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2005年01月 アーカイブ

2005年01月01日

『GOLDONI JUGEND』との大つごもり

 30日9時半、赤坂見附駅に着く。弁慶橋付近を散策。そして10時ちょうどにサントリー美術館に。閉館記念の『ありがとう赤坂見附 サントリー美術館名品展 生活の中の美1975-2004』展の最終日。野々村仁清作の『色絵鶴香合』をはじめて見る。丈(鶴の首)のある香合も面白い。桃山時代のものといわれる、『桐竹鳳凰蒔絵文箱・硯箱』の細工の見事さに感心。銅製鍍銀の水滴は、鳳凰の羽根が付いた卵を象っている。製作者のアイデアか、発注者のセンスか。たいした遊び心である。鍋島の『染付松樹文三脚皿』は、薄手の成形で、皿の中心部分に余白を残し、屈曲する松樹を周辺に描く巧みな描写。高台の三方に菊葉形の脚をつけたもの。バランスのよさは出色。江戸中期から昭和の四十年代まで営んでいた、銀座の陶器屋『陶雅堂』の末裔ながら、まったく焼き物に関心も造詣も無く、今頃になって己の無知を恥じ入り、少ない残り時間に慌てて機会を作り勉強する始末。江戸中期以降、江戸・日本橋商人の娘の行儀見習先の多くは諸藩の屋敷であったが、曽祖父の妹も、取引のあった鍋島藩上屋敷から下がり、当時の俳優の多くが花柳界から妻を迎えたのに反して、堅気な家の娘を妻に望んだ九代目市川團十郎と見合いもせずに縁談が纏まり夫婦となった。
 やきもの、鍋島、の連想から、また江戸を引き摺る明治の時代に思いを馳せていると、その隣りで中年婦人の二人連れが、辺りを憚かることなく大声で話している。どこへいっても、公共空間認知能力の欠如した、最低限の社会性すら持ち合わせない愚かな人たちを、亡くなったオーナー佐治敬三氏に代わって小声(?)で叱る。効果はてきめんで、混み出した館内、ざわつき始めていたところだったので、暫くは静かなフロアに戻った。このサントリービルには二十数年前から数年、宣伝費や協賛金の無心によく通った。そんな若き日の想い出の場所との別れを惜しむ朝だった。GOLDONIに戻った昼過ぎから23時までは、年末の挨拶にお越しのご常連や、最近始めた研究会のメンバーたち、若い友人である翻訳家などと、それぞれに長い時間をかけて話し込んだ。
 31日の15時過ぎ、GOLDONI の前で道路の雪かきを始めているところに、神保町に僅かに残る路地に相応しからぬ美しいアメリカ人母娘が、頭に雪を頂きながら「ハーイ」「コンニチハ」。懇意にして下さるV氏の夫人と愛嬢のおふたり。夫人は私が大晦日の遅くまでGOLDONIに篭るだろうことは先刻ご承知か、銀座・久兵衛の寿司を差し入れて下さる。アメリカの大学院で演劇を学ぶお嬢さんに、大学での上演活動、授業のことなど伺う。お二人が帰られた後、JUGENDのSさんが年末の挨拶に寄ってくださる。手には焼き菓子の詰め合わせ。「僕も年末の挨拶にこれくらいのことをさせて戴きたくて…」。忝し。昨年から手伝っている日本演出者協会のことなど教えてもらう。
 大雪になりそうなほどの悪天候、底冷えのする寒さもものかは、遠くはアメリカ(麻布の自宅から、パパ運転のベンツで、だけれども)から、近くは飯田橋から自転車で、能力も見識も志も高い『GOLDONI JUGEND』の訪れに心温まる大晦日だった。

2005年01月04日

『舞台芸術図書館』準備始動の新年

昨3日の12時、年末からの約束で劇団四季OBの俳優・浜畑賢吉氏が見える。03年夏に刊行された自著『戦場の天使』(角川春樹事務所刊)、東アフリカの自然保護などを会員の無料奉仕と寄付によって支援する『サバンナクラブ』(氏は副会長を務めている。)のカレンダー、缶ビール半ダースを手土産にしてくださる。本とカレンダーは、有り難く頂戴するが、四季を辞めた時に酒断ちをして以来飲まなくなったので、せっかくのビールは氏おひとりで飲むことになる。氏はGOLDONIでアルコールを口にした最初で最後の客か。昨年4月から専任の教授としてお勤めの大阪芸術大学での授業のこと、東京で計画されている演劇スタジオのことなど伺い、私が構想している、『舞台芸術図書館』や現役の演劇人の為のスタジオのことなどを聞いて戴く。個人の力で、俳優の教育なり、演劇製作者やドラマトゥルクの再教育の為の施設を作ることは難しいことだが、本気になって難事業に取り組む劇団の先輩を見送りながら、この1年を『舞台芸術図書館』作りに専心する決意を新たにした。何もかも官に頼るのではなく、個人で出来ること民間ですべきことは自己責任で成し遂げようとの今の社会では主流になった真っ当で当たり前の考え方は、こと演劇の世界では、四季育ちくらいしか持ち合わせない珍しいものかもしれない。
この4月には、新国立劇場の演劇研修所が立ち上がり、初年度は15人ほどの初心者を教えることになる。ここに初年度で6千万円ほどの税金が投入される。研修施設は劇場内のものを活用するのだろうから、設備には殆ど費用が掛からず、その大半は、そこで教える演劇関係者の講師謝礼になる。演劇部門の芸術監督はじめ、早々と委嘱が決まっているのか、『俺が所長になるんだ』と、はしゃいでいると評判の演出家も含めて、またぞろ金の匂いに敏感、いや、公共の務めに熱心な人びとで、劇場と言うよりは病院の関係者通用口を思わせる地下や、役所のような陰気さが漂う劇場内施設が、ますます非演劇的な空間になることだろう。
18時、劇団四季の広報部門で働くK君が新年の挨拶に寄って呉れる。話し込んでいたら、K君の携帯電話に同僚のT君から誘いの電話。汐留で待ち合わせをすることになったので、カレッタ汐留で開催中の『劇団四季展』を観ることにし、K君の案内で出掛ける。特設テントで設営された会場でK君同様に親しくしているT君と会い、三人で近くの『スターバックス』で30分ほどお茶を喫する。
今日4日からGOLDONIは営業を始める。最初の来客は、毎日新聞特別顧問の諏訪正人氏。氏は劇団四季の創設期に文芸ブレーンでいらしたので、劇団の大先輩のようにお慕いし、いつも興味深いお話を伺い勉強させて戴いている。今日は氏が旧制の中学生であった昭和23(1948)年、毎日ホールでご覧になった劇団俳優座公演『天使捕獲』(作・正宗白鳥、演出・千田是也、出演・千田是也、松本克平)の舞台の思い出を伺う。先ほど、所蔵の昭和30(1955)年、白水社刊の『現代日本戯曲選集』で、この『天使捕獲』を初めて読んだ。これほどの作品を試演会という形態で上演していた劇団と俳優、観ていた観客、そして戯曲のレヴェルをなくした今、それでも劇作に手を染めようという人々は、執筆を何年か止めてでも、この白鳥始め、書くべきものを持った作家の戯曲を、またその書かれた時代を勉強するところからやり直すべきだろう。
夕方、劇団四季の演出部OBの好川阿津志氏が見える。先日も年末のご挨拶にお越し戴いたばかりで、劇団の後輩ということあってか、弁えの足りない私などには、真似すら出来ない氏のお心遣い。反省し感謝する。『舞台芸術図書館』の設立についても、「あなたがやらなければ、個人民間の自助努力でそういう施設を作ろうという人は出てこないのだから」と叱咤激励される。
偶々だが、『GOLDONI舞台芸術図書館』の設立準備が始動する、そして『演劇書専門GOLDONI』が閉じる年の初め、若い時分に自助の精神を教えてくれた劇団四季の現役やOB、縁のある人たちと、『演劇』を語らった。

2005年01月06日

新年、そして最後の年に思うこと

元旦の新聞から。毎日新聞3面の新シリーズ『語る-戦後60年の節目に』の一回目は、ハーバード大学名誉教授の経済学者、ジョン・K・ガルブレイス氏。『ゆたかな社会』(岩波書店)、『経済学と公共目的』(講談社文庫)などを学生時代に読み、「社会的公正への視点」などを学んだ、つもりでいる。記事を要約、あるいは引用させてもらう。戦後の日本の復興と国際舞台への再登場は、聡明さや規律正しさの天性の才能を持った日本国民の貢献によるもの。しかし中国、インドなどの今日の経済の台頭は目覚しく、この先の10年で日本は中国の陰に入り、もはや日本の成功はあり得ない。「戦後の努力は報われたのだから、これからは世界から敬服されることに力を注ぐべき」。「今、私たちは新たな段階を迎えている。どれだけ生産を上げられるかではなく、私たちが何をするかが重要になる世界の到来だ。教育、芸術、生き方…。そんな人間存在の基本となることの遂行だ」。「とりわけ、教育はその重要性において経済に匹敵するものだ。政府にとって最も洗練された仕事は、教育システムの質の向上に金と努力を傾注することだ」。「教育者や芸術家ら家庭や地域社会の幸福に資する人たちが前面に出てこなければならない。そんな時代になったのだ」。
経済バブルが終息した90年代、演劇や舞踊などの「舞台芸術」に、国や地方公共団体、それらの外郭団体から、かつてない助成金・補助金(税金)のばら撒きが目立つようになった。明確な評価基準も無く、透明性の担保されない経費支出が常態化され、海外研修も、団体や劇場の運営、作品の制作にも、芸能プロダクションの海外公演にも税金が投入される。助成・補助が無ければ個人も、団体も、劇場も成り立たなくなってしまった。この助成金・補助金漬けで、殆どの演劇人が麻薬中毒患者の様になってしまった。麻薬やアルコールの中毒は、苦しいがそれを絶つことで更生することが可能だが、今の演劇人に助成金絶ちは出来そうにない。規律を持っての日々の精進、時間と労力と叡智とを掛けての演劇活動、自助努力を尽くしての団体・劇場経営こそが、演劇人が一般社会から敬意を持たれる姿勢だろう。口惜しいことだが、この十数年で演劇人の気風は変わってしまった。そして、そんな姿を冷静に観察・批評すべきジャーナリスト・批評者はほぼ絶滅した。今日も多くの劇場の客席には、批評眼など最初から持ち合わせていないミーハーファンが幅を利かせている。
「世界から敬服されることに力を注げ」とのガルブレイスの遺言になるかもしれない言葉に、「演劇人は社会から敬意を持たれる経済的には貧しい人々」を取り敢えずは目指すべきと主張・実践し、多くの無視と、あるいは反感にあってきた私は、救われた思いだ。
力足らずに無名、経済的には貧しいが、僅かに残った矜持と、徒労に終るかもしれない行動にかける情熱が失せぬ今、舞台芸術図書館の設立準備を急ぐことにした。図書館の開設あるいは断念の如何にかかわらず、『演劇書専門GOLDONI』を今夏に閉じることも決めた。残り時間は少なくなったが、私なりの演劇への、そして社会への最後の務めを果たしていきたい。

2005年01月10日

『最善を尽くし、一流たれ』

正月の新聞から。日本経済新聞の元旦から始まった『私の履歴書-中村鴈治郎』が面白い。今年の12月に京都・南座での顔見世興行で、230年途絶えていた上方歌舞伎の最高名跡・坂田藤十郎を襲名する現三代目の鴈治郎。経済活動では地盤沈下の激しい関西で、(我が国民のモラル低下の推進役でもある吉本興業は、本の街、知の集積基地である神保町に痴性で対抗か、GOLDONIの隣りのブロックに進出。そのお披露目は、所属タレントが社員マネジャーを殴ったとかの傷害事件でタレント本人が開いた涙の記者会見だったそうだ。)歌舞伎は戦後の数年で斜陽化し、東京からの俳優が応援、あるいは主役の座を奪っての興行が五十年以上続いている。そんな時代、「私はかねて江戸歌舞伎と上方歌舞伎の両方が隆盛になることが、歌舞伎の本当の意味での隆盛」と語る。「襲名が近づいてきて、藤十郎の影のようなものを感じ続ける毎日」だそうだ。また、祖父・初代鴈治郎が一代で築いた名を返上しての73歳の挑戦。初代鴈治郎同様に名門出身でなく、大正・昭和前期に活躍した祖父・初代中村吉右衛門の名を益々高め、東京一の大俳優になった二代目中村吉右衛門は60歳。この東西のふたりに現役として長く活躍してもらいたい。「家の名前を継ぐ通常の襲名」が目白押し、芸道よりは女性タレントに関心の向く、歌舞伎俳優というよりはテレビ芸能人紛いの世襲役者の演る舞台が量産され、舞台よりもテレビや新聞・雑誌などマスコミ露出度が実力の証のように、本人だけでなく、当のマスコミの人間まで勘違いさせる現状が続けば、長期的には歌舞伎の命脈は尽きるだろう。
鴈治郎の履歴書の昨日の回からは、武智鉄二が行なった、所謂『武智歌舞伎』の話が出てくる。「武智先生は資産家で、戦時中、古典芸能を守るため『断絃会』という鑑賞会を主宰しお師匠たちを支援し」ていた。そうした古典芸能の演者のうちでも特に名人と言われた、浄瑠璃の豊竹山城少掾や能の桜間道雄に稽古をつけて貰っていた。 「そうでなかったら私みたいな者に稽古をつけてくれるはずがない。いくらお金を出しても教えないような名人」には、武智が稽古の月謝を支払っていたという。 『一番いいものを見て、一番いいものの中に育っていないと芸が貧しくなる』と武智鉄二に言われていたそうだが、これは芸だけでなく、あらゆることに置き換えて言える教えだ。
若い時分に武智鉄二や扇雀を知り、今は吉右衛門だけを本格の江戸歌舞伎俳優だと思っている私は、親や師匠たちに教わったと同じ武智の教えに触れ、「清里開拓の父」として著名なアメリカ人宣教師のポール・ラッシュ博士が、八ヶ岳南麓の地元の子供たちに教え諭した言葉を思い出した。
『Do your best and it must be first class』。

2005年01月17日

新春の初尽くし

正月の三が日は、元旦の昼からGOLDONIに出て、新年の挨拶に見える来客と話をしたり食事をしたりし、そのまま4日から8日の土曜日まで休まなかった。幼少の頃からの新年の浅草寺の初詣でが出来たのは9日の日曜日。初の劇場見学は10日の成人の日、佐藤信氏のご案内で神楽坂に3月完成予定の岩戸スタジオ。こんな小屋を併設した図書館が欲しくなった。初パーティーは12日の椿山荘(幼い時分は見事なボンヤリで、蛍がこの椿山荘にだけいるもの、と思っていた)での俳優座創立六十周年の宴。俳優座の若手俳優たちが、ショータイムの舞台に乗って歌ったり踊ったりしていたが、その舞台姿は演出なのか全くの素人になりきっていた。初寄席は、15日の国立劇場演芸場での『花形演芸会』。(開演時間には間に合わず、仲入り前の柳家喬太郎の『三味線栗毛』から聴いた。この人は新作の人気若手落語家だが、この日は、最初からトチリが多く、古典をまともに浚って舞台に臨んでいるとは思えない悪い出来。トリの三遊亭竜楽『紺屋高尾』、予感がありロビーのモニターで聴いていたが感心せず、途中で演芸場を出た。ゲスト出演の国本武春だけがやけに目立った、今日の芸能を映す暗示的な演芸会。)初芝居は、今日の歌舞伎座の昼の部。目当ては無論の事だが、中村吉右衛門の『梶原平三誉石切』。柄といいニンといい、説得力といい、見事な平三景時。六郎太夫の市川段四郎がよく勤めていたが、台詞のトチリが重なり残念。市川左団次や中村福助の拙さなど書くだけ野暮というもの。『松廼寿操三番箒叟』の市川染五郎、十四五の少年ならば誉めるところ。海老蔵同様、独身のうちに外に子供を作るほど立派な大人の俳優としては何とも不足な出来。『盲長屋梅加賀鳶』の松本幸四郎、この人を歌舞伎でも、東宝ミュージカルでも、松竹大衆劇でも、ましてや三谷幸喜作品でもなく、彼の得意そうな心理描写が生きる海外戯曲で観たいもの。中村屋の郎党のような松竹の幹部も、物入りだった昨夏のニューヨーク公演の後始末や何とも分不相応な勘三郎襲名3が月興行の仕込に大童だろうが、高麗屋のことも少しは考えるべき。坂東三津五郎に精彩なし。勘九郎もそうだが、マスコミが実力以上に評価、持ち上げることも彼らの所謂『運も才能』だとすれば、彼らの身体の小ささは不幸なほどに運がなく、大きなハンディキャップ。ただ、幼少の時に観始めた市川寿海、桜間金太郎、藤間藤子、井上八千代などの昔の名人は、体こそ小さいが舞台では大きく立派に見えた。今の彼らには身体的なハンデではなく、本質的な何かが欠けているのだろう。『女伊達』の中村芝翫、姿形で興味をそがれた。将来の歌右衛門になる福助を観続けるほどの覚悟も義理もないが、成駒屋も団十郎もだが、裏に回ってでも少しは本腰を入れて子弟の演技指導・生活指導に専念したらどうだろう。
今年は今まで以上に優しく穏やかで、無理にでも誉めるところを見付ける好事家を目指そうと年の初めに誓ったが、それにしても少し甘すぎるコメントになってしまった。 

2005年01月20日

『ヤング・トスカニーニ』と『三田文学』

昼過ぎ、「店の雰囲気に引かれて入ってしまいました」と仰って、地元の小学館のK氏が初めてご来店。お帰りの時は、「急ぎで新刊が必要な時は、いつでも連絡なさい」、とも。忝し。明治大学政治経済学部の3年生Y君、「日本劇団協議会の機関誌(ジョイン)は売っていますか」。残念だけれど、皆さんにお薦めするほどの質もなく、私自身も蔵書として保存していない。「何でそんなものを読みたいの?」と訊くと、最新号でメディアの側の人たちの座談会があってその部分を読みたい、と言う。その号はたまたま、末席を汚しているある研究会のメンバーに頂戴して読み、その座談会に新聞メディアを代表して出席していた記者氏にも、先日の俳優座創立六十周年記念の催しで会い、その折のことなど20分ほど伺っていた。Y君には「貸して差し上げる」と言い、あとは就職活動の話など訊く。
15時過ぎ、音楽評論家で、エイベックスの顧問をされている安倍寧氏と電話で話しているところに、毎日新聞特別顧問の諏訪正人氏が見える。ゼッフィレッリの『ムッソリーニとお茶を』のヴィデオテープをお返しし、当方のホームページの新コンテンツに寄稿エッセイを作る予定で、日本を代表するコラムニストの氏に厚かましくも玉稿を賜るべくのお願いもあって、ご多忙な安倍大先輩から頂戴した電話だったが、「諏訪さんがお見えになりました」と状況をご説明、後ほどお掛けします、と受話器を措かせて戴く。「11月に久しぶりに安倍氏と会いました」と仰っていた諏訪氏にも「安倍さんとお話していました」とお伝えすると、「電話の途中で、安倍さんにも済まなかった」。「『ヤング・トスカニーニ』が面白い。今度貸してあげる」。「原稿は書きます。テーマや締切りなどはメールで送って下さい」といつもながらのお心遣い。「安倍さんに詫びていたとお伝え下さい」と仰り、社にお戻りになった。その後直ぐにお待たせしている安倍氏に電話。「(クラシック音楽情報サイト)モーストリークラシック・エキサイトでお書きの『気分のよい瞬間』、面白いです」などと、文筆業50年の権威をつかまえて厚顔にも感想を述べる。「昨夜、安倍さんと親しい方のお嬢さんと会いました」と報告すると、彼女の父親が著名な作家であることを教えられる。『三田文学』の冬季号が、フランス文学の白井浩司先生の追悼特集を編んでいるそうで、慶應仏文出身者の「彼も、僕も、あなたのお兄様も書いていますよ」。編集修業をした『三田文学』の最新号すら読んでいない私に呆れながら(?)も、「近いうちに持って行ってあげる」と仰ってくださる。
  

2005年01月21日

『白洲次郎』と『帝国ホテル』

昨日の続き。17時過ぎ 、友人の紹介で、メディア総合研究所の吉野眞弘社長がお見えになる。氏はITコンサルティング、翻訳、語学教育、映像製作、出版などメディア全般の事業展開をされているが、尊敬する白洲次郎の本、『プリンシプルのない日本』の発行者でいらっしゃるので、お目に掛かることを楽しみにしていた。吉野氏は私より5歳年上の57歳。氏との1時間ほどの対話は、1960年代後半から今日までの四十年ほどの日本の変わり方についてだった。営利企業の利益追求という『欲望』とはなど、興味深いテーマのお話を伺ったが、途中で私の外出の時間が来てしまい、「今度はじっくりと話せるように時間を作りましょう」と仰って戴きお帰りになった。
18時半、有楽町へ。東京国際フォーラムCホールで上演中のMOMIXの『PASSION』。会場で『三田文学』の元編集長の作家・高橋昌男氏にご挨拶。終演後、DNA Mediaのプロデューサー後藤光弥氏と日比谷の『慶楽』で食事、帝国ホテルの『EUREKA』でお茶。この2店は、三十年来の日比谷での定番コース。『舞台芸術図書館』の設立に向けて、そのグランドデザイン作りなどを相談。海外・国内の出張も多く、マルチメディアコンテンツ制作で多忙な氏、「時間のあるときに、インタビューして差し上げる。話すことで構想がより明確になるはずだから」と仰ってくださる。話の途中、向かい側の席の団体が帰るところで、そこに旧知の桜ゴルフの佐川八重子社長がいらしたのでご挨拶。「ご兄弟、ご活躍ですこと」と過分なお言葉を戴いた。「活躍」とは全く縁の無い無名な演劇製作者としての最期の挑戦が、『舞台芸術図書館』。応援してくださる人々と、活躍は出来なくとも、自助努力による演劇の拠点作りに邁進したい。
  

2005年01月25日

『火山灰地』(第一部)を観る

17日の『新春の初尽くし』で書き忘れていたが、今年最初の現代演劇観劇は、東大駒場での小鳥クロックワークの最期公演『わが町』の最終日だった。新年早々に、何があってか創立8年で解散する劇団の千秋楽公演を観るとは変なものだ。24日の夜、こちらは創立五十五周年の劇団民藝公演、池袋の東京芸術劇場中ホールでの、久保栄・作の『火山灰地』を観る。1938年6、7月の新協劇団での初演(築地小劇場)、同年7月の再演(東京劇場)、戦後の48年の俳優座公演(有楽座)、61年の民藝公演以来の上演。今は亡き倉林誠一郎氏の名著『新劇年代記<戦中編>』で調べると、新協での初演時は前編が23回、後編が16回、合計39回の公演で、入場者数は17,093名。倉林氏が抜いた当時の東京朝日新聞の記事によれば、「(略)昭和十年頃、新劇の観客数は三千人を動かすのがやっとだった」が、「かくて事変後の新劇界に目立つことは、新劇も長期公演が可能になったことと、観客を一万人は確実に動かせるようになったことがあげられ、歌舞伎、新派の不振を他目に着々確固たる地歩を占めつつあるのが現状だろう。そして此劇界に於ける新劇の人気は興行資本家の目をつける所となり東劇を始め丸之内松竹劇場や有楽座に出演させる話迄新協、新築地両劇団に持ち込まれる迄に至っている。」とある。事実、初演終了の二十日足らずの同じ7月27日から31日まで、松竹所有の東京劇場での5日間7回の公演では、6,523名の観客だった。
私は俳優座公演の48年には生まれてもいず、民藝初演時の61年頃は、小学校を休んででも稽古に精進する毎日で、楽屋口から入る歌舞伎座と新橋演舞場だけが劇場だと思っていた旧劇少年で、親や姉が観ていたホールなるもので演る新劇には縁も興味もなく、したがってこの『火山灰地』は初めての観劇だった。感想は、この3月にも第二部上演があり、それを拝見してからにする。偶にGOLDONIや新劇団の公演時にホールでお目に掛かる作家の高井有一さんが、公演パンフレットに書かれている。その「『火山灰地』に思ふ事」の文中、民藝の初演時に、ニ幕の雨宮家の室内の場で、宇野重吉扮する農民・逸見庄作のへりくだった物言いと、それを軽くあしらう細川ちか子扮する雨宮の妻照子の態度との対照が、「二人の棲む世界の距たりを鮮明にさせた」とあるが、昨日観たばかりの今回の舞台に、その情景が全く思い出せない。

2005年01月31日

『舞台芸術図書館』は『落穂ひろい』

25日のブログを書く時に参考にした倉林誠一郎の『新劇年代記≪戦中編≫』(白水社刊)に、昭和15年の2月20日の項で、千田是也が新築地劇団を退団した折の文章が載っている。
「今度新築地をやめました。別に新築地と私の間に根本的な思想的または芸術的対立があったからではありません。どうにもならぬ感情的対立がある訳でもありません。私と新築地の間にある種の仕事の分化が行われたのだと思って戴ければ私は一番気軽です。単に新築地とばかりでなく、職業的な新劇団の組織から一応自分を引離してみたく思っているのです。といって私は現在の新劇の職業化に反対な訳でなく、また、それに絶望している処ではなく、この職業化の線にそってしか現在の新劇の発展はないと信じ、またその前途に対してもかなり楽観しています。職業化のある程度の実現によって、新劇人特に俳優の専門的技術の定着がなされつつあることは、これまでの日本の新劇運動の歴史になかった意義ある事実として非常に大切にしなければならないことだと思っています。新築地もその意味で大いに栄えて貰いたいものです。職業化につれて若干の面白くない現象がともなうにせよ-職業化の軌道からは今は一歩もしりぞくことはあやまりです。やれ卑俗化だ、やれ低調だと騒ぎたてるあわてん坊の評論家たちのあやしげな処方箋をあまり気にせず自信をもっております。もっともこの軌道を長年あるいていさえすれば誰れもかれもが天才になれる訳でもなくまたそれだけでよい芸術が出来る訳でもないでしょうがそういうものの土台が生まれて来ることは確かです。(中略)新劇職業俳優が当面の仕事に追われて出来ないようなそれでいて彼等に大変必要なある啓蒙的な仕事があり、それをやることを光栄に感じて一人の男が、新築地から分化してそっちの方に自分を派遣したという風に今度の退団をとって戴ければ私は一番気が楽です。これは新築地にもいつかは役に立つ仕事だと思います」。倉林氏の引用はここまでだが、『会館芸術』4月号に載せたこの千田氏の文はその後も続く。『もうひとつの新劇史-千田是也自伝』(筑摩書房刊)から抜かせてもらう。「平生の仕事として、私が買って出たいのは、生まれつつある近代的な職業俳優術の〈落穂ひろい〉みたいな役です。」「この国の新劇俳優はみんな、いはば一種の独学者です。しかも貧乏な苦学生です。経験ある演技指導者ももたないうえに、この職業の奥底にふれたことのない多くのディレッタント的演劇改良家にこづきまわされすぎているのです。その結果、基礎訓練がないのです。……その唯一の表現手段である自分の身体や心理については、恐ろしいほど僅かのことしか知っていないのです。」「私がいま買って出ることを大変に光栄に感じている新劇職人道の落穂ひろいの仕事というのは、現在の日本の新劇職業俳優たちの経験を集めたり整理したりして、系統だったものにしていくこと、また演劇とくに俳優についてのいろいろの学問の結論をいまの新劇俳優がその仕事のあい間に楽に咀嚼できるようなものにして、そのそばまで持っていくこと、そうした啓蒙的な仕事です」。千田是也の『演出演技ノート』(八雲書店刊)の「あとがき」には、この後の文章が載っている。「日本では演劇学といふ奴がどうもあまり、演劇の実践から遠いところにゐるやうです。また学問として若いせゐもあるのでせうが、芝居道からあんまり遠い人たちの手ににぎられてゐるので困ります。ドイツのアドルフ・ウィンヅやフェルディナンド・グレゴリー教授のやうな舞台に立った経験のある人々の息がかからぬと、この学問はやはり本物にならぬのではないでせうか。まあさう云ふ人があらはれるまで、日本の演劇アカデミーと新劇の実際とを結ぶ橋のやうな仕事をやらせてもらへたら、私は大変光栄です」。 
千田是也のその後の活動やその成果は、私が説明するまでもないことだ。ただ、昭和劇界の巨人が成し得なかった事業の一つに、演劇図書館作りがあると思う。私のような浅学非才、無名な演劇人には、この巨人の仕事の〈落穂ひろい〉すら大変なこと。今日のこの長いブログをお読み下さった方々のご助力を切に願う次第。