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『火山灰地』(第一部)を観る

17日の『新春の初尽くし』で書き忘れていたが、今年最初の現代演劇観劇は、東大駒場での小鳥クロックワークの最期公演『わが町』の最終日だった。新年早々に、何があってか創立8年で解散する劇団の千秋楽公演を観るとは変なものだ。24日の夜、こちらは創立五十五周年の劇団民藝公演、池袋の東京芸術劇場中ホールでの、久保栄・作の『火山灰地』を観る。1938年6、7月の新協劇団での初演(築地小劇場)、同年7月の再演(東京劇場)、戦後の48年の俳優座公演(有楽座)、61年の民藝公演以来の上演。今は亡き倉林誠一郎氏の名著『新劇年代記<戦中編>』で調べると、新協での初演時は前編が23回、後編が16回、合計39回の公演で、入場者数は17,093名。倉林氏が抜いた当時の東京朝日新聞の記事によれば、「(略)昭和十年頃、新劇の観客数は三千人を動かすのがやっとだった」が、「かくて事変後の新劇界に目立つことは、新劇も長期公演が可能になったことと、観客を一万人は確実に動かせるようになったことがあげられ、歌舞伎、新派の不振を他目に着々確固たる地歩を占めつつあるのが現状だろう。そして此劇界に於ける新劇の人気は興行資本家の目をつける所となり東劇を始め丸之内松竹劇場や有楽座に出演させる話迄新協、新築地両劇団に持ち込まれる迄に至っている。」とある。事実、初演終了の二十日足らずの同じ7月27日から31日まで、松竹所有の東京劇場での5日間7回の公演では、6,523名の観客だった。
私は俳優座公演の48年には生まれてもいず、民藝初演時の61年頃は、小学校を休んででも稽古に精進する毎日で、楽屋口から入る歌舞伎座と新橋演舞場だけが劇場だと思っていた旧劇少年で、親や姉が観ていたホールなるもので演る新劇には縁も興味もなく、したがってこの『火山灰地』は初めての観劇だった。感想は、この3月にも第二部上演があり、それを拝見してからにする。偶にGOLDONIや新劇団の公演時にホールでお目に掛かる作家の高井有一さんが、公演パンフレットに書かれている。その「『火山灰地』に思ふ事」の文中、民藝の初演時に、ニ幕の雨宮家の室内の場で、宇野重吉扮する農民・逸見庄作のへりくだった物言いと、それを軽くあしらう細川ちか子扮する雨宮の妻照子の態度との対照が、「二人の棲む世界の距たりを鮮明にさせた」とあるが、昨日観たばかりの今回の舞台に、その情景が全く思い出せない。