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「閲覧用書棚の本」其の十五。『中村吉右衛門』(弐)

―今の興行者や役者が半可な新しがり屋にかぶれて、古いものの新しさを尊重し、愛護する事を忘れるといふ事は、畢竟は彼等自らを滅ぼす日、自ら路頭に迷つて、果てはのたれ死をする日を、自ら招き寄せるといふ事に過ぎない。
事実、縦令それがどのやうに古い年代に書かれた脚本であらうとも、それに新しい解釈を容れ得る内容を持つた脚本であるならば、いつまでも新しいものとして舞台の上に活躍する。例へばこの『勧進帳』のやうな芝居は幾度繰り返して見ても、見る度に新しい、鮮かな驚嘆を私に経験させる芝居である。『勧進帳』は、役者がかなりに下手な役者であつても面白い。役者が旨ければ旨い程、余計に面白くなる。深くも、強くも、劇しくも、大きくも、―どうとも新しく見せる事の出来る芝居である。

―歌舞伎役者は無暗に新作物を演る事の愚をやめて、古い名作を新しく演活す心掛けを持つて貰ひたいといふ事を、毎度の事ながら付け加へて、この一篇を結びたいと思ふ。新しい新しいと世間で言はれてゐる歌舞伎役者と雖も、まだ本当に新しい芝居を見せてはゐない。新しい魂なら、何を表現の方便にしても、其処には屹度新しいものが浮いて来る筈である。(「『勧進帳』の比較」)

最近の渋谷の商業劇場や興行資本がその場凌ぎで遣りたがる、新作や改作ものに対する批判のような文章だが、これは、『中村吉右衛門論』と同じく、『新小説』に載った、90年以上も前の小宮豊隆の批評である。
大正3(1914)年4月、東京の歌舞伎座、市村座、帝國劇場の3座は、『勧進帳』の競演となった。GOLDONIの「閲覧用書棚」にある『帝劇の五十年』(昭和41(1966)年、東宝株式会社刊行)と『歌舞伎座復興記念・歌舞伎座』(昭和26(1951)年、歌舞伎座出版部刊)によれば、歌舞伎座は、十五世市村羽左衛門の弁慶、二世市川左団次の富樫、五世中村歌右衛門の義経。市村座は、六世尾上菊五郎の弁慶、初世中村吉右衛門の富樫、七世坂東三津五郎の義経。帝劇は、七世松本幸四郎の弁慶、六世尾上梅幸の富樫、七世沢村宗十郎の義経であった。
『歌舞伎座』には、「結局劇評を綜合しますと、弁慶は幸四郎に、富樫は左団次に、義経は歌右衛門にと軍配が上がったやうであります」とあり、『帝劇の五十年』では、「弁慶のかぎりは幸四郎に誰もが軍配をあげた。」とある。
しかし、豊隆の印象は全く違うものだった。
「事実、三座の弁慶に対する私の批評の如きは、随分世間の批評家達の見る処と掛離れたものとなつている。」と豊隆は前置きし、羽左衛門の弁慶(歌舞伎座)と吉右衛門の富樫(市村座)を高く評価する。
「幸四郎の弁慶は、あの白痴らしい気の抜けた処のあるのが第一の欠点である。」「殊に羽左衛門は幸四郎に比べて、舞台の空気を支配し得る能力を余計に備えている。」「吉右衛門の富樫は、感激に富んだ、意気のためには凡てを放擲する気組を持つた富樫である。五分も隙かさぬ鋭利な処を、濃やかな、暖かな、大きななさけを包んでゐる富樫である。」と市村座の作品を評価する。

―所謂おのぼりさんを誘き寄せる策略ででもあろう。四月興行の各座は大抵在来の脚本ばかりを選んで舞台に上ぼらせてゐる。それが却つて見物としての私にとつてかなり愉快な事であつた。殊に『勧進帳』のやうな面白い芝居を、歌舞伎、帝劇、市村などの役者が競争の形で、取分けそれに全力を傾けて演じて見せてくれたといふ事は、所謂「新作物」の舌触りの粗い、肥料臭い田舎料理に畏縮してゐた私にとつて、非常な誘惑力を備へた滋味の献立てであつた。

漱石先生の批評で、「頭から『中村吉右衛門論』全体を否定されてしまつた気がした」豊隆だったが、その3年後に書いたこの「『勧進帳』の比較」は、勧進帳の作品解説としても興味深い。
新作物を「肥料臭い田舎料理」と譬える豊隆だが、彼はたぶん自腹を切って月に何本もの芝居を観劇していたのだろう。そんな者は昨今トンと見掛けないが、そのような見巧者でなければ書けない、辛辣だが的確な批評である。