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2005年09月 アーカイブ

2005年09月07日

「閲覧用書棚の本」其の九。『明治の演劇』

岡本綺堂著、同光社、昭和24年の刊行である。
これは、「過ぎにし物語」として『新演芸』の大正9年8月号から始まった連載の追憶談。単行本としては、『明治劇談・ランプの下にて』として、昭和10年に岡倉書房から刊行され、その後も戦時中の17年に大東出版社から文部省推薦本として出され、この同光社本になり、その後も、40年には青蛙房から単行本として、55年には旺
文社文庫、平成5年には岩波文庫として刊行されている。綺堂は大正5年から雑誌連載の形で始まった『半七捕物帳』の作家として人気を博したが、『修善寺物語』『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』『東京の昔話』『長崎奉行の死』などの196篇の戯曲作家であり、随筆、翻訳、演劇研究にも多くの著作を持つ。
岩波文庫版には、綺堂家の書生で、後に養子になる岡本経一の解説が載っている。先にこれを紹介する。なお、手許の同光社本の見返しには、献本者の署名はないが、「市川猿之助様」と書かれている。現猿之助の祖父・猿翁宛であろう。
脱線するが、知り合いの作家・評論家などから贈られた署名入りの本は拙宅と倉庫に収蔵していて、展示や閲覧用の本として店にあるのは、神保町の古書店などで求めた献本署名入りの数十冊の本だ。大概は、本の所有者が亡くなり、その遺族が古書業者に処分を依頼して、それが業者の市などを通して古書店に流れたものだ。ただ、中には所有者が健在で、本人の意思でか、処分したものと思われるものがある。著者が自分の署名した献呈本を古書店などで目にしたら、どんなものだろう。「静かな演劇」とかの劇作家が、芸能タレントに贈った戯曲本、ミュージカルやストレートプレイもどきの演劇になぜか情熱を注ぐ歌舞伎俳優が、早口だか早飲み込みだかが売りのキャスターに贈った随筆本などに目を止めるたび、大事にされなかった本の不幸を、哀れみに近いものを感じる。

「劇評家狂綺堂主人の若き日の風貌を仲間は揃って゛若旦那"と見立てている。身だしなみもきっちりと礼儀正しく、色白で痩せぎすの長身であった。この若旦那は潔癖で孤独癖で、そして事によると議論好きだったらしい。俳優と私的な附き合いをせず、楽屋へ出入りをしなかった。劇作家綺堂になってからも、俳優と公的な附き合いだけだったのは、自らの信念だったのだろうか。新作上演のときでも、舞台稽古に立ち会って、初日を見るだけであった。最もコンビを謳われた二代目左団次とさえ私の交流をしなかった。したがって、俳優を語るのは舞台の上のことだけで、その私的生活には及ばない。
 書斎人である。まことに明窓浄机だった。机の上には原稿紙とペンだけ、身の廻りに本一冊、紙きれ一枚散っていない。」

岡本綺堂(本名は敬二)は明治5年に東京・高輪に生まれた。父は二百石取りの御家人、彰義隊として上野、父祖の地・奥州二本松で官軍と戦い敗れた過去を持つ。英国公使館書記官として三十数年勤めるが、明治の粋人としても知られていた。
綺堂は幼少より、漢詩、英語をこの父に教えられていたが、そんな修身が士族としての誇りや、新時代を生きる覚悟を涵養したのだろうか。

「父の腰巾着で大劇場を覗いたり、腰弁当で鳥熊の芝居に入り込む以外に、自分も一つ芝居を書いてみようという野心は、この時分から初めて芽を噴いたのであった。父は初めにわたしを医師にしようという考えであったそうであるが、友人の医師の忠告で思い止まって、更にわたしを画家にしようと考えたが、何分にもわたしに絵心がな
いので、それもまたやめてしまって、ただ何がなしに小学から中学へ通わせて置いたのである。しかも父はその当時の多数の親たちが考えていたように、わが子を゛官員さん"にする気はなかった。時はあたかも藩閥政府の全盛時代で、いわゆる賊軍の名を負って滅亡した佐幕派の子弟は、たとい官途をこころざしても容易に立身の見込みがなさそうである。そういうわけで、父はわたしに何の職業をあたえるという定見もなく、わたしもただぼんやりと生長していく間に、あたかも演劇改良などが叫ばれる時代が到来したので、わたしも狂言作者なってみようかと父に相談すると、それも好かろうと父はすぐに承認してくれた。
 父が容易にそれを許可したのは、第一に芝居というものが好きであるのと、求古会員の一人として常に団十郎らに接近していたのと、もう一つには流行の演劇改良論に刺戟されて、かの論者が主唱するように、゛脚本の著作は栄誉ある職業"と認めたためでもあったらしいが、更に有力なる原因は、こんな事にでもしなければ我が子を社
会へ送り出す道がないと考えたからであろう。八歳の春には「誰がこんな詰まらない、芝居などというものを書くものか。」と、団十郎の前で窃かに肚をきめていたわたしが、十六の歳には自分から進んで芝居というものを書こうと思い立ったのである。これも一種の宿命であるかも知れない。」

2005年09月10日

「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』(壱)

市川三升著、推古書院、昭和25年刊。函、本の奥付けには、『九代目市川團十郎』とあるが、本の背、タイトルは、『九世團十郎を語る』となっている。55年前の、おおらかな本作りである。
今回は、3回に分けてご紹介する。それぞれに相当に長い文章になるが、お付き合い戴きたい。
筆者は昭和31年の没後、十代目市川團十郎を追贈された。既にこの<提言と諌言>の7月7日の「閲覧用書棚の本」の『鏡獅子』でも登場した三升こと堀越福三郎は、九代目の長女・実子(二代目市川翠扇)の夫であり、九代目歿後の成田屋・市川宗家の当主であり、歌舞伎界の総帥とも言うべき存在。
福三郎は、東京・日本橋江戸橋西詰で代々手広く履物商を営んでいた稲延利兵衛(後に稲延銀行を設立、東京市議会議員、富士紡績取締役などを務める。)の次男として生まれ、慶應義塾に学び、日本通商銀行に就職、明治34年に堀越家に婿入りする。九代目が芸の跡目としてではなく、市川宗家の後継者として、自分と同様に政治家や学者文人とも交流するに相応しい教養や見識を持つ(梨園ではその後も百年の間、類例の無いことだが)ブルジョワ出身のインテリゲンチャの青年を娘の婿にと望んだ。そこには、その三十年前の、九代目自身の嫁選びと相通じたものがある。

「明治四年、父は三十四歳で妻を迎へた。花嫁は京橋南槙町に西會所を開いてゐた御用達小倉庄助の娘でまさと呼び、母を千代と呼んだ。當時の俳優の多くが花柳界から妻を迎えたのに反し是非とも堅気な家の娘をと望み、縁あつて小倉家の娘おまさを貰うことになつたが、小倉家の方でも娘を俳優の家に縁付かせるといふのは大英斷であつた。そこで同家でも世間を憚り山谷の八百善を假の親許として河原崎家に嫁がせた。
 母ますが、どうして河原崎家に嫁いで来たかといふと、小倉家の縁家に芝居茶屋をやつてゐたものがあり、自然母も芝居へ足繁く出入りするようになり、その中不圖權十郎(後の團十郎)の将来のあることを見込んで是非に嫁ぎたいと傳手を求めて父まで申し込んで来た。父は總てを祖母に任せてしまひ、祖母も亦同意したので、見合いもせずに此の縁談が纏つたのである。」(「結婚」)

野口達二著の『芸の道に生きた人々』(昭和41年、さ・え・ら書房刊)の、「九代目市川団十郎」の項に、このあたりのことに触れた文章があるので、参考に採録する。(ちなみに、この本は、比較演劇学の泰斗・河竹登志夫氏宛の献本署名本である。)

「旧土佐(高知県)藩主の山内容堂などは、権之助の後援者のひとりでしたが、河原崎権之助を自宅によんで、七代目・市川団十郎の創りだした「勧進帳」をときどき舞わせながら、それにふさわしい衣装などをあたえていたということです。これら有力な後援者のなかにも、そろそろ九代目・市川団十郎を、権之助につがせようという心の動きがみられるようになってきていました。 河原崎権之助は、そろそろ、このあたりで身をかためるようにすすめられ、妻をもらうことにしました。明治四年のことです。妻の名は、ますといいました。良家の出のますは、親類と縁をきり、いったん、八百善という料理屋の養女になってから権之助のところに嫁入りしてきます。
役者は河原こじきだ、その河原こじきと結婚する―、ということが、そんなめんどうな手つづきをとらせたのです。東京を代表する三座の、その一つの座頭の役者でも、役者であるがために、そうした仕打ちにあまんじなければならなかった時代です。御一新がすんだといっても、まだ、世の中は、そんなに封建的なものだったのです。
 口にこそだしませんでしたが、河原崎権之助の心のなかでは、きっと、そうした古いものへの反抗が、静かに芽ばえていたのでしょう。心のうちにひそんでいたその芽ばえが、やがて燃えだし、河原こじきの芸といわれていた歌舞伎を、国劇とよばれるものにまで高め、同時に、役者の地位を、人なみにおしあげていく生涯を送らせたも
のと思われます。」

 團十郎の妻「ます」の兄・亀岡市三郎(小倉市三郎)は、江戸城の石垣修復や品川沖台場造営を請け負う幕府石方棟梁の亀岡甚蔵(亀岡甚造)の娘婿になり、娘をもうけた。私の母方の祖母である。(私の高祖父であるこの亀岡甚蔵(亀岡甚造)については、高村光雲著『幕末維新懐古談』(岩波文庫刊)に、光雲の師・高村東雲の後援者の一人として描かれている。金龍山浅草寺、成田山新勝寺などの信徒総代を長く務め、宗派を問わず信仰していた彼は、若い時分から常に数珠を離さないほどの信心深い人物だったようだ。プリンシプルを重んじた私の演劇感が、時として理念的で抹香臭く感じられるとすれば、この高祖父の血が災いしているのかもしれない、と言えば大げさか。かつて、テレビマンユニオン会長だった故・萩元晴彦氏が教えてくれた言葉に、「製作作品には2種類のプレイヤーが要る。それは、俳優や演奏家などのPlayerと、製作者として作品の完成や成功を祈るPrayerとだ」というものがある。私はこの言葉を拠り所にして、演劇を実践し考えてきた。私の演劇感が、信心のように説経染み、抹香臭くなるのも当然かもしれない。)
子供の時分に母から聞いた話だが、明治10年生まれの祖母の記憶によると、祖母の幼いころには、「ます」叔母は、実家である小倉家や、兄の家であり自分が育った亀岡家に戻って来たり、訪ねて来たことがなかったという。
麻布鳥居坂の井上馨伯爵邸で天覧歌舞伎が催されたのは明治20年4月。祖母がやっと「ます」叔母や團十郎の存在を知ったのは、そのころだったという。築地の團十郎家と日本橋の亀岡家の行き来が始まり、釣道楽の團十郎が弟子に届けさせた釣果が、曽祖父の家の夕餉の膳をたびたび賑わした。
 時代は明治になっていたが、苗字帯刀を許された江戸幕府御用達の家族と、歌舞伎界の総帥とはいえ、長く被差別民だった歌舞伎俳優とが、宿命的な身分やその意識から放たれ、世間に憚ることなく親族付き合いを出来るようになるまでには長い歳月が必要だった、ということかもしれない。

2005年09月11日

「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』(弐)

明治元年、九代目団十郎の養父で、河原崎座の座元である権之助が、今戸の家に押入った浪士の強盗に切り殺されるという事件があった。この時、九代目は風呂場にいて難を逃れたが、母屋から聞こえる権之助の断末魔の呻き声を聞いた。これが後の「湯殿の長兵衛」の役作りに活かされたという。
その13年後の初冬、九代目が強盗に襲われる。

「話は少しく講談めくが、明治十三年の十一月二十八日、新富町の自宅へ六人組の強盗の入つたことがある。此の話は永く世間の語り草にもなつてゐたが、當時内弟子としては、新十郎、升蔵などがゐて出入の按摩なども泊つて行つたりしてゐた時分である、丁度此の日も按摩が泊つて其の療治をうけて眠つた父が、不圖眼を覚して見ると、見馴れぬ姿の者が四五人入り込み、頻りに何か物色してゐる。中の一人は山岡頭巾をかぶり、眼が覚めた父に向つて手にした脇差をズブリと畳へ突き刺して、急に凄文句を並べ出したのである。然し父は別段驚いた様子も見せず、「何でも貴下方の好きな物を持つて行つて下さい、然し、家人の中には親から預つた大切な弟子たちも居ることですから、どうかこれ等の者には怪我をさせないようにして戴きたい」と穏かに制し、そして傍らの母にも「皆さんの望むものを何でも出してあげるがよい」と命じたのである。そこで賊は目ぼしい物を掻き集めるように纏めて背負い出し、「もう用はねえから寝るがいい」と捨台詞を残して出て行つてしまつた。そのあとを見送つた父が、戸外を見ると、空は晝のように明るい月があつたので
 白浪の 引くあと凄し 冬の月
と一句を吟じた。
 此の賊は其の後吉原へしけ込んで駄々羅遊びをした為めに、その時遊女に與へた父の着物から足がつき、皆捕へられたが、然し賊に持つていかれたものは半分も出なかつたといふ。
 この時、戸外で見張りをして居た賊の一人は丁年未満といふので減刑され、出獄してから北海道で薪屋を開いてゐたが、ある時上京して歌舞伎座で、父の「地震加藤」を見物し、これほどの名優の家に押入つたのは誠に面目ないと懺悔の手紙を寄せて来たと云ふのである。
(中略)なほ数日を経た或る夜、光明寺三郎氏が遊びに来られてゐる處へ、云ひ合せたように西園寺侯が見え、ステッキを振りながら、「堀越居るか」と突然戸を開けて入つて見えたので、父は又賊かと驚いたといふ一つの笑話が残つて居る。」(「六人組の白浪」より)

『白浪五人男』など、歌舞伎の演目でご存知の方も多いと思うが、白浪とは盗賊のことである。
7月7日9日の『提言と諌言』で、「鏡獅子」を紹介したが、舞踊の名手でもあった九代目の舞踊観や教え方叱り方などが描かれている。私は子供の頃から今でも、テレビ芸能人化した歌舞伎俳優や舞台俳優を嫌悪してきたが、三升は、芸人根性を蛇蝎の如くに忌み嫌った九代目の剛直性をも指摘する。

「次に父の最も得意とした舞踊に就いて述べてみることとする。元来市川流の踊は、西川流と志賀山流から出て一家をなしたもので、それが父に依つて創始され、翠扇に傳へられたのである。
 父の舞踊に就いての主張は、踊は唯手足の動きばかりではいけない、腹がなくてはならぬといふのである。従来の振付師のすることを見ると、唯昔の型をそのまま踏襲してゐるばかりで、歌詞に就いての調べなども杜撰を極めて居たもので、自然振付なども誤つた型が残されてゐた。「麻綯るたびの楽しみを…」といふくだりなど、たび
を旅にかけて草履をはく振りがついてゐるなどそれである。「鏡獅子」の稽古の時、翠扇が牡丹の花を見あげる形のところなど、父が傍らで見てゐて「そんな大きな牡丹はない」と教へたことがある。
 父はさうした點に非常に深い關心を寄せてゐて、何處までもその眞を掴むやうに深く掘下げて研究した。即ち研究もせず調べも怠り唯あり来りのまま無關心にやつてゐることを腹がないといつたのである。父の持論として踊は一劃一線、どこを切つてもそれが繪になつてゐなければならない。それが日本舞踊の精神であるというてゐた。
まことに箴言である。
(中略)稽古に就いても一家の持論をもつてゐて、「稽古は何度やつても同じである、多くやつては却つて學ぶ方に気の弛みがでる」と、父は三度以上は教へない。稽古をする方でも三度以上は教へて貰えないから、自然に一度も身にしみて稽古する。それ故だんだんと上達してゆくわけである。
 踊も三度、叱言も三度、それで聞かなければ、もう駄目として叱言も言はない、芝居の上でも役によつて一通り教へるが、それが解らなければ、次にはその役はやらせない、それに就いて他人がどう言はうが聞き入れない。
 かうなると日頃の剛直性が現はれて通俗的な妥協性は無くなるのである。自信があればこそ断行するのであるが、一面には、それが世の誤解を受けたともいへる。實に藝術家としての尊厳な態度は十分に把持した。
 所謂藝人根性といふものを蛇蝎のごとく忌み嫌ひ、口癖のように家人の者を誡めたのであつた。」(「父の舞踊とその主張」より)

2005年09月13日

「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』(参)

今日9月13日は、九代目市川団十郎の正忌である。GOLDONIの開業5周年の記念日でもある。
石の上にも三年との譬えもあるが、東京の一等地、世界一の書店街の一角での5年に亘る書店運営で、経済的には痛手を負ったが、いまどき流行らない自己犠牲的な演劇の啓蒙を、いささかの私心も無く、個人の営為としてよくやり抜くことが出来たものだと、閉店を目前にした今、すこしは誇るような気分でいる。そのくらいの自負は許されるだろうと思っている。(この辺りのことは6月19日の『提言と諌言』<閉店まで三ヶ月を切った『GOLDONI』> に書いたので、ご笑読を願う。)
九代目の祥月命日を6回連続してGOLDONIで過ごすことができた。三升の五十年忌に当たる来年の2月1日を、そして来年のこの日を、どこでどんなふうに迎えるのか、それはまだわからない。

団十郎の死からその葬儀までを、喪主であった三升は描いている。    

「明治三十六年二月十八日に五代目菊五郎が世を去り、その華やかな葬儀の列は築地の家の前に暫くとどまり、そして本所の菩提所大雲寺へ向つた。私は父の代りに寺島家の親族と共に徒歩で送つたのであつた。此の日父は亡き親友に名残を惜しむため、門前にて翠扇に柄香爐を持たせ、家族一同と共に禮装して霊柩を迎へ、懇ろに焼香して見送つたが、父は感慨無量の面持で家に入り、母をはじめ皆を顧み「おれが死んだら、棺脇には升蔵、新十郎、染五郎、栗三郎、團五郎、幸升が附くように……ほかにも門弟はあるが、この六人は皆子飼からの弟子だから……」と言つた。 
(中略)九月十二日、この朝は少しく小康を保ち、顔を洗ひ口を漱ぎ、手を浄めて「神殿の方へ向けてくれ」といふ。家人の手をかりて神殿に向き直ると恭しく禮拝して、法華経の自我経を誦していたが、それがすむと全く口を利かなくなつてしまひ、翌十三日の午後三時頃危篤に陥り、同四十五分眠るが如き大往生を遂げた。
(中略)遺骸の茅ヶ崎を去る十五日には、葬列は村を一巡して、土地の人々に別れを告げ貨物列車を清掃してこれに安置され、附添として私が従ひ、絶えず香をたき、他に二等車一輌に家族をはじめ關係者達が従ひ、その夜の中に新橋へ着くとホームは涙を以て迎へられる人で満たされてゐた。既に準備の成つてゐる築地の本宅に父の遺骸は迎へられ、廣間へ安置されると共に神式によつて二十日葬儀が營まれることになつた。
(中略)その日は蕭々たる秋雨の音なく降りそそぎ、一入哀愁を深めた、葬列は二十餘町に及び、先頭が虎の門に達してゐるのに、殿りはまだ築地の家を出きらぬ有様で、各方面からの眞榊が長蛇の列を造つた譯で、その當時一時眞榊が品切れになり相場もために狂つたといふ程であつた。
葬列は築地の家から歌舞伎座の前を通り、ここで關係者の焼香を受け、虎の門を経て赤坂通りを青山斎場に向つたのであるが、會葬者は劇界は申すに及ばず、あらゆる方面の名流を網羅した。
(中略)私は喪主として烏帽子をかむり杖を携えて棺に従つたが、此の烏帽子と杖は棺に載せて共に歛めた。謚名は「玉垣道守彦霊」。かくて父の霊は青山の塋城に眠に就いたのである。」(「父の終焉」より)

2005年09月15日

「閲覧用書棚の本」其の十一。『岸田國士全集』(壱)

岸田國士全集全27巻、岩波書店刊。
今回採録するのは、平成3(1991)年12月に第25回配本として刊行された第27巻<評論随筆9>に収録の、「二つの戯曲時代」である。本著の後記によれば、この評論の初出は、昭和23年1月に岸田自身が編み刊行された『近代戯曲選』に「解説」として書かれたものであるから、その執筆は敗戦直後の22年だろうか。
僅かな例外を除けば、国税投入、文化庁などの補助金のばら撒きでしかない日本の貧困な文化政策のおこぼれに与る、貧して鈍した助成金麻薬患者と成り果てた演劇人しか生息しないこの時代にあって、私は『本質は些事に宿る』、演劇の諸相を見つめれば、そこからも政治や経済や社会が、大きくいえばこの国が、世界が見えると思って活動してきた。岸田の人生の軌跡と重なるもののない私だが、岸田はこの国では絶滅した本格の演劇人として、模範にしたい人である。  
この評論が書かれてから58年が過ぎたが、頭の先から尻尾まで補助金漬けで自立心も自制心も欠落した、あるいは初手から持ち合わせていない演出家や俳優、末流の商売人が経営するような大学の生き残り戦略に利用され、基礎学力のない落ちこぼれ高校生の収容先と化した演劇や文化政策などの学部や学科・専攻の即席教員で糊口をしのぐ演劇ギョーカイ人が作る演劇とその現状を、岸田が生きていたらどう思うだろうか。
『本質は些事に宿る』。この二十年、文化政策や演劇事情を見つめて来たが、そこで見たものはこの国の危さだ、といえば言い過ぎか。
今回の衆議院議員選挙の結果を知り、岸田のこの文章を思い出した。


「新劇」の名のかくの如き曖昧模糊たる用法の由来するところは、「歌舞伎或は新派」が劇界の主流なる如き観を示すことと一脈相通じてゐるのである。
即ち、わが国の興行界と劇場の常連とが形づくる一つの雰囲気は「歌舞伎或は新派」的なる演劇風景に密着し、相互的に生活の基盤を与へ合ひつつ、この外界への作用は、劇場の魅力に化けて、それが一般大衆の抜くべからざる封建性に媚び、動もすれば国粋を標榜して、国際的なる一切の進歩に背を向けさせ、都市的洗練を競ふことはあつても、それは常に懐古的であり、人間美の標準は紋切型のやうに、「いき」と「はり」である。美は美なりとしても、なんといふ限られた「危ふい美」の世界であらう。そしてまたなんといふ、鼻につき易い、人間性を無視した同工異曲の数々であらう。
そこには誰でも納得のいかぬものがある。おほらかなもの、真に厳粛なもの、幸福を思ひ描かせるものがない。虚構を通じての真実が稀にあるかと思へば、ただ、自然なものさへも極めて少いのである。
わが劇場の観衆は、なぜ、久しい間、舞台にそれらのものを求めなかつたのか? これはちやうど、なぜ、わが国に健全な議会政治が発達しなかつたか、といふ問ひに似てゐる。 
「俗衆」なるものは、知てゐることしか解らない、とは、フランスのある劇作家の述懐である。私は、わが国の劇場の一般観衆を以て俗衆なりとは云はぬが、しかも、見馴れたものしか観たがらず、また、さういふものの価値しか判断できないといふ不幸な事実を、わが国に於ては、特に国民の、精神的機能のうちに、著しく目立つた現象として指摘しないわけにいかないのである。

2005年09月18日

「閲覧用書棚の本」其の十一。『岸田國士全集』(弐)

今回は、平成元(1989)年12月に第2回配本として刊行された第19巻<評論随筆1>に収録の、「二つの答」を取り上げる。本著の後記によれば、この評論の初出は、大正13(1924)年9月15日発行の大阪演劇連盟機関雑誌『舞台評論』第41号に掲載、後に『我等の劇場』に収録された。
岸田國士の経歴を、平凡社刊演劇百科大事典の加藤新吉氏が書かれたものを参照して、簡単に紹介する。(加藤氏は文学座演出部に所属していたが、今年の3月16日に亡くなった。氏は、文学座の最後の教養人だった。)
岸田國士は明治23(1890)年、東京・四谷に生れ、陸軍幼年学校、士官学校を出て陸軍少尉任官。大正5(1916)年東京帝国大学仏文選科に入学。後にパリ・ソロボンヌ大学やヴィユ・コロンビエ座の演劇学校に学ぶ。大正12(1923)年の帰国、翌年から「古い玩具」「チロルの秋」「命を弄ぶ男ふたり」「紙風船」などを続けて発表。これから紹介するエッセイなどで演劇論を展開。昭和になっては新劇協会、友田恭助・田村秋子の築地座で指導、雑誌『劇作』の作家を育てた。昭和12年には久保田万太郎、岩田豊雄と文学座を創設、戦時中は大政翼賛会文化部長を務めた。戦後は芸術家集団『雲の会』を結成、昭和28年に芸術院会員。文学座の『どん底』の舞台稽古の最中に倒れ、昭和29(1954)年3月4日に亡くなった。大正末から戦後のほぼ三十年、劇作家、小説家、演劇研究家、演劇指導者としての人生は、当時に類例のないスケールの大きさと深さを感じさせる。
1960年代のアンダーグラウンド演劇の後、70年代から登場した団塊世代とそれ以降の演劇人が、多少の例外を除けば、例えば自作自演出の者は、舞台芸術の素養もなく、政治にも社会にも関心も低く、高校や大学でのイベントで、面白がって、はしゃいで、唐や寺山、或はつかの真似を始めた目立ちたがり屋。俳優志願の者は、概ね学力不足の劣等生で、ついに選択すべき職業や大学の専攻を探せず、そんな愚か者でも持ち合わせている自己表現意欲を、何の基礎も鍛錬も無しに満たせそうなものとして「演劇のようなもの」に出会い、だからこそか、励むことなく、「演劇のようなもの」の世界に、だらしなく浮遊する者たち、と若い時から見ていた。この5年の神保町での定点観察と、やはり5年で三百本ほどの演劇鑑賞から、それは確信になった。
GOLDONIには、上演の為の戯曲を探し求めて、東京だけでなく、全国から(会社の出張や、休暇を遣って)、アマチュア演劇をしている青年、中には壮年も多く訪ねて見える。その多くは、東京なり地元の高校・大学を出て、正業に就き、その余暇に芝居作りを楽しむ、健全な生活者だ。彼等は、演劇に掛ける気持も費用も、東京で「演劇をやっているつもり」の、只の怠け者とは桁違いだ。彼等の熱心さに、一度に4冊までの販売しかしないGOLDONIの原則は、いつも反故になる。
アマチュアが一般的な生活力や常識を持ち、余暇の時間とお金を掛けて演劇と向かい合う。
演劇教師として口過ぎをするにしても、テレビ芸能で稼ぐにしても、外食産業や呑み屋などのアルバイトで働くにしても、それらは「演劇の時間」ではない。本来の専門性、幼少からの専門教育も受けず、専門的な日常も持たず、毎日の身体訓練や稽古、戯曲研究などの「演劇の時間」を持たない、それでいて演劇専門のつもりでいられる者たちを、私は「やってるつもりの演劇人」と呼んでいる。彼等に、健全なアマチュア演劇の愛好者の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。というよりも、「演劇のようなもの」から足を洗って、職業訓練所や学校に行き直してでも真っ当な社会人になって欲しい。
 この国の現代劇とは、百年も前から今日まで、その殆どが、この「やってるつもりの演劇人」という、「玄人面をした素人」が、なけなしかそこそこの才能ででっち上げる演劇だ、といえば言い過ぎか。


「よく人が云うことではあるが、素人劇といふものが存在し得るだけに、芝居の「玄人」にはなりにくい。然し、現在の日本には、現代劇を演ずる為めの「玄人」が欲しいのです。現代劇を書く為めの「玄人」がもつとあつていいのです。現代日本の劇作家中、二三人を除いては、みな「玄人面をした素人」だと断言して憚りません。
 素人なら、素人らしい芝居を見せて貰ひたい。そこからだんだん、「過去の玄人には無いもの」が生れて来るのも事実です。然し、それが為めには、玄人のやらないこと、玄人では出来ないことをやつて欲しい。今の日本の現代劇が面白くないのは、素人劇だからと云ふだけではない。素人が玄人の真似をしてゐるからです。
 新劇の俳優に玄人と云へるものがないと云つて置きながら、玄人の真似とは如何、かういふ反問に答へることは、頗る容易です。これは、新劇の開拓者が、西洋の真似をした。真似の出来るところだけ真似をした。主に表面だけ、形式だけ、言ひ換へれば、半分だけ真似をした。内容と本質は、即ち残りの半分は、在来の芝居、又は間に合せの芸当でお茶を濁した。在来の芝居からは、比較的下らないものを随分取り入れてゐる。無意識的に取り入れてゐる。之等の新劇の開拓者の功労は、勿論認めなければなりません。また、色々な事情で、さういふ人達の理想は実現されなかつたでせう。然し、兎に角小成に安んじた-と云つて悪ければ-あんまり早く玄人のやうなつもりになつてしまつたのです。
 そんなら、どこまでが素人で、どこからが玄人か、そんな馬鹿なことを尋ねる人もありますまいが、それはつまり、修業の程度にあると云ふより外はありません。
 「玄人の芸は型にはまつてゐていけない」。これは新芸術愛好者のよく口にする文句です。僕も、そのうちに、さういふことを云ひ出すかも知れません。ただ、今のところ、日本に現代劇と云はるべき「殆ど完成した」芸術的演劇がまだその形を成してゐないことは、何と云つても心細い。
 そこで僕は、前にも云うつたやうに、素人劇団でもいいから、もつと「面白い芝居」をみせる工夫をして貰ひたいのです。それには危なかしくつてもいいから変に固い苦しくない、重苦しくない、かさかさ、或はじめじめしない、馬鹿馬鹿しくてもいいから朗らかな、気取らない、大胆な、然し、常に聡明な、趣味の優れた作品を選んで、よく稽古を積んで、金なんか取らないで見せるくらゐの覚悟でかかつて貰ひたいのです。
 さういふものの中から、やがて、ほんたうのものが生れて来るかもわかりません。
 要するに、歌舞伎劇以外に、「面白い芝居」が出て欲しい。われわれの芝居をもちたい。これが僕の現在の願ひです。」

2005年09月21日

「閲覧用書棚の本」其の十一。『岸田國士全集』(参)

この『提言と諌言』で6月から、「閲覧用書棚の本」を書き始めて、というよりもその前からだが、たびたび先人の言葉や業績を持ち出して、それに提言や諌言や批判を織り交ぜるという私の書き方に、「権威付けをして、対象を批評するやり方が巧妙」と、誉めて(批判も含まれているのかもしれないが)下さる方がいくたりかいらっしゃるが、私のような鈍才が現代演劇について考え感じているようなことは、既に明治・大正の時代から、先人たちが論じていたことである。それを、この機会に紹介し、合わせて問題提起をしたい、関心を持って貰いたいと願ってのことだ。
これまでに、二世市川左団次『左團次藝談』(6月20日)、市川寿海『寿の字海老』(6月23日27日)、二世市川翠扇『鏡獅子』(7月7日9日)、山本勝太郎・藤田儀三郎『歌舞伎劇の経済史的考察』(7月13日)、穂積重遠『獨英觀劇日記』(7月26日)、岡本綺堂『岡本綺堂日記』(8月3日11日)、小宮豊隆『藝のこと・藝術のこと』(8月20日23日)、岸井直衛『ひとつの劇界放浪記』(8月26日)、岡本綺堂『明治の演劇』(9月7日)、市川三升『九代目市川團十郎』(9月10日11日13日)、そして今回の岸田國士全集(9月15日18日
まで書いてきた。それぞれが長い文章になっているが、辛抱してご笑読をお願いする。

今回取り上げるものは、「演劇慢話」である。これは、大正15年8月に、『都新聞』に十回続けて連載された、八百字ほどの演劇随想である。これから採録する文章は、「七、芸術的劇場」である。今から80年も前に、それも当時設立された築地小劇場を意識して書かれたものではあるが、今日の新国立劇場の本来のあり方を指し示して
いるように私には思える。新国立劇場について、特に演劇部門のことについては、近々に思うところを述べるつもりだ。したがって今回は、岸田の「劇場論」の紹介に留めておく。

 「芸術的劇場とは、営利の目的を離れて専ら芸術的舞台を創造することを存在理由とする劇場を云ふので、できるだけ多くの観客を吸収して、出来るだけ興行主の懐を肥やさうとする商業劇場に対立すべきものであります。
 芸術的に保たれた舞台が、十分見物を惹き得るといふのは理想で、実際は、低級な、卑俗な趣味が、最も多数者の興味を唆つてゐるわけなのです。
 処が、芸術的といふ言葉は、如何にも厳粛な響きを伝へるわが国の現状から云へば無理もないことですが、徒らに芸術的なる名の下に、ぎこちない、未完成な、時によると投げやりな舞台を公開し、苟くも芸術的演劇の観客が、退屈さうな顔をするのは不都合だと云はぬばかりに、シヤアシヤアとしてゐるのは、慥に芸術を冒涜するもの
であるのみならず、これでは、永久に芸術的演劇は、商業劇場のうちに於てのみ、之を観得るといふ矛盾から脱することは出来ますまい。
 所謂芸術的演劇としてわれわれの鑑賞に堪へ得る歌舞伎劇のあるものは、実際、商業劇場の中に於て、之を観得るのみです。歌舞伎劇は営利の具足ることによつて、次第に非藝術的となりつつある事実を否むことはできません。
 そこで、私は、商業劇場以外に、例へば能楽の如く、歌舞伎劇の芸術的存在を保護するに足る純芸術的劇場の創設は、時代の急務であると思ひます。それと同時に、一般の商業劇場は、歌舞伎劇以外に新しい現代的通俗劇の樹立によつて興行成績の向上を計るべきです。新しい現代的通俗劇とは、民衆の趣味と生活に根ざす、あらゆる様式のスペクタクルです。メロドラマ可なり、ヴォオオドヴィル可なり、ルヴイユウ可なり、フアルス可なり…。
 さうなつて始めて、新劇によつて立つ芸術的劇場の存在が意義あるものとなるのであります。
 今のやうな有様では、どんな劇場で、どんな俳優が演じても、新しい文芸劇でさへあれば、それは芸術的演劇と呼ばれ、劇場の格式、俳優の地位が極めて「好い加減」であります。これは、演劇の進化、芸術的純化の上に甚だ好ましくない結果を齎すことになります。」

2005年09月23日

「閲覧用書棚の本」其の十二。『「かもめ」評釈』

池田健太郎著、中央公論社、1978年刊。
池田は昭和4(1929)年、東京生まれ。東京大学仏文科卒業、立教大学講師を経て東京大学の助教授になるが、昭和44(1969)年に退官。在学中から師事した神西清や原卓也とともに『チェーホフ全集』(中央公論社刊)を翻訳・刊行。昭和54(1979)年11月に没している。享年五十。ちなみに、神西清は昭和32年3月に53歳で亡くなっている。自裁だが昭和28年12月に亡くなった加藤道夫は享年三十五。加藤同様に、文学座文芸(演出)部に籍を置いた神西、池田の早すぎる死は、文学座ばかりか演劇界にとって大きな痛手であった、といま思うものは数少ないだろう。
 昨年の10月、ロシア・マールイ劇場が来日して、天王洲のアートスフィアで、ともにユーリー・ソローミン演出の『かもめ』と『三人姉妹』を上演した。朝日新聞、アートスフィア、阿部事務所の三者の共催で、私の観た日は、ほぼ3割程の客席。一、二日は台風の影響もあったのだろうが、それにしても記録的な不入り興行になったようだ。作品は、いまどき珍しい正統なリアリズム演劇のお手本のようなもので、久しぶりにチェーホフ作品を堪能することの出来た稀有な機会になったが、台風等の影響によるチケットの変更やキャンセルなどの観客対応に誠実さがなく、チケットが12,000円、9,000円、5,000円と3種あったが、9,000円、5,000円の席は二階のごく僅かな席だったようで、見せ掛けに安い席を数席だけ用意し、実際には最高価格席だけを販売するという最近にしては珍しいえげつなさで、劇場も製作団体も天下の朝日新聞ともに、ビジネスを理解しているとは思えない営業制作姿勢が、せっかくの公演の高い評価を貶める結果となった。
『岸田國士全集』について書いた18日の『提言と諌言』でも触れたが、この国では未だに現代劇の俳優や演出家は、「玄人面をした素人」でしかない。同様に、自助努力、新たな観客作りを忘れ、国税投入、文化庁などの補助金に頼り、地方の演劇鑑賞会や地方行政立ホールの買い取り公演を繰り返している製作団体、テレビタレントとそれを生で見たいだけの客におもねり、あとはこれも行政の補助金に頼るだけの商業劇場や新国立劇場始め行政立ホールは、薄汚い「玄人面した素人」でしかない。チケットをばら撒くのは、新国立劇場や行政立ホールくらいかと思っていたら、立派な商業劇場である「とうきゅうBunkamura」も、TBSとの共催、キリンビールの特別協賛での舞劇『覇王別姫』のチケット販売が振るわず、客席を埋めるべくの動員(無償の集客活動)努力をしていた。このBunkamuraで覚えたことか、芝居の最中に、舞台の上から、客席にいる知り合いの芸能人などを探すほどの天晴れ野郎も登場してしまう歌舞伎座も、既に本当の玄人の劇場とは言い難い。観客が見巧者という、観客としての玄人でなくなった現在、劇場も俳優も演出家も製作者も、玄人でも素人でもない、半端ものになってしまった。
そんな時代を生きずに済んだだけでも、加藤道夫、神西清、そして池田健太郎は幸いだった、と言えば言い過ぎだろうか。

私の所蔵する『「かもめ」評釈』は、神保町の文学専門の古書店から購入したもの。
福田恆存氏宛の献呈署名本である。


「モスクワ芸術座による『かもめ』初演のさいに、トリゴーリン役を演じたスタニスラフスキイの演技をチェーホフが好まなかったことは先にも触れたが、この場におけるトリゴーリンのせりふ「おれには意志というものがないんだ。一度だってあったためしがないんだ。」をめぐって、チェーホフとスタニスラフスキイとのあいだに解釈の相違があったことが知られる。第二幕ですでに語られたように、流行作家トリゴーリンは祖国を愛し、民衆を愛していた。自分が作家であるならば、民衆の苦しみや将来について語り、科学や人間の権利について書く義務があると感じていた。ところが彼はそれを実行することができなかった。そういう厳しい作家の道に踏み入る意志と忍耐力を欠き、単なる風景描写や小手先の技巧によって、流行作家となっているにすぎない。つまり彼は意志薄弱な男なのであり、逆に言えばその意志薄弱なところに、―人気もあり、才能もあり、しかも弱い男であるというその点に、アルカーヂナが、―のちにはニーナが―女として、強く心を惹かれたとも考えられるわけである。そんなところから、スタニスラフスキイは、見るからに意志薄弱な、弱々しい、いわば優男として、トリゴーリン役を演じたらしい。それが作者であるチェーホフには気に入らなかった。一八九九年二月、―このとき彼は『かもめ』の舞台をまだ見ていない
が、―トリゴーリンが弱々しく活気がなさすぎるという意味の劇評が出た。それを読んだチェーホフは、憤慨して妹マリヤに書いている。「なんという頓馬だ! だってトリゴーリンは人に好かれるんだぜ、人を夢中にさせるんだぜ。ひとことで言えば魅力的な男なんだぜ。それを弱々しい、うすぼけた人物として演じるなんて、よっぽど無能な、気のきかない役者だよ」。チェーホフの不満は、芸術座の舞台を見たのちも収まっていない。同じ年の十二月、彼は芸術座のもうひとりの創立者である旧友ネミローヴィチ=ダンチェンコにあててこう書いている。「トリゴーリンの歩き方や話し方はまるで中風患者みたいだった。彼には『意志というものがない』、で、そのことを演技者は彼なりに理解したわけだが、僕は見ていて吐き気がする思いだった」。
 チェーホフの評語は、毎度のことながら言葉少なであり、委曲を尽したものではない。が、このことは彼の人間理解が深く、また彼が人間を熟知していたことを、―人間が複雑な存在であり、決して一面的な評語をもってその全人格を表現することができないことを彼が知っていたことを、物語っているのであろうか。トリゴーリンは「意志」がないが魅力的であり、またアルカーヂナはケチで俗悪ではあるが、同時に息子を愛しているのである。」

2005年09月25日

「閲覧用書棚の本」其の十三。『加藤道夫全集』(壱)

『加藤道夫全集』全2巻。青土社、1983年刊。第1巻は「なよたけ」「思い出を売る男」「襤褸と宝石」などの戯曲や放送劇、舞踊劇の脚本などが二段組み700ページに、第2巻は評論・エッセイ・書簡などが二段組み630ページに編まれている。発売当時の定価は共に7,800円だったが、現在は日本文学などの専門古書店では2冊揃いで3万円台の値をつけている。今回はその第2巻から、岸田國士著の『新しき演劇のために』(創元文庫刊)の解説として書かれた文章を紹介する。
青土社の予約申込書には、監修=中村真一郎・芥川比呂志、編集=浅利慶太・諏訪正と書かれている。加藤道夫は昭和28年12月に亡くなっている。芥川比呂志とは残念ながら面識がない。文学座のアトリエを初めて覗いたのは大学生の頃で、既に十年も前に芥川さん達は劇団雲に移っていた。実際の舞台を観ることもなかった。たまたま新宿の紀伊國屋や、来年の閉場が決まった千石の三百人劇場、三宅坂の国立劇場などの客席やロビーで見掛けたことがあるだけだが、今でも芥川さんの鋭い「目」を思い出す。中村真一郎氏は劇通としても著名だった。日生劇場での四季の公演の初日によくお見えになった。二十年も前のことだが、劇場雑誌を6号ほど作ったことがあるが、中村さんにも巻頭エッセイを無心したことがある。原稿料の振りこみ先が何ヶ所かに分かれていて、中には奥方に内緒の口座でも作っておられたのか、『こっちに入れてね』と念を押されたことがある。幸いにして浅利慶太氏、諏訪正氏には、今でも年に何度もその謦咳に接して教えを受けている。諏訪さんにはつい先日、浅利さんには先月、GOLDONIにご来駕を賜った。

「岸田氏が演劇研究の為、フランスに渡った頃は、既にフランスの演劇が更に新たな変革を行いつつあった時期でした。それが恰度、フランス演劇の革新運動に生涯を賭けた故ジャック・コポオがヴィユ・コロンビエ座に拠って、新しい劇作家・俳優達と共に新しい演劇美を追求し、世の注目を惹いていた時期であります。岸田氏はすすんでコポオに師事し、自ら真新しい二十世紀演劇の息吹きをはっきりと感じとった最初の日本人であったわけです。
 コポオは何よりも先ず演劇に本質的な美を求めた人であります。極端な写実主義や自然主義の演劇には本質的な演劇美が欠けていたし、国立劇場の演劇なども唯仰々しいデクラマシオンと型通りの科を無意味に伝承しているだけでした。要するに、演劇は本来の芸術的生命を喪って、低俗な商業主義に隷属し、文字通り堕落した状態にあったわけです。この堕落の状態から演劇を救済しようとして立上がったのが、ジャック・コポオでした。《演劇をして再び演劇たらしめる》必要を痛感したコポオは《此の侮辱に打ち勝ち、演劇本来の光輝と誇りを恢復する為に「完全に新しい劇場」を作らねばならなかった》のであります。
(中略)コポオは先ず俳優達に本質的な芸術意識を鼓吹し、言葉に対する厳格な知的配慮を要求し、戯曲の台辞に宿る芸術的生命を引き出すこと、つまり、演劇に於ける言葉の使命を最も重要視して、新しい演劇は飽くまでも演技は中心にならなければいけない、更に演技の基準は厳正に言葉の内的生命を表現することに置かれねばならぬ、と主張した人であります。之は、言い換えれば、それまでの芸人的演技を否定し、俳優も立派な芸術家としてはっきりと内的意識を持たねばならぬ、と言うことであります。
(中略)斯の様な演劇を直接にコポオそのひとから学び取られた岸田氏が、故国である東方の島国に帰って、その国の演劇の寒心すべき水準の低さを眼のあたりに見た時、その慨嘆たるや如何ばかりだったかは、この書を読んでも容易に感得出来る筈です。
(中略)氏は又、劇作家には<戯曲以前のもの>、演技者には<演技以前のもの>を要求して居られます。之は別の言葉で言わして頂けば、芸術家として持つべき芸術意識のことであり、精神の器のことであり、内面のレンズのことであり、詩的感受性のことであり、知性のことであります。新劇の舞台に鋭い現代感覚が閃かない理由はすべてその<以前のもの>の欠如にあります。新しい演劇を志すものは、ひたすらな努力に依って先ず此の<以前のもの>をしかと己れの内側に獲得しなければなりますまい。新しい演劇表現は新しい演劇意識の獲得なくしては考えられぬことであります。
それは文学・音楽・美術等、あらゆる分野の芸術の富を貪欲に己れの内側に摂取する不断の努力に依ってのみ実現し得ることでありましょうが、此の書こそはその様な演劇意識獲得の道に通ずる最初の扉の役目を果すものであることを、最後に筆者は断言して憚りません。」

2005年09月27日

「閲覧用書棚の本」其の十三。『加藤道夫全集』(弐)

本著の年譜を参考に、昭和20年の敗戦時までの加藤道夫の軌跡を追う。
彼は大正7年10月17日に福岡・戸畑で生れ、父・武夫の東京帝国大学理学部教授転任により3歳の時に上京、世田谷区上馬、のちに同区若林の旧北原白秋邸の洋館に移り住む。府立五中(現・都立小石川高校)から昭和12年、19歳で慶應義塾大学予科入学。昭和15年、英吉利文学科に進み、仏蘭西演劇研究会を作り、学友・芥川比呂志の演出で、ヴィルドラック『商船テナシティ』(フランス語上演)に出演。翌16年4月、芥川、鳴海四郎、原田義人、鬼頭哲人などと「新演劇研究会」を結成する。尚、この第2巻には、「新演劇研究會當番日誌」という、オリジナルは分厚い表紙の横書きの事務用帳簿2冊に書かれた当時の会の日誌が掲載されている。その中のある日には、
「告知(特に丸ノ内、銀座、田村町、霞ヶ関方面に勤務する諸氏へ) 當分の中晴天の日有志は正午頃より一時頃まで日比谷公園内附近を逍遥せよ。然らば必ずや幾人かの會員に相會ふを得ん。日輪の下樹木艸花に圍まれて互ひの顔に接するの時は、我々に新しき發見をもたらす事必然なり。」
と、鳴海四郎(弘)が書き記していたりで、面白い。この日誌には、新演劇研究会の会員16名が登場する。俳優・演出家の芥川比呂志は昭和56年10月に、東大教養学部教授でドイツ文学専攻の原田義人は昭和35年に、慶應法学部助教授でフランス語を教えていた鬼頭哲人は昭和45年に亡くなった。そして先の翻訳家の鳴海四郎は、昨年10月7日、87歳で亡くなった。加藤の妻であった女優の加藤治子さんはご健在である。
加藤は大学院に進み、陸軍省通訳官に任官。19年にマニラ、ニューギニアへ赴任。「以降終戦まで、全く無為にして記すべきことなし。人間喪失。マラリアと栄養失調にて死に瀕す。」と加藤の自筆年譜にある。赴任前に執筆した戯曲「なよたけ」の生原稿は、岸田國士、川口一郎、岩田豊雄らに回覧されていた。
「そして、「なよたけ」だけが、遂に、残った。それを、文学座で、一度、舞台に、かけたいのは、前からの懸案で、演出も、私が受持とうと思っていた。いよいよ、今年の秋に、それを実現しようとなって、私は自分で演出の都合がつかぬと知った時、躊躇なく、「芥川君、君頼む」と、会議の席でいった。芥川君に最初の演出をさせてみたい気は、前からあったが、それよりも、私はこれを一種の弔合戦と見、故人のために親友の出馬を望んだのである。」と、岩田豊雄は、昭和30年の文学座「なよたけ」公演のパンフレットに書いている。
さて、今回は早川書房の現代演劇選書の第7巻として、加藤の死の直前、昭和28年11月に刊行された、『ジャン・ジロゥドゥの世界』の一部分を紹介する。

「事実、ジロゥドゥの劇には腐肉の臭いは全くしない。彼は初めから、演劇の実人生に勝る美点を知っていた。だから、彼は先ず、一切の日常的な自然主義的要素を自分の劇から閉め出して、演劇のヴィジオンを本質的な美意識圏の中に解放したのである。その為、彼の劇に登場する人物はギリシャの勇士であり、ゲルマンの騎士であ
り、更に水妖や、美しい、極めて人間的な堅信のニンフ達であった。そう言う大胆な人物や場所の設定を通じて、ジロゥドゥは本質的に演劇のヴィジオンを変革したのである。ジロゥドゥの詩韻の絃は既にしてこのような非凡な「舞台幻想」の世界に緊密に張られるのである。従って、開幕の第一語から、言葉は全的な音楽的責任を負わさ
れることは当然である。彼の劇的文体の見事な《ひびかい》は、詩韻の絃がその深い《拡ごり》にこだまする音楽にも似ている。
更に彼は、非凡な進行法、知的な展開法を駆使して、観客を最も演劇的な選抜きの瞬間だけに集中させた。実際、『オンディ?ヌ』の侍従の言葉に俟つまでもなく、劇がその現実時間にだらだらと追従して行ったのでは、それこそ退屈極まりないものになろう。時間の一致を無視するジロゥドゥの劇は、従って、稠密な演劇的モメントの連続に依る極めて演劇的な絶対時間をかたちづくる。それ故に、彼の劇は、実に充実した演劇的活気に充ちている。開幕と同時に、人々は純粋な演劇的体験の中に放心し、現実時間とは全く別な時間の進展を意識するのである。
空間の場合も同様で、彼は自由奔放に場所の一致を無視し、現実界に次元の異るinvisibleな世界、natureの世界、幻想の世界、夢の世界をオーヴァラップして行き、その演劇的処理は誠に見事と言う他ない。「時間」と「空間」を自由に飛躍する新しい知的な展開法に依って、ジロゥドゥは、写実主義に閉されていた近代劇の世界に、本質的な演劇の魅力の鉱脈を探りあてたのであった。
更にジロゥドゥの戯曲を通読して我々の発見するもうひとつの貴重な宝は、彼の人生に対する深い理解であり、人間の宿命に対する寛く大きな愛情であろう。ジロゥドゥ程、形而下的人間臭を持たず、而も極めて高い人間的な感動を与える作家を僕は他には知らない。彼のヒューマニズムこそは、その意味では、最も高度に高められた人類への愛の表白でなくて何であろう。」

2005年09月30日

「閲覧用書棚の本」其の十三。『加藤道夫全集』(参)

加藤道夫の古典芸能に対しての造詣・関心がどのようなものかに興味があり、今回はその目的もあってこの全集を再読した。そこから選んだ三つの文章を紹介する。
最初は、「覚書断片」と記された未発表ノートにある、「『なよたけ』に就いて。」である。

「あの芝居(『なよたけ』)の後半を舞台にのせると云ふことは、厳密な意味で、作者の経験した内的ヴィジオンの世界に迄観客を惹き入れて行かなければ、全く無駄なことですから。観客の立場として、僕は世阿彌の幾つかの芝居で、それを経験致しました。『能』のコオラスは、恐らく希臘劇のそれよりも、遥かに素晴しいものだと思ひます。(但し、數多い能の曲目の中で秀れた作品はほんとに數へる程しかない様です。)
『能』の演劇様式は、それが固定したコンヴァンシオンになり了へた時、作者の自由を拘束する<公式>になり了へた時、……明らかに堕落致しました。Correspondenceのないエコオ……これ程、退屈で、つまらぬものはまたとありません。
(僕はつまらぬ『能』に接して、幾たびとなく坐を立つたことがありました。)」

次は、昭和23年9月号の『日本演劇』に載った「文五郎讃」である。

「「色模様文五郎好み」。吉田文五郎師が登場する。筆者が師の名技に接するのは六年振りだ。彼は齢既に八十を数える老境である。高僧の如き風貌、翁はおごることも、たかぶることも知らない。今、関寺の小町が彼の手の中で生きている。私は涙がこみ上げた。このひとは永い一生を人形と共に生きて来た。唯ひたすらに人形を生か
すと言う無形にして高貴なるわざに一生を捧げ続けて来た。……徒らに衒気と傲慢と偏見に真実を見失っている人々よ! このひとりの翁の前に慙愧するがいい!<芸術>とは斯う言うものなのだ。ひたすらの刻苦と精進。彼の精神は今輝かしくも「わざ」を克服している。之は決して錯覚ではない。事実、師の人形は、他の何れの人形達よりも鮮かに、見事に私の眼の前に生きているのだから。……
 民主主義の時代だろうと、共産主義の時代だろうと、此の厳しい刻苦と精進の「芸道」を否定してしまえば、歌舞伎も能も人形浄瑠璃も死滅して行く他はない。此等の芸術は、最早、「時代」とは何の関係もないものなのだから。……
 語り手、我が浄瑠璃界の至宝、豊竹山城少掾の見事な口演の節奏に乗った文五郎師の政岡(御殿の場)は第一回の演目中、圧巻であった。」

最後は、『三田文学』の昭和24年8月号に載せた「怒りと夢と幻」である。

「怒りが僕をあの様な世界に誘い込んだのだと思っている。やがて自分にも襲いかかるであろう運命の宣告を、半ば諦めた様に、僕は待っていた。それまでの日々を、僕は能楽堂や図書館の中で過した。それ以外に僕は抑え難い怒りをまぎらわす方法を知らなかったから。怒りが激しかったればこそ、僕はあの「能」の夢と幻の世界を理解することが出来たのだと思っている。特に死んだ万三郎師の舞は忘れられない。消えざる幻の様に、今でも鮮かに僕の脳裡に蘇って来る。名人は「恋重荷」を舞っていた。あのひとも定めし激しい怒りの中に夢と幻を追っていたことであろう。……
  重荷なりともおふまでの、重荷なりともおふまでの、恋の持夫になろうよ。
世阿弥の実現した幻の世界の底には言い難い激しい、深い怒りがひそんでいる。人の世の現実に対する激しい怒りこそ、深い幻の世界を生むものだ。僕をあの様に強く惹きつけたのは他ならぬ世阿弥自身の怒りであった。
(中略)演劇にしてもそうである。劇作家が外的な現実に唯唯として隷属してしまったら、真の夢や幻は生れ出る筈はない。舞台の自由なヴィジオンの羽搏きは喪われて行くであろう。
怒りも、愚衆のそれに似た生々しい言辞にこめられるだけならば、そんなものはむしろ醜いものだ。芸術の在るべき姿とは凡そ縁遠い。そんな凡俗な怒りなどには興味も湧かない。此の現実を見よ、などと言う様な看板は芸術を見せる場所にはない筈である。
(中略)芸術からその様な怒りを取り除いてしまったら、凡そ何と無意味なものか。その様な時、人間の智慧なぞ何と言う無価値なものか。僕は彼等の怒りを知っていればこそ、彼等の夢や幻をも信じているのである。」

己は安全なところに身を置きながら、「非戦の会」などに名を連ねたり、国家権力の庇護を無自覚に受け、行政の取って付けたような、予算ばら撒き型の文化政策に便乗、補助金漬け、麻薬中毒患者同様に思考停止してしまった現代演劇の権威や中堅、若手の劇作家や演出家、製作団体に、戦時下に加藤が抱えたであろう「怒り」、そして「夢」や「幻」は、露ほども理解出来まい。それは万三郎の、あるいは世阿弥の怒りも、同様に芸能人として持て囃される現代の能楽師には理解不能であろう。
昭和28年12月22日に自裁した加藤道夫は、古典芸能が、そして現代演劇が、「外的な現実に隷属してしまった」時代を長らえずに済んだ、と言えば言い過ぎだろうか。