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2005年12月 アーカイブ

2005年12月04日

「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(壱)

劇団新派の名女優・水谷八重子(無論の事だが、故人の初代水谷八重子である。)には著書が数点あるが、この『ふゆばら』はその最初のものである。参考までに、他をあげておくと、『藝・ゆめ・いのち』(昭和31年、白水社)、『松葉ぼたん・舞台ぐらし五十年』(昭和41年、鶴書房)、『女優一代』(昭和41年、読売新聞社)、『過ぎこしかた』(昭和46年、日芸出版)である。
また、水谷の編著・刊行に、義兄水谷竹紫の追憶・遺稿集『竹紫記念』(昭和11年)がある。
『ふゆばら』を紹介する前に、何回かに分けて、水谷八重子の演劇人生を辿ってみる。
水谷は明治38年8月、東京・牛込矢来町に生まれる。ちなみに、この年生まれの舞台人には、新国劇の辰巳柳太郎、島田正吾、女優の田村秋子、細川ちか子、宝塚の天津乙女などがいる。同じ牛込の赤城下町に育った俳優座の千田是也は明治37年の生まれである。
父・水谷六郎は当時、三菱合資会社神戸造船所の所長で、後に三菱造船所(現在の三菱重工業)の副社長を務めた。今でいえば、ビジネスエリートであり、彼女は現代には絶えていない良家の出身の舞台俳優である。
坪内逍遥門下だった義兄で劇作家の水谷竹紫の縁で、島村抱月の芸術座の第一回公演の『内部』(メーテルリンク作・中村吉蔵訳。有楽座)で、台詞はなかったが初舞台を踏んでいる。大正2年、水谷7歳の時である。本式の初舞台は、その3年後、帝國劇場での芸術座公演『アンナ・カレーニナ』の息子・セルジー役であった。この帝劇での公演の後に神戸・聚楽館でも巡回公演を一週間行ったが、それは父・六郎が買い切ったものだという(「ふゆばら」)。
大正9年、アメリカ帰りの畑中寥坡演出による民衆座公演『青い鳥』のチルチルが、14歳、雙葉高等女学院2年生の水谷の女優デビューである。なお、ミチルは夏川静江、犬は早稲田大生だった友田恭助である。ちなみに、この『青い鳥』を、後の日本生命社長の故・弘世現は当時15歳の中学生の折に観て感激した。その45年後、「本物の感動は、それに接した人に役立つ。子供や若い人に生の舞台を見せたい」と、設立した日比谷・日生劇場での小学6年生招待公演「ニッセイ名作劇場」を作った。この公演は昭和39年から41年後の今も、劇団四季の制作・出演で続いている。現在は東京(日生劇場)だけでなく、全国で巡回されて、延べ六百数十万人が観劇してきた。
大正10年には、井上正夫と映画『寒椿』(監督・畑中)に出演。校則の厳しいカトリックの学校に配慮して名を秘し、「覆面令嬢」として出演したという。

2005年12月07日

「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(弐)

『青い鳥』の大阪公演に出演するために早稲田大を中途退学し、演劇に専心することになった21歳の友田恭助は、大正9年12月、早稲田大での友人や、当時14歳の水谷八重子とともに『師走座』(のちに『わかもの座』と改称)を結成、坪内逍遥作の『現代男』やシュミット・ボン作『ジオゲネスの誘惑』、ビヨルンソン作の『森の処女』を上演した。演技指導は青山杉作であった。
稽古は麹町(現在の五番町辺り)の伴田(友田の本名は伴田五郎)家の屋敷で行い、公演は、小石川関口台の、今は椿山荘の一部になっている、伴田土地会社所有の広大な土地に露天舞台を作り、邸宅から、「アームチェアだのテーブルだのは、見張りをつけておきましてそつとみんなで持ち出し」「しまいには、ドアのハンドルまでとり外」
ずして舞台に飾ったという(『ふゆばら』)。
この辺りは、スタニスラフスキーが子供の時に、その邸宅や別荘で家庭劇で遊んでいたことを思い出させる。友田の演劇への開眼も、子供時分の茅ヶ崎の別荘での、従姉弟達との「芝居ごっこ」だったという。同じ茅ヶ崎の近所にあった別荘に来ていた土方与志と知り合ったのもこの頃である。友田や水谷たちの世界は、チェーホフの『かもめ』に描かれた世界と近似している。
その後も水谷は、「ともだち座」でダンセニイの『アラビヤ人の天幕』やチェーホフの『かもめ』、ストリンドベリの『熱風』に出演。井上正夫ともプーシキンの『大尉の娘』などを上演している。
大正13(1924)年2月、18歳の水谷は、第二次「芸術座」を結成、イプセンの『人形の家』を上演する。水谷のノラ、友田のヘルメル。演出は青山杉作である。
この年の6月、小山内薫、土方与志、和田精(イラストレーター和田誠氏の父)、汐見洋、友田恭助、浅利鶴雄(劇団四季・浅利慶太氏の父)の六人の同人によって組織された築地小劇場が開場した。

―友田さんとは青山先生の指導のもとに「わかもの座」という研究劇団をつくつてイプセンの「幽霊」などを上演、将来とも一緒の舞台を念じていましたが、震災後、築地小劇場ができたとき、私は義兄と一緒に第二次芸術座を組織したため、築地へ行くのをことわつてお別れしました。もしあの時に私が築地にいつたらどんなことになつていましたでしょうか。同時にいま私が念じている新劇への精進はなかつたことだけは確かでしょう。(「新劇への激しい欲求」)

築地小劇場出演の時は「客演という事になる」、と思っていた水谷だが(田村秋子・伴田英司共著『友田恭助のこと』(私家版、1972年刊))、ついにその機会は訪れなかった。

2005年12月10日

「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(参)

早速だが、『ふゆばら』の「あとがき」を読んでいて、水谷には昭和7年に『舞台の合間に』という著作があることを知った。「鏡を拭いて」という小説と、「米国旅行記」などが収録されているという。「あとがき」で「主婦の友社から刊行」と水谷は書いているが、所蔵する古書店の目録には「演劇研究社刊」とある。

大正12年9月の関東大震災の後、その10月には、新派に『ドモ又の死』で初出演した水谷だが、翌13年に再興した第二次芸術座では、イプセンの『人形の家』やアンドレエフの『殴られるあいつ』、ショーの『武器と人』など、翻訳劇を上演していた。前述したように、水谷はついに築地小劇場に加わることなく、第二次芸術座と商業演劇を経て、昭和3(1928)年10月、新派公演の藤森成吉作『何が彼女をそうさせたか』に出演し、新派に加入した。
大正14年、大阪朝日新聞社の招待でアメリカへ映画視察の旅に出る。この『ふゆばら』には記載がないが、その折には名優バレンチノにも会ったと、どこかで読んだ憶えがあるが、『ふゆばら』には、「思い出のチャップリン先生」という一章があるので採録する。

―チャップリン先生は一口に申せば東洋風の哲人だといえましょう。(略)近代の老子ではありますまいか。(略)その黙々たる裡に……無為にして化するといつた趣が、泌々と感ぜられるのでございます。
チャップリン先生は、世間的には至つて無頓着な方だそうですけれど、芸術的には極めて神経過敏な方らしいのです。氏の映画が短い年で完成せず、数年にまたがる事もあるそうですが成程、あの撮影法を見ればそうもあろうかと存じます。
(略)何でも一度撮ると、幾度も幾度も同じ場面を撮つてみて、それを試写してから、いよいよいいとならなければ次に移らないのだそうです。ですから実際に役立つフィルムの尺数は、使用したフィルムの十分の一に足りないという事です。
日本の映画も今日は非常に進歩し、俳優でも監督でもカメラでも、決して米国に負けないと思われますのに、出来上つた代物が比較にならないほど貧弱なのは、全くこの丁寧さが足りないのではないでしょうか。十五日間で七八千呎の映画を完成したり、三日間で一本の取り上げるなどの芸当で、いいものが出来る筈がないのは当然でしょう。

26歳の水谷が、昭和7(1932)年、チャップリンの来日にちなんで書いた文章と思われる。
チャップリンに会った時の水谷は芳紀二十歳、すでに日本を代表する女優であった。

2005年12月12日

「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(四)

『ふゆばら』の中に、昭和13(1938)年1月に発表したと思われる「雑感」という小文が載っている。水谷の十代の頃からの芝居仲間だった友田恭助や芸術座の渡辺実が戦死したのは、その前年の12年である。

―身近かな人たちが二人も相ついで戦死してしまつたことは、何としても悲しい事ではあるし、それぞれの仕事の上で惜しい事ではあるけれども、それだけに戦争の厳粛さを感じないでは居られない。
一切の感傷や私情のさしはさめない高い処にある民族の興亡という問題に、今更らに敬虔の念を覚える。
戦争は勝たねばならない。それはもう理屈ではない。これらの親しい人たちの壮烈な戦死を無意義なものにしてはならない。(「雑感」)

死者を追悼しながらも、「民族の興亡」の為、「理屈ではな」く、「戦争は勝たねばならない」と語る姿は、戦後60年を過ぎた今から見れば、哀れを誘うほどの愚かさかもしれない。
戦時下の水谷を含む多くの演劇人に比べれば、現代の演劇人は「賢明」である。己は戦争や危険から最も遠い安全で、危機感を自覚しにくい世界に身を置きながら、戦争反対のアピールに名を連ねたり、「非戦」を主張するなど現代の、それも第一線の演劇人の多くがやっていることは、「戦争に加担している」はずの国が作った、国民の批判の高い「渡りの天下り官僚が運営」し、いつまでも「国家助成にすがる」新国立劇場で、破格に高い戯曲執筆料や演出料、出演料、講義謝礼をせしめることでもあるのだから。
また、そればかりか、智慧のない施策である芸術文化の補助金に群がりながらの「芸術活動」、それも戦後民主主義か社民主義か知らないが、サヨク気分演劇人が掃いて棄てるほどいるこの世界には、過去の戦時体制に代わるもの、例えば助成金制度の全面撤廃など、演劇をすることが厳しくなる状況が必要かもしれない。
「言論の自由」、「表現の自由」、演劇では何をしても検束される恐れの無いこの時代に、戦時下で、軍部からの締め付けを受けながら、その体制に協力・迎合せざるを得なかった演劇人のひとりとして、それもすでに大女優としての水谷の当時の言動、振舞・居方は、演劇の基礎・素養もなく、「演劇の他はない」訳ではない、「素人に毛の生えたような」現代の演劇人には、想像することすら出来ないことかもしれない。

2005年12月13日

「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(五)

「雑感」の続きである。

―独逸の作家、ベルンハルト・ケラーマンはその『日本漫歩』の中で、
「ハナミチは戯曲の呼吸が通うところである。そしてそれはまさしく観客の中を貫いている。本舞台で人物が幸福に酔つている時、運命は長く尾をひいてハナミチの上を観客の中から迫つて来るのである。新らしい運命の襲来を効果づける手段として、これ位素晴しいものはあるまい。又、舞台の余韻、余情を深めることハナミチに如くものはない。西洋の役者は後に退場するが、日本の役者は前に退場する。悲しい別れの場を想像してみるがいい。母に別れた子供は物思わしげにハナミチにかかり立ち止つては目と目で名残を惜しみ、ためらいつつも段々距つて行く余韻は長く観客の中に吸い込まれる。戯曲の生命はハナミチを通つて脈打ち観客の心に流れ込むのである」
と言つている。
これは一外国人の単なる歌舞伎劇観の印象に過ぎないが、私ども演劇人に多くの示唆を持つ言葉である。私ども日本の演劇人が花道の効用をはたして如何ほど、科学的に考えて居るであろうか。なお単に花道だけの問題でなしに、日本演劇の独自性といつたやうな問題に案外、外国人から教えられる処がありはしないだろうか。ケラーマンは、なお歌舞伎に対してこんなことを言つている。
「外国語のしやべれる日本人は最早古い芝居に興味をもつて居らず、古い芝居に興味をもつているらしい日本人は外国語を知らなかった。」皮相の観の嫌いはあるが、これを新劇にあてはめて考えた場合にも、私どもの内省をうながす何物かを含んで居るのではあるまいか。
時代的に優れた戯曲が現われない限り演劇の正しい発展はない。俳優は演劇企業家の同情者であるよりは、優れた戯曲作家の支持者であり共力者であることは勿論だ。
今年こそ時代を誘導してゆくような素晴らしい戯曲の現われることを切望している。―

70年近く前の水谷の言葉は、今も新しい。

2005年12月16日

「閲覧用書棚の本」其の十七。『歌舞伎談義』

今日日12月8日は、真珠湾攻撃の記念日と言うよりも、ジョン・レノンの命日として(商業主義に踊らされるメディアと、近代史に無知・無関心な現代人には、こちらの方が良いのだろう。)記憶されることになったようだが、十二月十四日と言えば、元禄十五(1702)年に起きた、「赤穂浪士による吉良邸討ち入り」である。ただ、「元禄」も、「赤穂浪士」も、「吉良」も、そして「討ち入り」も、真珠湾攻撃を知らない現代人には、既に「何の事?」、かも知れない。

岡本綺堂著の『歌舞伎談義』は、綺堂歿後の昭和24年2月に同光社から刊行された。本書は、昭和6年に『舞臺叢書』として刊行された『歌舞伎談義』に、「黙阿彌研究」と、歌舞伎の代表作品十二篇の評論を集めた「歌舞伎往来」を増補している。
今回は、この討ち入りを扱った『仮名手本忠臣蔵』の作者、竹田出雲についての言及を採録する。

―竹田出雲、元祿四年に生まれて、寶暦六年に死す。六十六歳。操りの作者であつたことは云ふまでもない。かれは大阪の竹本座の座元で、あはせて、其座の立作者であつた。かれの作物で、操りから更に歌舞伎に移し植ゑられて、今日まで其生命を保つてゐるものは、わたしの知つてゐる限りでは約十種ある。誰でも知つていることではあらうが、説明の順序としてその題目を掲げる。
『大塔宮曦鎧』『蘆屋道満大内鑑』『小栗判官車街道』『ひらがな盛衰記』『夏祭浪花鑑』『菅原傳授手習鑑』『義経千本櫻』『假名手本忠臣蔵』『双蝶々曲輪日記』『小野道風青柳硯』。
(略)何と云つても操り芝居の代表的作家としては、近松門左衛門と竹田出雲と近松半二と、この三人をあげるより外はない。したがつて、その操りから移し植られた所謂「竹本劇」の舞臺の上から見ても、かれら三人をやはり代表作の作家として認めなければならない。
(略)出雲といふ人の経歴も、かの近松と同じやうに餘り委しく傳へられてゐない。かれの父はからくりで有名な竹田近江である。(略)砂時計の発明者、からくり人形の発明者を父として生れた彼は、同じ血をうけて矢張り緻密な頭脳の所有者であつたことは容易に想像されるであろう。 (「歌舞伎往来」)

―近松門左衛門は本業であつたが、それに對抗してゐた紀海音は一方醫師であり、傍らに和歌を修めて法橋に叙せられてゐる。竹田出雲は忠臣蔵等の作で有名ではあるが、その本業は竹本座の座元で、同座の経営に力を盡してゐたのである。そのほかにそれを本業としてゐたのは、近松半二と並木宗輔ぐらゐのもので、他は醫師であり、茶屋の主人であり、人形使ひであり、義太夫語りであつて、皆その本業の傍らに筆を執つたのが多い。
江戸の浄瑠璃作者には、それを本業とした者は一人も見當らない。福内鬼外は彼の平賀源内の変名である。松貫四は茶屋の主人、紀の上太郎は越後屋(今日の三越呉服店)の主人、容楊黛は下谷の町醫師、烏享焉馬は大工の棟梁である。かういふ風に、素人が自分の趣味から筆を執つて兎もかくも百年二百年の生命を保ち得るだけの作品を世に残したのは偉とすべきで、専門家はまことに顔色なしと云つてもよい。(「歌舞伎談義」)

世界の中でこの国だけの例外のようだが、演劇を志向する人間には教養が必要でなくなって久しい。受容する観客もまた同様だ。批評家も、そして劇作家もまた然りである。
「専門家はまことに顔色なし」と、書いた綺堂が生きていれば、この時代の演劇状況を何と言うだろうか。

2005年12月28日

『規制改革・民間開放』と『新国立劇場』

内閣府に設置されている規制改革・民間開放推進会議が12月21日に決定した最終答申では、公共サービスを官民の競争入札にかける『市場化テスト』法案の次期通常国会への上程と実施を促している。
答申には、来年度に実施すべき市場化テストの対象事業として、社会保険庁、ハローワーク、統計調査、刑務所施設、地方公共団体の窓口業務のほか、科学技術振興機構、日本学生支援機構など6独立行政法人を対象とするよう求め、『官業の民間開放』として、国立博物館、国立美術館、文化財研究所は民間委託を拡大、政府の民間開放・市場化テストに関する議論などを注視し、質の向上の検討や工夫を速やかに行う、などと提言している。
「小さくて効率的な政府」の実現に向けて―官民を通じた競争と消費者・利用者による選択―と題したこの答申の前には、以下に引用する文章が載っている。

≪「規制改革・民間開放」の諸改革の背景に共通する課題は、「官による配給サービス」から「民による自由な競争・選択」へと制度の転換を図ることにある。
 官自身あるいは官が定めた特定の者だけが、官によって予め決められた財・サービスを提供する世界は、どの時代のどの国においても歴史上成功を収めることができなかった社会主義的システムにおける市場の機能を無視する配給制度と同様である。我が国の公共サービスの大部分は、この「配給制度」により支配されている「官製市場」の下にあるといっても過言ではない。「配給制度」は既得権益と非効率を擁護する考え方であり、これを民による自由な競争と消費者・利用者による選択を基本とした公平な市場を、官が責任をもって形成することへの転換を図ることにより、経済社会の発展と、生産者や官の関係者の特殊な利益を擁護することのない消費者を見据えた国民の利益の増大を公正に実現する必要がある。官だけがいわゆる公共公益性を体現できる唯一の主体であるという旧来の発想は終焉を迎えたと言わなければならない。≫

新国立劇場・情報誌『ジ・アトレ(The Atre)』の2006年1月号の巻頭ページは、この新国立劇場運営財団の遠山敦子理事長の「新しい年に向けて」と題する挨拶が載っている。このページの紙面構成・デザインは、政府広報の典型のようで、さすがに官の劇場だけのことはある、と感心させられたが、文章は新年の挨拶という定型・無意味なものではなく、初めて聞かされるような話もあり、興味深いものであった。
そこでは、97年の開場以来僅か8年で国際的にも大変評価される劇場になったこと、優れた歌劇場が参加する「オペラ・ユーロップ」にヨーロッパ以外で初加盟したこと、新国立劇場を訪れた芸術家たちからは、世界で三本の指に入る優れた劇場と評価されていることなどが記されている。また、劇場は国立の名を冠しているが、運営をしているのは民間の財団であり、サービス精神に富んだ劇場にすべく、職員の意識改革にも積極的に取り組んでいる、とある。
「自己宣伝で卑しいことですが」、などと一応断わりながら、新聞や雑誌に掲載されたGOLDONIの紹介ページなどのコピーをお配りすることがあるので、ましてや自分のところの広報・情報誌が手前味噌を並べたてることに、私は寛容なつもりである。
ただし、この時代に「国際的にも高い評価」とは如何なる基準でのことか、「オペラ・ユーロップ」が如何なるものか、そして新国立劇場が世界の歌劇場の三本の指の一つとすれば、他の二本はどこなのか、あるいは新国立劇場の後塵を拝する歌劇場はどこなのかなど、こういう機会にはもう少し具体的に知らしめようとするのが、民間の事業者がする宣伝であり、告知であり、ご挨拶ではないだろうか。
サービス精神や職員の意識改革は、民であれば当然で、こと改めて劇場の利用者・観客に強調するところを見ると、その決意は余程のこと、なのかもしれない。

平成18年度の政府予算案はこの24日に決まった。恒常的な不正受給が明るみに出たこともあり、文化庁の舞台芸術支援制度・新世紀アーツプランと称される補助金制度の予算が大幅に削減されたり、チケットのばら撒きやタレント依存の演劇製作で批判の多い新国立劇場運営財団への委託費用(税金)が減額されることになったりしていないか、文化庁や新国立劇場を微力ながら人知れず応援してきた私には、事の成り行きが心配で、この十日ほどは、『提言と諌言』を書けなかった。

2005年12月29日

『旧国鉄官僚』の責任の取り方について

12月25日(日曜日)の午後7時15分、JR東日本の羽越線の特急「いなほ14号」が山形県庄内町で脱線・転覆した事故では、乗客のうちの五名が亡くなり、三十名以上が負傷した。事故を伝える新聞のカラー写真は、白い雪と大破した車両が、寒さと悲惨さを感じさせる。寒さと恐怖の中で、亡くなっていった人たちの痛ましい死に、こちらの心まで文字通り凍る思いである。
8ヵ月前の4月25日(月曜日)、JR西日本の宝塚(福知山)線の事故を思い出していた最中、同社の会長、社長が来年2月1日付で退任することになった、とのニュースが入って来た。
百七名の死者を出したこの事故については、5月1日の『提言と諌言』<国鉄鶴見事故で亡くなった三枝博音>に書いたので、今一度お読み戴きたいが、補償交渉が捗っていないといわれる中、垣内社長が退任後も取締役に残り補償交渉を担当し、南谷会長は相談役のポストに収まる。また、この二人への退職慰労金の支給は当面見合わせる、というから、いずれは規定通り支給されるのだろう。
事故後の6月23日には、井出相談役、坂田・徳岡の両専務が引責辞任していたそうだが、私の関心は、事故現場となってしまったマンションがどうなったかにある。
インターネット上には、南谷会長、垣内社長や井出前会長を非難・攻撃するものが多いが、彼等の胸中は不明である。事故直後に職を辞することで責任を取る、という一般的な責任の取り方を選ばなかった会長、社長だけに、補償交渉が終局したのち、自らの死で責任を取る覚悟をしているのではないだろうか。国鉄のエリート官僚出身ながら、民営化・効率化の旗を振り、三万人の社員のトップに立った最高責任者としては、それも起こし得る行動かとも思えるが、もしそのつもりだとしてもその決行の前に、彼等や現役取締役・取締役経験者が報酬や退職慰労金などを捻出して、被害を受けたマンションを買い上げ、幹部社員用の社宅にし、一階玄関などに慰霊碑を建て、事故を教訓化する策を講じるなど、最後のリーダーシップを取ってからだと思うのだが、どんなものだろう。

2005年12月31日

百五十本、二十万字の『提言と諌言』

先ほど、この『提言と諌言』で今までにどれほどの量を書いたかを調べていたら、一昨日の、<『旧国鉄官僚』の責任の取り方について>で丁度150本になっていたことが判った。最初のものは、新聞などの演劇賞や文化庁芸術祭賞などの選考委員や、国や行政などの舞台芸術助成制度の審査委員の、「あっぱれ」な弁え・振る舞いについて書いた、昨2004年の4月19日<『公演の招待扱い』>である。
友人の作っていたブログを拝借して、読んだ人のコメント書き込みを求めない、ブログの機能を敢えて除いた形で始めた、この『提言と諌言』だが、この<『公演の招待扱い』>や、04年8月23日<遅い盂蘭盆会>などの様に、四百字程度の日記のようなものから、05年7月1日<在外研修制度利用者を自衛隊予備役に編入せよ>や、 05年10月22日<『文化庁助成金の不正受給』について>など、二千字を遥かに超える発言など、字数にも取り上げる内容にも統一がないままに、徒然に、とは言い難い心境で凡そ二十万字ほどの文章を綴ってきた。ブログが単行本になる最近の流行を意識してか、私に著作などの作品が無いことで、演劇についての発言や行動が広く社会に知られていないことを残念がったり、この先の私の演劇人としての行く末を案じたり憂いたりしてか、自費出版ででも本にすることを勧めて下さる方も幾たりか居られる。そんな言葉を掛けて戴く度に、丁寧に読んで下さっているのだと、有り難く思うのだが、実際に自分で厳選すれば、ホンの数本をそれも書き直して何とか原稿といえるものになる程度の出来でもあり、当分はこのブログ『提言と諌言』で書き溜め、せめても繰り返し読んで戴けるように、総目次にも掲載していく今の方法を続けようと思っている。
来年も引き続きご笑読戴き、ご批判を賜りたい。