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「閲覧用書棚の本」其の十八。『人物評論』創刊號(二)

看板に僞りあり  郷 登之助

―藤村・有三・義三郎等の假面を剝ぐ

 1.文壇「ルーブル詐欺」
 現在の社會では、大抵の人間は、他人を何等かの形式で欺くことによつて生活してゐるのである。もつとも巧妙に、もつとも合法的に、他人を欺くすべを心得たものが、今日の社會における「成功者」である。
 嘘だと思ふなら、日々の新聞をみるがいい。意識的な虚僞や、過失的な誤報を除いても、何等かの誇張や歪曲を含まない記事は絶無だといつていいくらゐだ。誇張や歪曲も、たしかに欺瞞の一形式である。
 政治・經濟界、思想界を初め、複雑多端な一般社會現象の中から、或る事件を選んで報道するといふことは、どんなに「公正」らしく見せかけても、やはり一つの歪曲である。ことに大衆の生活にとつて、もつとも重要な事件が起つてゐるにもかかはらず、それを隠蔽したり、默殺したりするといふことは、形式的には消極的であるが、實質的にはたしかに積極的な欺瞞である。
 かういふ欺瞞は、新聞の記事面においてばかりでなく、廣告面でもよく現れてゐる。否、この方が遥かに露骨で、大膽だ。近頃の廣告の大部分は、廣告でなくて、詐欺だ。それはインチキ賣藥や、化粧品や、どりこのや、またそれらと何等選ぶところのない通俗雑誌ばかりでなく、インテリ相手の出版物にも、その傾向が甚だしくなつてきた。
 かくて直木三十五の最大の愚作「日本の戰慄」が、廣告では「レマルクの『西部戰線異狀なし』以上の傑作」になり、「待合ファッショ」の某々が、藝者を傍に侍らして、一杯氣嫌で投ぐり書きしたヨタ文學が、「至誠至忠、萬人を感泣せしむる愛國の大文學」となる。かうなると、廣告もまた有難いかななどといつてはおれなくなる。たちの惡い點では、近頃頻々と新聞によく出る「ルーブル詐欺」などよりも、ずつと徹底してゐるわけだ。

 2.一聯の「模造聖人」たち
 更に、もつといけないことは、この種の廣告が、世人を欺くばかりでなく、廣告される本人自身を欺くことである。つまり、廣告によつてデッチあげられた虚像を自分自身の實像だと思ひこむことだ。その實例は、文壇思想界から、いくらでも拾ひ出すことができる。かの島田清次郎の悲惨な生涯などは、その典型的なものである。その他、倉田百三、有島武郎、武者小路實篤等々の一聯の「模造聖人」たちは、すべてこれに属する。廣告文書きの巧妙なタクトに操られて、世人と共に自分自身を欺くことが、最後にどんな結果をもたらすかは、これらの愛すべく憐れむべきドンキホーテの末路が、明らかに證明してゐる通りである。
 しかしながら、この種の「模造聖人」たちは、無邪氣で、好感がもてる。一番よくないのは、このコンマーシャリズムを巧みに利用して、自己の商品價値を不當につりあげてゐるばかりでなく、藝術的にいつても、素晴らしい價値をもつてゐるかの如く見せかける技術をもつてゐる手輩である。前記の「模造聖人」たちは、いくらか自分で自分を「信仰」してゐるから、實像と虚像とのギャップがばれやすい。そして一度ばれだすと、収拾がつかなくなる。自分に對する「信仰」がぐらついてくる。さうなると、まつたくみじめなものだ。
 ところが、さういふ「信仰」をすらもち合せてゐない連中は、自分をつくらふことが甚だ巧妙だから、容易にボロが出ない。宗教界でも、自分は爪の垢ほどの信仰をもたないで、大變な信者のやうに見せかけてゐる徹底した職業的宗教家は、決して尻尾を出して失業しないと同様に、文壇、思想界にも、さういふ連中が決して少くない。
 もつとも、それが完全に職業化し、長年月にわたつて、つひに習ひ性となり、虚像の衣が垢じみて、皮膚のやうになつて本人のからだにぴつたり食つついてゐる連中は、もはや自分でも衣だか膚だかわからなくなつて、人から剥がされて、はじめてびつくりするだらう。それだけに、それを剥ぎとるのは、なかなか容易ではないが、文化的には重大な意義を有するわけだ。
 それは單なる作品の品定めや、評論の誤謬指摘のやうな、ケチな仕事ではない。まづ文壇から始めよう。

 3.この「努力」「精進」「嚴格」!
 現文壇における最大のインチキ師は、島崎藤村、山本有三、十一谷義三郎の三人だと書いたら、誰しも驚いて目を丸くするばかりでなく、筆者自身を緣日商人的インチキ師だと思ふだろう。人のいい文學靑年たちは、早速ゲンコを固めて、筆者の上へのしかかつてくるかも知れない。しかしまあ、さう昂奮しないで、筆者のいふことを一通りきいてもらひたい。その上でなら、筆者は喜んでこの禿げた頭を差しのべよう。
 もつとも、ほんとの文壇の消息通で、よく人間の本質を見ぬきうる明をもつた男だつたら、「はあん、やりをつたわい」と、うなづいてくれるかも知れない。さういふ人たちも、一應は筆者の言ひ分をきいてほしい。
 何分藤村は、文壇の大僧正だし、有三も義三郎もすでに管長格だ。おまけにこの三人は、ヨタモンやインチキ師で充満してゐる文壇でも、もつとも「良心」的な存在で、いはば文學の守護神である。この三人を除いたら、日本の現文壇を見わたして、どこに藝術家らしい藝術家がゐるか、とさへ考へられてゐる。だが、筆者は反對に、そこまで世人を「信仰」させることに成功した彼等の手練手管にかねがね感嘆し、敬服してゐるのである。
 誰でもちよつと氣をつければわかるやうに、この三人には、著しい共通性がある。彼等の手品のタネを探るには、まづこの共通性が第一の手がかりになる。同じ穴の貉は、大體同じ方法で身をかくすすべを心得てゐるから。
 この三人はいづれも、才能の作家ではなくて、「努力の作家」だといはれてゐる。彼等が現在えてゐる文壇的地位は、たしかに才能以上であることは、誰しも認めてゐるところであるが、それは彼等の倦まざる努力の結果であり、藝術に對する絶えざる精進の賜だと考へられてゐる。それに彼等は、揃ひも揃つて、身を持することにいたつて「嚴格」である。酔つぱらつて銀座を流して歩くやうなことは、決してやらない。事實少しもやらないかどうか疑問だが、少くとも公衆の眼にとまつて、ゴシップ種になるやうなところでは、斷然やらない。ときにはゴシップ種になるやうなことがあつても、それはかへつて彼等の「嚴格」さを裏書きするやうなものしか傳へられない。またさういふゴシップの中にさへ、少しでも誤傳があると、「藝術家」らしくヒンシュクして、嚴重に抗議することを忘れない。 
 彼等の手品のタネに、この「努力」この「精進」この「嚴格」の中に潜んでゐるのである。それらによつて彼等は、自分たちの地位や商品價値を不當につりあげてゐるのだ。 (以下省略)