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「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』(壱)

市川三升著、推古書院、昭和25年刊。函、本の奥付けには、『九代目市川團十郎』とあるが、本の背、タイトルは、『九世團十郎を語る』となっている。55年前の、おおらかな本作りである。
今回は、3回に分けてご紹介する。それぞれに相当に長い文章になるが、お付き合い戴きたい。
筆者は昭和31年の没後、十代目市川團十郎を追贈された。既にこの<提言と諌言>の7月7日の「閲覧用書棚の本」の『鏡獅子』でも登場した三升こと堀越福三郎は、九代目の長女・実子(二代目市川翠扇)の夫であり、九代目歿後の成田屋・市川宗家の当主であり、歌舞伎界の総帥とも言うべき存在。
福三郎は、東京・日本橋江戸橋西詰で代々手広く履物商を営んでいた稲延利兵衛(後に稲延銀行を設立、東京市議会議員、富士紡績取締役などを務める。)の次男として生まれ、慶應義塾に学び、日本通商銀行に就職、明治34年に堀越家に婿入りする。九代目が芸の跡目としてではなく、市川宗家の後継者として、自分と同様に政治家や学者文人とも交流するに相応しい教養や見識を持つ(梨園ではその後も百年の間、類例の無いことだが)ブルジョワ出身のインテリゲンチャの青年を娘の婿にと望んだ。そこには、その三十年前の、九代目自身の嫁選びと相通じたものがある。

「明治四年、父は三十四歳で妻を迎へた。花嫁は京橋南槙町に西會所を開いてゐた御用達小倉庄助の娘でまさと呼び、母を千代と呼んだ。當時の俳優の多くが花柳界から妻を迎えたのに反し是非とも堅気な家の娘をと望み、縁あつて小倉家の娘おまさを貰うことになつたが、小倉家の方でも娘を俳優の家に縁付かせるといふのは大英斷であつた。そこで同家でも世間を憚り山谷の八百善を假の親許として河原崎家に嫁がせた。
 母ますが、どうして河原崎家に嫁いで来たかといふと、小倉家の縁家に芝居茶屋をやつてゐたものがあり、自然母も芝居へ足繁く出入りするようになり、その中不圖權十郎(後の團十郎)の将来のあることを見込んで是非に嫁ぎたいと傳手を求めて父まで申し込んで来た。父は總てを祖母に任せてしまひ、祖母も亦同意したので、見合いもせずに此の縁談が纏つたのである。」(「結婚」)

野口達二著の『芸の道に生きた人々』(昭和41年、さ・え・ら書房刊)の、「九代目市川団十郎」の項に、このあたりのことに触れた文章があるので、参考に採録する。(ちなみに、この本は、比較演劇学の泰斗・河竹登志夫氏宛の献本署名本である。)

「旧土佐(高知県)藩主の山内容堂などは、権之助の後援者のひとりでしたが、河原崎権之助を自宅によんで、七代目・市川団十郎の創りだした「勧進帳」をときどき舞わせながら、それにふさわしい衣装などをあたえていたということです。これら有力な後援者のなかにも、そろそろ九代目・市川団十郎を、権之助につがせようという心の動きがみられるようになってきていました。 河原崎権之助は、そろそろ、このあたりで身をかためるようにすすめられ、妻をもらうことにしました。明治四年のことです。妻の名は、ますといいました。良家の出のますは、親類と縁をきり、いったん、八百善という料理屋の養女になってから権之助のところに嫁入りしてきます。
役者は河原こじきだ、その河原こじきと結婚する―、ということが、そんなめんどうな手つづきをとらせたのです。東京を代表する三座の、その一つの座頭の役者でも、役者であるがために、そうした仕打ちにあまんじなければならなかった時代です。御一新がすんだといっても、まだ、世の中は、そんなに封建的なものだったのです。
 口にこそだしませんでしたが、河原崎権之助の心のなかでは、きっと、そうした古いものへの反抗が、静かに芽ばえていたのでしょう。心のうちにひそんでいたその芽ばえが、やがて燃えだし、河原こじきの芸といわれていた歌舞伎を、国劇とよばれるものにまで高め、同時に、役者の地位を、人なみにおしあげていく生涯を送らせたも
のと思われます。」

 團十郎の妻「ます」の兄・亀岡市三郎(小倉市三郎)は、江戸城の石垣修復や品川沖台場造営を請け負う幕府石方棟梁の亀岡甚蔵(亀岡甚造)の娘婿になり、娘をもうけた。私の母方の祖母である。(私の高祖父であるこの亀岡甚蔵(亀岡甚造)については、高村光雲著『幕末維新懐古談』(岩波文庫刊)に、光雲の師・高村東雲の後援者の一人として描かれている。金龍山浅草寺、成田山新勝寺などの信徒総代を長く務め、宗派を問わず信仰していた彼は、若い時分から常に数珠を離さないほどの信心深い人物だったようだ。プリンシプルを重んじた私の演劇感が、時として理念的で抹香臭く感じられるとすれば、この高祖父の血が災いしているのかもしれない、と言えば大げさか。かつて、テレビマンユニオン会長だった故・萩元晴彦氏が教えてくれた言葉に、「製作作品には2種類のプレイヤーが要る。それは、俳優や演奏家などのPlayerと、製作者として作品の完成や成功を祈るPrayerとだ」というものがある。私はこの言葉を拠り所にして、演劇を実践し考えてきた。私の演劇感が、信心のように説経染み、抹香臭くなるのも当然かもしれない。)
子供の時分に母から聞いた話だが、明治10年生まれの祖母の記憶によると、祖母の幼いころには、「ます」叔母は、実家である小倉家や、兄の家であり自分が育った亀岡家に戻って来たり、訪ねて来たことがなかったという。
麻布鳥居坂の井上馨伯爵邸で天覧歌舞伎が催されたのは明治20年4月。祖母がやっと「ます」叔母や團十郎の存在を知ったのは、そのころだったという。築地の團十郎家と日本橋の亀岡家の行き来が始まり、釣道楽の團十郎が弟子に届けさせた釣果が、曽祖父の家の夕餉の膳をたびたび賑わした。
 時代は明治になっていたが、苗字帯刀を許された江戸幕府御用達の家族と、歌舞伎界の総帥とはいえ、長く被差別民だった歌舞伎俳優とが、宿命的な身分やその意識から放たれ、世間に憚ることなく親族付き合いを出来るようになるまでには長い歳月が必要だった、ということかもしれない。