひだといふことだけは、知つて置く必要のあることである。(『沼津』の花道)

豊隆のこの『中村吉右衛門』の中に、唯一「新劇」への言及があったので採録した。
「いつのまにか」「ぐづぐづにな」ってしまう「新劇」。
「ぐづぐづ」こそ、「新劇」の、今も有効な謂なのかもしれない。

『中村吉右衛門論』が『新小説』に載ったとき、豊隆の師である夏目漱石は、
「もつと鷹揚にもつと落ち付いて、もつと読手の神経をざらつかせずに、穏やかに人を降参させる批評の方が僕は真に力のある批評だと云ひたい。」と手紙で窘めた。(「私の『中村吉右衛門論』のこと」)

―私は『中村吉右衛門論』を書いて以来吉右衛門の為に弁じたり、吉右衛門の為に景気をつけたりしてゐるうちに、劇評の専門家のやうなものになつてしまつた。それが漱石先生には気にいらなかつた。これは別に先生が吉右衛門を嫌つたわけでもなんでもなく、ただ私が学問に専念する代りに、劇場内部の浮き浮きした空気の中を、得意そうにあるき廻つてばかりゐることが、私の将来の為によくないと、先生が考へたからである。そのことは先生の手紙だの随筆だのの中にも書かれてゐる。然しその先生は大正五年(一九一六)になくなつた。それとともに私は『漱石全集』の編輯を引きうけることになつたので、到底芝居など見てゐるひまがなくなつてしまつた。自然私は劇評の筆を折り、劇場からも遠ざかることになつた。ただその後も私は吉右衛門の歌舞伎だけは、機会が許す度に断えず観、且つ屡批評して来たのである。

外国文学の研究者や出版の編集者で、演劇の批評に手を染める者がこの時代にも生まれるが、これからは、そんな者達が劇場・ホールの中を得意そうに歩き回る姿を見る度に、吉右衛門の為に弁じたり景気をつけたりしているうちに、劇評の専門家の様になっていた豊隆を叱った夏目漱石を思い出すことが出来そうである。