2017年03月

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2017年02月 アーカイブ

2017年02月06日

劇場へ美術館へ《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年2月の鑑賞予定》

[演劇]
*2月18日(土)から27日(月)まで。 新宿・紀伊國屋サザンシアター
文学座公演
『食いしん坊万歳!ー正岡子規青春狂詩曲ー』

*2月28日(火)、3月1日(水) 練馬文化センター小ホール
劇団青年座公演
『見よ、飛行機の高く飛べるを』

[演芸]
*2月11日(土)から20日(月)まで。 半蔵門・国立演芸場
2月定席公演
『中席 大喜利 鹿芝居「らくだ」

[音楽]
*2月17日(金) 錦糸町・すみだトリフォニーホール
『セドリック・ペシャ ピアノ・リサイタル』


[美術]
*2月19日(日)まで。 両国・東京都江戸東京博物館
『徳川将軍家の婚礼』

*3月12日(日)まで。 六本木・サントリー美術館
『コレクターの眼ーヨーロッパ陶磁と世界のガラス』

*2月19日(日)から3月15日(水)まで。 上野・東京都美術館
『都美セレクション 新鋭美術家2017』

2017年02月11日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年2月》

小島直記著 『人材水脈ー日本近代化の主役と裏方』 日本経済新聞社 1969年

…年のとり方、老年の迎え方に、もっとも見事な実例を残したのは幽翁伊庭貞剛だったように思われる。それはなによりも「出処進退」において意識的に実行された人生の一大事であった。
大阪上等裁判所判事をやめて郷里に帰ろうとしたのが、明治十一年三十二歳のときである。世渡り、立身出世主義だけを考えれば、弊履のように捨て去るにはおしいステイタスであったろうが、彼は暮夜ひそかに権門勢家に出入りしてその鼻息をうかがうような官界の腐敗堕落にたえられなかった。栄達よりも心の平静、満足を求めることが人生だと考えたのである。
その彼が、叔父広瀬宰平の説得で住友入りをしたいきさつは『日本さらりーまん外史』でのべた。本店支配人となり、大阪紡績、大阪商船の取締役、大阪市参事会員、大阪商工会議所議員、大阪株式および米穀取引所の役員などを兼ねたが、四十一歳のとき琵琶湖畔石山に隠棲の地を求めた。現世的にはもっとも欲や執着の出るその立場と年齢において、彼はすでに自分の晩年をみつめていた。それは無常観にとらわれた敗北主義のあらわれではなくて、いつでも辞表を書いて隠退できる場所を確保した上での、戦闘の構えに他ならなかった。仕事への没入と同時に名利からの離脱が期せられていた。
(中略)幽翁は荘重達意の文章家であったが、新聞雑誌には一度も寄稿したことはなかった。それが五十八歳のとき、はじめて『実業之日本』に「少壮と老成」という感想文を発表した。かれはこの中で、老人の経験の貴重さをいうとともに「老人はとかく経験という刃物をふりまわして、少壮者をおどしつける。なんでもかでも経験に盲従させようとする。そして少壮者の意見を少しも採り上げないで、少し過失があるとすぐこれを押さえつけて、老人自身が舞台に出る。少壮者の敢為果鋭はこれがために挫かれるし、また青年の進路はこれがために塞がってしまう。……事業の進歩発展に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」と書いた。そして彼自身は、これから五月後に住友総理事のポストを四十四歳の鈴木馬左也にゆずり、十七年前から用意していた石山の別荘「活機園」に隠棲したのである。
彼はこの山荘で静かに老いていった。はじめは、日常の動静を語るのに「悠々自適」のことばを用いていたが、七十八歳のときから「曠然自適」というようになった。「悠々」にはまだどこかにアカのぬけきらないところ、自力をたのんで得々然とした趣が残っている。「曠然」は、何ものにもとらわれぬ無礙自在の境である。大正十五年五月、八十歳のとき子女をあつめて遺言をし、財産を分けてやった。そして十月「こんな悦びはない。この徹底したよろこびを皆の悦びとして笑ってお別れしたい」といい、家族順々に末期の水をふくませてもらった。そのとき、幼い孫が二度ふくませようとすると、「お前はさっき、くれたではないか」といって微笑し、やがて大往生をとげた。筆者はこの間恩師から、「昨近は隠居入道ということがない。隠居即入墓と考えているようだ」という話をきき、伊庭幽翁のことを思いださずにはいられなかった。
(「伊庭貞剛 栄達よりも心の平静」)

2017年02月14日

新刊書籍から《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年2月》

加藤典洋著『増補 日本人の自画像』 岩波書店 2017年

こうして、小林の宣長理解での「漢意」と「大和心」の対位は、学問ー概念的思考ーと日常の生きた智慧ー常識ーの対照を基本構図とする。戦争期を、列島の「庶民」の日常の智慧に自分は立つ、といういい方でくぐり、戦後の民主主義謳歌の時代には、自分はバカだから反省しない、利口な奴はたんと反省すればいいじゃないか、といった彼の戦前と戦後を貫く線は、宣長の、「日常的思考」と解される限りでの「大和心」に、一つの理念的表現を、与えられるのである。
それは、たとえば、宣長に仮託された形で、この宣長論では、こう語られる。

ーー理といふものは、今日ではもう、空理の形で、人の心に深く染付き、学問の上でも、す べての物事が、これを通してしか見られない。これが妨げとなつて物事を直かに見ない。さういふ慣しが固まつて了つた。自分の願ふところは、ただ学問の、このやうな病んだ異常な状態を、健康で、尋常な状態に返すにある。学問の上で、面倒な説など成さうとする考へは、自分には少しもないのであり、心の汚れを、清く洗ひ去れ、別の言葉で言へば、学者は、物事に対する学問的態度と思ひ込んでゐるものを捨て、一般の人々の極く普通な生活態度に還れ、といふだけなのだ。ーー

小林は、いわば、戦後の日本に生きる自分のものを考える足場を、戦前に語られた「日本」ではない、「一般の人々の極く普通な生活態度」におく。それが、彼における、戦前に比べられた戦後の意味であり、それと同時に、彼の戦前から変わらない思考の足場だと、いわれるのである。
しかし、このことを、宣長のほうから見れば、小林は、あの宣長がぶつかった最後の問題に、彼としては、結局、出会っていない、ということになる。
(第四部 戦争体験と世界認識 第ニ章 小林秀雄と「国民」)