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「閲覧用書棚の本」其の十五。『中村吉右衛門』(壱)

 ―文壇で会つて見たいと思ふ人は一人も居らぬ。役者の中では会つて見たいと思ふ人がたつた一人ある。会つて見たら、色々の事情から多くの場合失望に終るかも知れぬ。それにも拘らず、芸の力を通して人を牽き付けて止まぬ者は、この唯一人である。この唯一人とは、言ふ迄もない、中村吉右衛門である。

明治44(1911)年8月号の『新小説』に掲載された、小宮豊隆の『中村吉右衛門論』の書出しである。25歳の初世吉右衛門を、27歳の豊隆が論じたものだ。今回は、この『中村吉右衛門論』ほか、豊隆が吉右衛門についてものしたエッセイや、二人の対談が載った、昭和37(1962)年、岩波書店刊の『中村吉右衛門』を取り上げる。

―「人」として教育せられ、又「人」として生活する前に、「型」に育てられ、「型」に活きた今の多くの役者は、「型」を操るには自在の妙を得ても、「型」に相応しき「心」を盛る事が出来なかつた。役者とても人である。人と生れた以上、或る程度に或る種類の閲歴を積んでゐる事に変りはないが、ただ、その閲歴の種類と程度とが多くの場合限られたる範囲を薄く浅く触れてゐるに過ぎなかつた。

―自己の扮すべき役役を自己の閲歴を提げて独自の解釈を試みようとした最初の役者は、恐らく九代目団十郎であらう。(中略)自己天賦の箇性と閲歴とを残り無く傾け尽して、古き「型」に新しき生命を盛つた吉右衛門の努力は、旧型に泥むを棄てて、我から古をなさんとする意気を示すものである。

―我等に直接なる生活経験と全然遠ざかり行かんとする歌舞伎芝居に最も近代的の価値を与へる為には、あらゆる歌舞伎役者は、吉右衛門の踏み行く(また団十郎の踏んだと推せらるる)道を踏まねばならぬ。吉右衛門の踏む道が大なる意味に於て完成する時は、歌舞伎芝居が真の意義に於ける芸術として完成する時である。この道を外にして歌舞伎芝居の進みやうはない。又かくの如くにしてのみ歌舞伎芝居は、形は古くとも、いつ迄も味新しき内容を人に与へ得るものである。

―吉右衛門の芸術を貫く二大特徴は、真摯と熱情とである。換言すれば、熱あり力ありて、ただ一筋に深く突き進まんとする、徹底したる態度の発現といふ事である。台詞廻しに見る劇しい熱著といふのも、この徹底したる態度の変形に外ならない。既に真面目である。駄洒落の分子と遊戯の分子とを欠くのは当然である。既に熱烈である。生温き好悪と生温き愛情とは、その堪え得る処ではない。

―日常生活に於ける吉右衛門は、極めて口数少き人ださうである。更に又、少しも自己に就いて語らぬ人だそうである。劇に関する月刊雑誌、或は新聞記事に見ても、多くの役者は愚にもつかぬ苦心を喋喋広告してゐるに反し、吉右衛門は未だ嘗て自己の苦心を語つて居らぬ。みだりに自己を吹聴して反応を他に求むる者は、自ら信ずる事薄き証拠である。自己を他より得来らんとする、幼稚にして且つ浅ましき心を現はすものである。

豊隆が帝大の学生時分から師事した作家の夏目漱石は、明治44年の夏の盛り、氷の塊を金盥に立てて背に置き、汗を拭きながら吉右衛門論を執筆中の豊隆に手紙を送り、「吉エモンとか申すもの暑さのみぎり故成るべく中らぬ様あつさり願候」と書き添えたという。(「私の『中村吉右衛門論』のこと」)
結果は漱石にとっては予見した通りのものになった。
「書中だからあつさり願い度と云つたら君は畏まりましたと云ふに拘はらず君はあんな暑苦しいものを書いた。暑苦しい思をする以上は其代りに何か頂だかなくつちや割に合はない。君は何を与へたといふ積だろう」(同上)