「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(壱)
劇団新派の名女優・水谷八重子(無論の事だが、故人の初代水谷八重子である。)には著書が数点あるが、この『ふゆばら』はその最初のものである。参考までに、他をあげておくと、『藝・ゆめ・いのち』(昭和31年、白水社)、『松葉ぼたん・舞台ぐらし五十年』(昭和41年、鶴書房)、『女優一代』(昭和41年、読売新聞社)、『過ぎこしかた』(昭和46年、日芸出版)である。
また、水谷の編著・刊行に、義兄水谷竹紫の追憶・遺稿集『竹紫記念』(昭和11年)がある。
『ふゆばら』を紹介する前に、何回かに分けて、水谷八重子の演劇人生を辿ってみる。
水谷は明治38年8月、東京・牛込矢来町に生まれる。ちなみに、この年生まれの舞台人には、新国劇の辰巳柳太郎、島田正吾、女優の田村秋子、細川ちか子、宝塚の天津乙女などがいる。同じ牛込の赤城下町に育った俳優座の千田是也は明治37年の生まれである。
父・水谷六郎は当時、三菱合資会社神戸造船所の所長で、後に三菱造船所(現在の三菱重工業)の副社長を務めた。今でいえば、ビジネスエリートであり、彼女は現代には絶えていない良家の出身の舞台俳優である。
坪内逍遥門下だった義兄で劇作家の水谷竹紫の縁で、島村抱月の芸術座の第一回公演の『内部』(メーテルリンク作・中村吉蔵訳。有楽座)で、台詞はなかったが初舞台を踏んでいる。大正2年、水谷7歳の時である。本式の初舞台は、その3年後、帝國劇場での芸術座公演『アンナ・カレーニナ』の息子・セルジー役であった。この帝劇での公演の後に神戸・聚楽館でも巡回公演を一週間行ったが、それは父・六郎が買い切ったものだという(「ふゆばら」)。
大正9年、アメリカ帰りの畑中寥坡演出による民衆座公演『青い鳥』のチルチルが、14歳、雙葉高等女学院2年生の水谷の女優デビューである。なお、ミチルは夏川静江、犬は早稲田大生だった友田恭助である。ちなみに、この『青い鳥』を、後の日本生命社長の故・弘世現は当時15歳の中学生の折に観て感激した。その45年後、「本物の感動は、それに接した人に役立つ。子供や若い人に生の舞台を見せたい」と、設立した日比谷・日生劇場での小学6年生招待公演「ニッセイ名作劇場」を作った。この公演は昭和39年から41年後の今も、劇団四季の制作・出演で続いている。現在は東京(日生劇場)だけでなく、全国で巡回されて、延べ六百数十万人が観劇してきた。
大正10年には、井上正夫と映画『寒椿』(監督・畑中)に出演。校則の厳しいカトリックの学校に配慮して名を秘し、「覆面令嬢」として出演したという。