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新刊書籍から《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年2月》

加藤典洋著『増補 日本人の自画像』 岩波書店 2017年

こうして、小林の宣長理解での「漢意」と「大和心」の対位は、学問ー概念的思考ーと日常の生きた智慧ー常識ーの対照を基本構図とする。戦争期を、列島の「庶民」の日常の智慧に自分は立つ、といういい方でくぐり、戦後の民主主義謳歌の時代には、自分はバカだから反省しない、利口な奴はたんと反省すればいいじゃないか、といった彼の戦前と戦後を貫く線は、宣長の、「日常的思考」と解される限りでの「大和心」に、一つの理念的表現を、与えられるのである。
それは、たとえば、宣長に仮託された形で、この宣長論では、こう語られる。

ーー理といふものは、今日ではもう、空理の形で、人の心に深く染付き、学問の上でも、す べての物事が、これを通してしか見られない。これが妨げとなつて物事を直かに見ない。さういふ慣しが固まつて了つた。自分の願ふところは、ただ学問の、このやうな病んだ異常な状態を、健康で、尋常な状態に返すにある。学問の上で、面倒な説など成さうとする考へは、自分には少しもないのであり、心の汚れを、清く洗ひ去れ、別の言葉で言へば、学者は、物事に対する学問的態度と思ひ込んでゐるものを捨て、一般の人々の極く普通な生活態度に還れ、といふだけなのだ。ーー

小林は、いわば、戦後の日本に生きる自分のものを考える足場を、戦前に語られた「日本」ではない、「一般の人々の極く普通な生活態度」におく。それが、彼における、戦前に比べられた戦後の意味であり、それと同時に、彼の戦前から変わらない思考の足場だと、いわれるのである。
しかし、このことを、宣長のほうから見れば、小林は、あの宣長がぶつかった最後の問題に、彼としては、結局、出会っていない、ということになる。
(第四部 戦争体験と世界認識 第ニ章 小林秀雄と「国民」)