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2009年07月 アーカイブ

2009年07月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2009年7月≫

 『丸山眞男 音楽の対話』 中野 雄著
  文春新書  1999年 

 「(略)日本やアメリカでは、コンペティトアで下積みの修業をして、それから地方の歌劇場でじっくりレパートリーを仕込んで、というような地道な人材育成のプロセスを実行してゆく場がない。学校やコンクールで促成栽培された小器用な指揮者ばかりが幅を利かせる安易なシステムが、社会的制度として出来上がってしまっている。ぼくが恐れるのはその結果です。
 世の中の人がそういう音楽ばかり聴かされて、『それでいいのだ』ということになってしまうと、音楽界全般のレヴェルが低下します。何と言っても、音楽の品質を決めるのはその土地の聴衆のレヴェルですからね」
 最近、「フルトヴェングラー以来の大器」と鳴り物入りで登場して来たドイツの若手指揮者クリスティアン・ティーレマンはコレぺティトアあがりの、いわゆる「叩き上げ」である。一九九八年来日時のたび重なるインタヴューにおいても、常に修業過程の重要さを強調していた。ウィーン・フィルの第一コンサート・マスターであるライナー・キュッヘルに会ったときも、彼は「丁稚」という、いまではもう死語になった日本語を用いて同じ問題を語っていた。ちなみに、キュッヘル夫人は日本人で、彼もたいへんきれいな日本語を話す。
 「古い」と一蹴されかねない丸山の意見であるが、画一的な学校教育とコンクール偏重の世の中に対する危機感は、この国でも識者の間に少しずつではあるが広がりつつある。丸山がこんな話をしはじめたのは一九七〇年代の終わりの頃からであった。遺稿となった『自己内対話』にも、同じ時期に書かれたと覚しき次のような一文がある。
 
 [「スキル」の習得は、知識の暗記とちがって、熟練した経験者に親近して「見えざる」教育を受ける過程を必要とするという。 当然の事理がコンピューター時代にあまりにも忘れられていないだろうか。この徒弟制的な教育は、他のあらゆるプロフェッショナル・トレイニングに共通する。(弁護士・教師・研究者・特定の新聞記者)徒弟制の「永遠性」が! そうしてこのことは日本における保守主義の欠如と無関係ではない]
(「音楽と教育について―フルトヴェングラーへの思い入れ」より)

 (略)しかし、丸山眞男を喪ってみると、何か大切な「指針」をなくしてしまったような、人生の方向感覚に狂いを生じたような思いにとらわれることがよくある。遺稿に書かれた「北極星」がわれわれにとって丸山眞男であったということに、没後発見されたこの一文を読んで気付いた。 
 
「教訓めいた言葉をほとんど耳にしていない」と書いたが、振り返って二度だけ、「教えを受けた」と思ったことがある。 一度は銀行員から会社経営者に転じた時。当初の担当が財務であると話したら、いきなり、「研究所にあまり金を出してはいけないよ」と言われた。
 「研究者に金を与えると、材料と情報でものを作りたがる。自分の頭で考えなくなる。大企業の中央研究所がロクな成果を挙げえないのはそのためです。日本が最も独創的な文化を生み出したのは江戸時代――鎖国の二百数十年間でした。明治開国以来この国が世界に誇る文化を一つでも創造しましたか!」
 私の転職先はエレクトロニクス、今でいうハイ・テク企業であった。それだけに丸山の教えは身に堪えた。実行するには満身創痍の覚悟が必要であった。

 そのあと、例によって音楽談義になった。
 「音楽のなかでもっとも純粋で、内容が高度なのは弦楽四重奏でしょう。弦だけのアンサンブルというのは絵で言えば墨絵かデッサン、モノクロームの世界です。だから高度な精神的内容が要求される。ベートーヴェンのような人の最高傑作が弦楽四重奏になるのは必然と言っていい。管やピアノは色彩の要素でしょう。他の楽器が入ると作曲者はそれの効果に頼ろうとする。面白い曲は出来るけれど、中身がどうしても薄くなる傾向があります」

 もう一つ。私がコンサートやレコードの制作に関わるようになったある日、持参したCDを聴きながら丸山が私の方に顔を向けた。
 「日本の評論界にはけじめが欠けているね。評論家がプログラムやCDの解説書に筆を執っている。お礼をもらうんでしょう。原稿料の形で……。書けば対象に情が移る。冷静不偏な批評など、期待できないんじゃないかな。もっとも、頼む方はそれを計算に入れてのことでしょうが……。
 ぼくが好きなニューヨーク・タイムスのハロルド・ショーンバーク――。この人は絶対に解説文は書かなかった。評論一本です。イギリスのタイムスは、たしか社則で禁じているんじゃないでしょうか。もちろん、その代償は新聞社が評論家に払っていると思いますけれど。日本は、会社も個人も、そこまで行っていないんですね。まだ、何かが違います。
 君はプロデューサーで、よく解説文を書いていますね。だから、批評文は仮に頼まれても書いてはいけません。評論はしない方がいいです。」
 丸山の生き方で学ぶべき最大なるもののひとつは、このけじめ――精神の貴族性ではないか……。その瞬間、心が引き締まるのを覚えた。
(「あとがきに代えて―北極星のたとえ」より)

2009年07月04日

劇場へ美術館へ≪GOLDONI/2009年7月の鑑賞予定≫

[演劇]
*9月6日(日)まで。          汐留・電通四季劇場
劇団四季公演『ウィキッド』
劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/

[歌舞伎]
*29日(水)                 板橋区民文化会館
『公文協主催 松竹大歌舞伎』
演目:「伊賀越道中双六」「奴道成寺」
出演:吉右衛門 歌六 芝雀 歌昇 染五郎 ほか
 
[音楽]
*2日(木)                銀座・王子ホール 
『ウィーン・ゴールデン・ハープ・トリオ』
出演=グザヴィエ・ドゥ・メストレ(ハープ)、ウォルフガング・シュルツ(フルート)
    フランツ・バルトロメイ(チェロ)
演奏曲目:ハイドン:フルート、ハープ、チェロのためのトリオ ト長調 Hob.XV-15
      (フルート、チェロ、ハープ)
     J. シュトラウス Ⅱ:ロマンス ニ短調 Op.243、ト短調 Op.255(チェロ&ハープ)
     マルセル・グランジャニー:ハイドンの主題による幻想曲(ハープ・ソロ)
     ハイドン:アダージョ ヘ長調 Hob XVII-9(ハープ・ソロ)
           :変奏曲 ハ長調 Hob.XVII-5(ハープ・ソロ)
     フォーレ:シシリエンヌ、子守唄、幻想曲(フルート&ハープ)
     ラヴェル:ソナチネ(フルート、チェロ、ハープ)

*13日(月)     初台・東京オペラシティコンサートホール
『PMFウィーン演奏会』―ウィーンフィル首席奏者による―
出演:ヒンク(ヴァイオリン)、ドレシャル(チェロ)、シュミードル(クラリネット)ほか
演奏曲目:モーツァルト:ディヴェルティメント ニ長調K.136
               クラリネット五重奏曲イ長調K.581
      シューベルト:八重奏曲ヘ長調作品166
 
*30日(木)                 浜離宮朝日ホール
『秋吉敏子&ルー・タバキン』

[展覧会]
*7月26日(日)まで。          三番町・山種美術館
没後60年記念『上村松園 美人画の粋』

*7月28日(火)まで。          虎ノ門・大倉集古館
『大倉喜八郎と大倉集古館』―事業と美術品蒐集の軌跡―    

*9月6日(日)まで。         両国・江戸東京博物館
『写楽 幻の肉筆画』
 ―ギリシャに眠る日本美術 マノスコレクションより―


2009年07月06日

「財団法人新国立劇場運営財団の存廃」について考える(三)

自民党政務調査会・無駄遣い撲滅担当チームが向ける新国立劇場への厳しい眼差し(3)  

 6月8日の政策棚卸しに出席した同チームのメンバーである亀井善太郎衆議院議員のホームページには、当日の判定についてのコメントが書かれている。今回はその一部を紹介する。

 そのコラムのタイトルには、「ぜんぶダメ! あまりの深刻さに絶句/文部科学省「天下り法人」政策棚卸し」とあり、

 ―独立行政法人 日本芸術文化振興会、財団法人 新国立劇場運営財団 【両者を統合すべき】
 
 振興会は歌舞伎、文楽、落語などの日本の伝統芸能に関する劇場の保有と運営を担当。
 新国立は振興会からの委託を受けて、オペラ、バレエなどの西洋舞台芸術に関する新国立劇場の運営を担当。
 新国立は、主に、振興会からの交付金によって賄われています。
 二つの組織それぞれに天下りポストがありますが、加えて、新国立の方が天下り報酬は大きい状況(数千万円)にあります。
 二つの組織を分ける意味、さらに、新国立の天下り役員の付加価値については、きちんとした説明は得られませんでした。
 となれば、両者を統合し、天下り役員を無くしてコストを削減したうえで、本来充実すべき芸術分野に資源を集中すべきです。
  
 ―と結論付けている。

 ちなみに、「抜本的な改善が必要」と判定された、独立行政法人日本スポーツ振興センターのナショナルトレーニングセンターについては、

 ―平成18年に220億円の国費で施設整備されましたが、わずか2年でJOC(日本オリンピック委員会)からの施設利用料が半減。
 (不足分は国費、つまり国民の税金による負担増に)
 聞けば、JOC傘下の各スポーツ団体の資金負担力を踏まえれば、半減した水準しか払えないのがわかったとのこと。
 ハナシになりません!! そもそも、二年前でも、この数字はわかったはずです。この程度の数字も検証していないとは・・・。
 文科省官僚のレベルの低さに愕然とします。
 加えて聞けば、併設の宿泊施設の稼働率も55%。どのくらいの需要があるのか、予め見込みを立てて作るのがあたりまえです。
 施設の維持修繕費、光熱水道費についても想定が曖昧です。
 文科省のハコモノは後年度の国民負担をマジメに考えていないことがここでも証明されました。
  
 ―との記載がある。
 
  「人材は、活用しなければなりません。一方的な公務員バッシングが国益にかなっているとは思いません。公務員は使いこなすもの。能力を十分に活用して働いてもらうようにすることが、私の役割」と繰り返し発言する与党・自由民主党総裁である麻生首相には、「文科省官僚のレベルの低さに愕然」とし、「文科省のハコモノは後年度の国民負担をマジメに考えていない」との身内の若手議員の悲痛で厳しい官僚批判は、「一方的な公務員バッシング」に聞こえるのだろうか。

 

2009年07月18日

「閲覧用書棚の本」其の十八。『人物評論』創刊號(一)

大宅壮一編輯『人物評論』創刊號

<目次>

◆創刊の辭(巻頭言)           ( 大宅 壮一)  
藤村・有三・義三郎の假面を剝ぐ
 ―看板に僞りあり              郷  登之助
人物評論學                   杉山  平助
白露の將軍                   大佛  次郎
人物評論
 ―各務 鎌吉論              森田   久 
 ―林  房雄論               貴司  山治
 ―城戸 元亮論               伊藤金次郎
 ―堺  利彦論               山崎今朝彌
 ―長谷川時雨論             林  芙美子 
◇新人推奨 ◇人物風土記 ◇關西女人風景
◇ダンサーの見た紳士達 ◇滿鐡の人々
◇海外人物ニュース
國民精神文化研究所の人々       福智院 七郎     
低能教授列傳(帝大・早大・大商大)   A  B  C 
無能校長列傳                X  Y  Z
◆生殺陣(文化時評) 
◆鵺を射る 杉本幸次郎のイデオロギー 松林 忠太郎
藝術派新人論                中河  與一
プロ派新人論                龜井 勝一郎
女流詩壇新人論              大木  惇夫
中里介山・人と生活             笹本   寅
佐藤春夫氏の鼻              龍膽  寺雄    
顔面解剖學(正力松太郎・及川道子)
偶像を破壊す(徳富蘇峯・永田秀次郎)
インポシブル・インタビユウ
 ―1.赤垣源蔵と尾崎士郎
 ―2.釋迦と武者小路實篤
 ―3.楠正成と直木三十五
◆新聞に出ないニュース(無為替に惱む三井の安川)
經濟雑誌總まくり              印地  其氏 
生神様を裸にす(光瑞の兄弟達)     諏訪  開藏
◇思想善導物語  ◇學界ゴシツプ
特輯小説
 ―池田成彬                 久野   豐彦
 ―吉良上野                武田 麟太郎
 ―藏原父子                落合  三郎 
附録 人物内報
 ◆文壇内報  
   ・青野季吉の早大身賣   ・久野豐彦ノーズロ金山發見
   ・作家同盟親族會議の圖  ・武田麟太郎つひに結婚す
   ・平林たい子を守る歌
 ◆政界内報
   ・松岡全權人氣失墜      ・政界人物キキン
   ・中野にのらぬ平沼      ・内相になれない宇垣
   ・戰々恟々の政友會
 ◆財界内報
   ・今太閤小林馬脚をあらはす   ・横柄老大川のかはりやう
   ・齋藤定吉の孤獨地獄       ・森永キャラメル社長赤字ザンゲ
   ・ふるへてゐた山田白木屋専務
 ◆映畫内報
   ・義信すみ子愛の破局か     ・不二映畫つひに解散 
   ・逢初夢子便所内の傑作     ・重右衛門さん總ナメ
   ・城戸所長の過ぎたイタズラ
 ◆スポーツ内報
   ・暴動の直接責任者は文部省  ・スポーツ結婚三重奏
   ・楠本宮崎をめぐる爭奪戰     ・資金難になやむデ盃戰
   ・ラグビー有爲轉變
 ◆ヂャーナリズム内報
   ・野間報知と野依帝都の好取組 ・千倉書店主九日社長となる
   ・鶴見祐輔の讀賣入り       ・春陽堂の醜態と菊池寛の違約
   ・圓本の祟りとインチキ限定版

<奥付>

昭和八年二月二十日 印刷
昭和八年三月  一日 發行

東京市日本橋區南茅場町六〇番地
發行編輯兼印刷人   宮島 正男

東京市日本橋區南茅場町 茅場町會舘
        人  物  評  論  社
        電話  茅場町九五五番
        振替 東京七四〇九〇番  

2009年07月24日

「閲覧用書棚の本」其の十八。『人物評論』創刊號(二)

看板に僞りあり  郷 登之助

―藤村・有三・義三郎等の假面を剝ぐ

 1.文壇「ルーブル詐欺」
 現在の社會では、大抵の人間は、他人を何等かの形式で欺くことによつて生活してゐるのである。もつとも巧妙に、もつとも合法的に、他人を欺くすべを心得たものが、今日の社會における「成功者」である。
 嘘だと思ふなら、日々の新聞をみるがいい。意識的な虚僞や、過失的な誤報を除いても、何等かの誇張や歪曲を含まない記事は絶無だといつていいくらゐだ。誇張や歪曲も、たしかに欺瞞の一形式である。
 政治・經濟界、思想界を初め、複雑多端な一般社會現象の中から、或る事件を選んで報道するといふことは、どんなに「公正」らしく見せかけても、やはり一つの歪曲である。ことに大衆の生活にとつて、もつとも重要な事件が起つてゐるにもかかはらず、それを隠蔽したり、默殺したりするといふことは、形式的には消極的であるが、實質的にはたしかに積極的な欺瞞である。
 かういふ欺瞞は、新聞の記事面においてばかりでなく、廣告面でもよく現れてゐる。否、この方が遥かに露骨で、大膽だ。近頃の廣告の大部分は、廣告でなくて、詐欺だ。それはインチキ賣藥や、化粧品や、どりこのや、またそれらと何等選ぶところのない通俗雑誌ばかりでなく、インテリ相手の出版物にも、その傾向が甚だしくなつてきた。
 かくて直木三十五の最大の愚作「日本の戰慄」が、廣告では「レマルクの『西部戰線異狀なし』以上の傑作」になり、「待合ファッショ」の某々が、藝者を傍に侍らして、一杯氣嫌で投ぐり書きしたヨタ文學が、「至誠至忠、萬人を感泣せしむる愛國の大文學」となる。かうなると、廣告もまた有難いかななどといつてはおれなくなる。たちの惡い點では、近頃頻々と新聞によく出る「ルーブル詐欺」などよりも、ずつと徹底してゐるわけだ。

 2.一聯の「模造聖人」たち
 更に、もつといけないことは、この種の廣告が、世人を欺くばかりでなく、廣告される本人自身を欺くことである。つまり、廣告によつてデッチあげられた虚像を自分自身の實像だと思ひこむことだ。その實例は、文壇思想界から、いくらでも拾ひ出すことができる。かの島田清次郎の悲惨な生涯などは、その典型的なものである。その他、倉田百三、有島武郎、武者小路實篤等々の一聯の「模造聖人」たちは、すべてこれに属する。廣告文書きの巧妙なタクトに操られて、世人と共に自分自身を欺くことが、最後にどんな結果をもたらすかは、これらの愛すべく憐れむべきドンキホーテの末路が、明らかに證明してゐる通りである。
 しかしながら、この種の「模造聖人」たちは、無邪氣で、好感がもてる。一番よくないのは、このコンマーシャリズムを巧みに利用して、自己の商品價値を不當につりあげてゐるばかりでなく、藝術的にいつても、素晴らしい價値をもつてゐるかの如く見せかける技術をもつてゐる手輩である。前記の「模造聖人」たちは、いくらか自分で自分を「信仰」してゐるから、實像と虚像とのギャップがばれやすい。そして一度ばれだすと、収拾がつかなくなる。自分に對する「信仰」がぐらついてくる。さうなると、まつたくみじめなものだ。
 ところが、さういふ「信仰」をすらもち合せてゐない連中は、自分をつくらふことが甚だ巧妙だから、容易にボロが出ない。宗教界でも、自分は爪の垢ほどの信仰をもたないで、大變な信者のやうに見せかけてゐる徹底した職業的宗教家は、決して尻尾を出して失業しないと同様に、文壇、思想界にも、さういふ連中が決して少くない。
 もつとも、それが完全に職業化し、長年月にわたつて、つひに習ひ性となり、虚像の衣が垢じみて、皮膚のやうになつて本人のからだにぴつたり食つついてゐる連中は、もはや自分でも衣だか膚だかわからなくなつて、人から剥がされて、はじめてびつくりするだらう。それだけに、それを剥ぎとるのは、なかなか容易ではないが、文化的には重大な意義を有するわけだ。
 それは單なる作品の品定めや、評論の誤謬指摘のやうな、ケチな仕事ではない。まづ文壇から始めよう。

 3.この「努力」「精進」「嚴格」!
 現文壇における最大のインチキ師は、島崎藤村、山本有三、十一谷義三郎の三人だと書いたら、誰しも驚いて目を丸くするばかりでなく、筆者自身を緣日商人的インチキ師だと思ふだろう。人のいい文學靑年たちは、早速ゲンコを固めて、筆者の上へのしかかつてくるかも知れない。しかしまあ、さう昂奮しないで、筆者のいふことを一通りきいてもらひたい。その上でなら、筆者は喜んでこの禿げた頭を差しのべよう。
 もつとも、ほんとの文壇の消息通で、よく人間の本質を見ぬきうる明をもつた男だつたら、「はあん、やりをつたわい」と、うなづいてくれるかも知れない。さういふ人たちも、一應は筆者の言ひ分をきいてほしい。
 何分藤村は、文壇の大僧正だし、有三も義三郎もすでに管長格だ。おまけにこの三人は、ヨタモンやインチキ師で充満してゐる文壇でも、もつとも「良心」的な存在で、いはば文學の守護神である。この三人を除いたら、日本の現文壇を見わたして、どこに藝術家らしい藝術家がゐるか、とさへ考へられてゐる。だが、筆者は反對に、そこまで世人を「信仰」させることに成功した彼等の手練手管にかねがね感嘆し、敬服してゐるのである。
 誰でもちよつと氣をつければわかるやうに、この三人には、著しい共通性がある。彼等の手品のタネを探るには、まづこの共通性が第一の手がかりになる。同じ穴の貉は、大體同じ方法で身をかくすすべを心得てゐるから。
 この三人はいづれも、才能の作家ではなくて、「努力の作家」だといはれてゐる。彼等が現在えてゐる文壇的地位は、たしかに才能以上であることは、誰しも認めてゐるところであるが、それは彼等の倦まざる努力の結果であり、藝術に對する絶えざる精進の賜だと考へられてゐる。それに彼等は、揃ひも揃つて、身を持することにいたつて「嚴格」である。酔つぱらつて銀座を流して歩くやうなことは、決してやらない。事實少しもやらないかどうか疑問だが、少くとも公衆の眼にとまつて、ゴシップ種になるやうなところでは、斷然やらない。ときにはゴシップ種になるやうなことがあつても、それはかへつて彼等の「嚴格」さを裏書きするやうなものしか傳へられない。またさういふゴシップの中にさへ、少しでも誤傳があると、「藝術家」らしくヒンシュクして、嚴重に抗議することを忘れない。 
 彼等の手品のタネに、この「努力」この「精進」この「嚴格」の中に潜んでゐるのである。それらによつて彼等は、自分たちの地位や商品價値を不當につりあげてゐるのだ。 (以下省略)

2009年07月27日

「閲覧用書棚の本」其の十八。『人物評論』創刊號(三)

顔面解剖學 
正力松太郎―縛る男か縛られる男―

 この面がまへは、誰がみても、縛る方か、縛られる方かのどつちかで、ただの人間でないことは明らかである。縛る方でいへば、強力掛長か内鮮課長、縛られる方でいへば、強盗・強姦・殺人等の強力犯か、少くとも博徒の親分の貫禄は、十分具つてゐる。
 野心的な眼、物慾の旺盛さうな口、顔の眞中に、砂の中から半身を現したスフィンクスのやうに乗り出して、あたりを支配してゐる鼻、どこをみても、近代人らしいスマートなところはちつともない。それでゐて彼の支配下にある讀賣新聞は、新聞といふよりもむしろ日刊綜合文化雑誌に近いんだから、甚だ愉快だ。
 彼が社長として入社したとき、「前官房主事」といふ何となく不気味な肩書から、このよろよろの日刊雑誌が、一體どうなることやらと思はれたが、頽勢を一擧に挽回したばかりでなく、文化的要素も失はれるどころか、かへつて一層豐富になつた。その代り折々とんでもない失敗を演じる。いつか德富蘇峰が國民新聞で、深尾須磨子のことを現代の清少納言だとか何とか褒めたのを讀み、早速彼女の家へ自動車を乗りつけて、月給二百圓で招聘する契約を結んだといふ。當の須磨子さん、狐につままれたやうに、目をパチクリさせたことはいふまでもない。もちろん、長つづきはしなかつたが、正常ナンセンス子を雇ひ入れて政治家を訪問させたり、辯士くづれでも何でも引つぱりこんで、短期契約で面白さうなところを吐き出させる技術はなかなかうまいもの。これは文化なんてものに取引以上の關心をもたないものでないと眞似られない藝當である。
 とにかくこの顔をみていると、猛烈な支配慾といつたやうなものが、マザマザと感じられる。しかもその支配は、いはゆる「王道」でなく「覇道」である。彼は朝早くから夜遅くまで編輯室に頑張つて、一つ氣に入らないと、幹部級の人間でも、小僧のやうに叱りつけるばかりでなく、社内スパイを放つて、誰が社の封筒を浪費するかといふことまで知つてゐるさうだ。前身が前身だけに、さういふ噂も立つのだらうが、それでは現在以上の大をなすことはむづかしいといはねばならぬ。


生殺陣
――<文化時評>――

 非常時内閣のヴオーカリスト永井拓相、「赤旗」で送られた堺利彦の葬儀に参列して、貴族院で叱らる。悲しくもあり、目出度くもある。(A)

            ◇

 鶴見祐輔が久しぶりでメリケンから來朝した。(彼アメリカに行けば、「歸米す」といはれる)この俗物の大元締、今度は何をいふかと思つたら、「テクノクラシー」ときた。そんなことで、又代議士になるためのハクをつけやうなどとたくらんでゐるから、祐輔なんざ「土偶の法螺師」(デクノホラシー)だつてんだ。(E)

            ◇
 
 先月、ロンドンの客舎で、テオドラ夫人に永別し、遥々長文の「遺書」をファッショ日本に寄せた老萼堂、近く「生ける屍」を携へて歸る。彼の言、論旨に多くの矛盾を含みつつも、なほ傾聽に價す。現在日比谷座に禄を食む四百頭髗のうち、ブルジョア自由主義のために氣を吐く唯一最後の存在といふべし。

            ◇

 文壇反動化の最大の惡弊は、正宗白鳥の如き金利生活者的存在を跋扈させてゐることである。長い間かかつて蓄へた小金を抱きつつ、依姑地と退嬰性をもつてケチをつけて歩くことを老後の樂しみにしてゐる五十婆に似たり。例へば、大佛次郎の「手紙の女」を評して曰く、「『赤穂浪士』以後進歩がない」と。――いつたい、お手前の批評にしろ、作品にしろ、自然主義以来の進歩が、少しでもあると思つてゐるのか。(A)

2009年07月30日

「閲覧用書棚の本」其の十八。『人物評論』創刊號(四)

≪政界内報≫
松岡全権人氣失墜
―同僚の嫉妬と性格の祟り  荒木の影も薄らぐ

 國際的にも、日本的にも、あれ程壓倒的な人氣を持つてゐるらしいジュネーブ全権、松岡洋右の評判が、この頃に至つて特に御本尊の外務省方面に、格別惡いと云ふ確かなニュースがある。今迄のデクの棒式な、英語一つろくに話せぬ全権に比べると、洋右先生あまり器用に、派手に、上手にやつてのけたため、却って御殿女中式役人根性から、漠然と嫉妬された結果だらうと、某消息通は語つてゐるが、實は他にも原因があるらしい。
 松岡と云ふ男は、大體がアメリカじこみの半毛唐人で、よく饒舌るし、よく議論もするし、とかく俺ほど頭のいい人間はナイぞ、と云つた風な高慢ちきな性格である上に、滿鐡でも、實業界方面でも、誰からも煙つたがられて來た人物なのである。洋右に一番必要なのは、お饒舌を慎むことと、高慢な量見を捨てる事と、もう少し馬鹿になる事。結局は俺が、俺がと、どの席へも出しやばらぬ事などである。人間から受ける感じには、鶴見祐輔を少し大人にした様なクサミがあるからいけない。どうせ洋右の大芝居は、内田外交の強腰と云ふよりも、荒木貞夫をめぐる連中の支持があるから、あれだけ派手にやれたわけに違ひないが、この頃の政變の中心がまた少し變つて來て、荒木の痩せた髯つ面が、少々ばかり影も薄くなつた様に考へられるのは面白い。
 

≪財界内報≫ 
今太閤馬脚を現はす 
―「おれは齋藤首相と同ぢや」とインチキな智慧の出しやう

 没落人では智慧者今太閤で通つた小林一三が、俺が俺がで東電に乗込んでみたところ、いくら智慧者でも宇宙の進化を逆に廻すことはできないので、一年たつても二年たつても相變らず東電は腰が立ちさうもない。流石の今太閤もよる年並みで、いくら頭を叩いても智慧が出なくなつた。やうやく小林でだめだとわかつたので、やつと去年の暮ごろから、東邦電力の松永安左衛門に押し出されさうだ、などといふ噂もぽつぽつ廣がりはじめた。小林の洋行説などもこのごろ出たものだ、ところでこれに對する智慧者の末路を思はせるやうな小林の見榮が面白い。いつも新しいことがわかつてゐるやうなことをいひたがる彼がいふには、今日の經濟界は従來の正統的な經濟原則は當てはまらなくなつた。それは政治でも同じことで、このごろは従來の憲政の常道といふことが必ずしも行はれなくなつた。そしてさういふ時局を救ふためには、政治の専門家ではない齋藤子などが内閣をとるやうになつた。しかしこれは一時の難局を救ふためのものであるから、それを切抜ければ再び専門政治家に渡してやるだらう。これは電氣事業などの方でも同じで、僕(小林)が東電をやるのはある期間の難局に處するためだ、だから一定のところまでくれば後は松永君なり誰なりに渡すことになるのだと、自分を齋藤實と同様に説明するところなどに細かい藝がある。智慧の出し方が少しインチキになつてきた。