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「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』(弐)

明治元年、九代目団十郎の養父で、河原崎座の座元である権之助が、今戸の家に押入った浪士の強盗に切り殺されるという事件があった。この時、九代目は風呂場にいて難を逃れたが、母屋から聞こえる権之助の断末魔の呻き声を聞いた。これが後の「湯殿の長兵衛」の役作りに活かされたという。
その13年後の初冬、九代目が強盗に襲われる。

「話は少しく講談めくが、明治十三年の十一月二十八日、新富町の自宅へ六人組の強盗の入つたことがある。此の話は永く世間の語り草にもなつてゐたが、當時内弟子としては、新十郎、升蔵などがゐて出入の按摩なども泊つて行つたりしてゐた時分である、丁度此の日も按摩が泊つて其の療治をうけて眠つた父が、不圖眼を覚して見ると、見馴れぬ姿の者が四五人入り込み、頻りに何か物色してゐる。中の一人は山岡頭巾をかぶり、眼が覚めた父に向つて手にした脇差をズブリと畳へ突き刺して、急に凄文句を並べ出したのである。然し父は別段驚いた様子も見せず、「何でも貴下方の好きな物を持つて行つて下さい、然し、家人の中には親から預つた大切な弟子たちも居ることですから、どうかこれ等の者には怪我をさせないようにして戴きたい」と穏かに制し、そして傍らの母にも「皆さんの望むものを何でも出してあげるがよい」と命じたのである。そこで賊は目ぼしい物を掻き集めるように纏めて背負い出し、「もう用はねえから寝るがいい」と捨台詞を残して出て行つてしまつた。そのあとを見送つた父が、戸外を見ると、空は晝のように明るい月があつたので
 白浪の 引くあと凄し 冬の月
と一句を吟じた。
 此の賊は其の後吉原へしけ込んで駄々羅遊びをした為めに、その時遊女に與へた父の着物から足がつき、皆捕へられたが、然し賊に持つていかれたものは半分も出なかつたといふ。
 この時、戸外で見張りをして居た賊の一人は丁年未満といふので減刑され、出獄してから北海道で薪屋を開いてゐたが、ある時上京して歌舞伎座で、父の「地震加藤」を見物し、これほどの名優の家に押入つたのは誠に面目ないと懺悔の手紙を寄せて来たと云ふのである。
(中略)なほ数日を経た或る夜、光明寺三郎氏が遊びに来られてゐる處へ、云ひ合せたように西園寺侯が見え、ステッキを振りながら、「堀越居るか」と突然戸を開けて入つて見えたので、父は又賊かと驚いたといふ一つの笑話が残つて居る。」(「六人組の白浪」より)

『白浪五人男』など、歌舞伎の演目でご存知の方も多いと思うが、白浪とは盗賊のことである。
7月7日9日の『提言と諌言』で、「鏡獅子」を紹介したが、舞踊の名手でもあった九代目の舞踊観や教え方叱り方などが描かれている。私は子供の頃から今でも、テレビ芸能人化した歌舞伎俳優や舞台俳優を嫌悪してきたが、三升は、芸人根性を蛇蝎の如くに忌み嫌った九代目の剛直性をも指摘する。

「次に父の最も得意とした舞踊に就いて述べてみることとする。元来市川流の踊は、西川流と志賀山流から出て一家をなしたもので、それが父に依つて創始され、翠扇に傳へられたのである。
 父の舞踊に就いての主張は、踊は唯手足の動きばかりではいけない、腹がなくてはならぬといふのである。従来の振付師のすることを見ると、唯昔の型をそのまま踏襲してゐるばかりで、歌詞に就いての調べなども杜撰を極めて居たもので、自然振付なども誤つた型が残されてゐた。「麻綯るたびの楽しみを…」といふくだりなど、たび
を旅にかけて草履をはく振りがついてゐるなどそれである。「鏡獅子」の稽古の時、翠扇が牡丹の花を見あげる形のところなど、父が傍らで見てゐて「そんな大きな牡丹はない」と教へたことがある。
 父はさうした點に非常に深い關心を寄せてゐて、何處までもその眞を掴むやうに深く掘下げて研究した。即ち研究もせず調べも怠り唯あり来りのまま無關心にやつてゐることを腹がないといつたのである。父の持論として踊は一劃一線、どこを切つてもそれが繪になつてゐなければならない。それが日本舞踊の精神であるというてゐた。
まことに箴言である。
(中略)稽古に就いても一家の持論をもつてゐて、「稽古は何度やつても同じである、多くやつては却つて學ぶ方に気の弛みがでる」と、父は三度以上は教へない。稽古をする方でも三度以上は教へて貰えないから、自然に一度も身にしみて稽古する。それ故だんだんと上達してゆくわけである。
 踊も三度、叱言も三度、それで聞かなければ、もう駄目として叱言も言はない、芝居の上でも役によつて一通り教へるが、それが解らなければ、次にはその役はやらせない、それに就いて他人がどう言はうが聞き入れない。
 かうなると日頃の剛直性が現はれて通俗的な妥協性は無くなるのである。自信があればこそ断行するのであるが、一面には、それが世の誤解を受けたともいへる。實に藝術家としての尊厳な態度は十分に把持した。
 所謂藝人根性といふものを蛇蝎のごとく忌み嫌ひ、口癖のように家人の者を誡めたのであつた。」(「父の舞踊とその主張」より)