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「閲覧用書棚の本」其の十七。『歌舞伎談義』

今日日12月8日は、真珠湾攻撃の記念日と言うよりも、ジョン・レノンの命日として(商業主義に踊らされるメディアと、近代史に無知・無関心な現代人には、こちらの方が良いのだろう。)記憶されることになったようだが、十二月十四日と言えば、元禄十五(1702)年に起きた、「赤穂浪士による吉良邸討ち入り」である。ただ、「元禄」も、「赤穂浪士」も、「吉良」も、そして「討ち入り」も、真珠湾攻撃を知らない現代人には、既に「何の事?」、かも知れない。

岡本綺堂著の『歌舞伎談義』は、綺堂歿後の昭和24年2月に同光社から刊行された。本書は、昭和6年に『舞臺叢書』として刊行された『歌舞伎談義』に、「黙阿彌研究」と、歌舞伎の代表作品十二篇の評論を集めた「歌舞伎往来」を増補している。
今回は、この討ち入りを扱った『仮名手本忠臣蔵』の作者、竹田出雲についての言及を採録する。

―竹田出雲、元祿四年に生まれて、寶暦六年に死す。六十六歳。操りの作者であつたことは云ふまでもない。かれは大阪の竹本座の座元で、あはせて、其座の立作者であつた。かれの作物で、操りから更に歌舞伎に移し植ゑられて、今日まで其生命を保つてゐるものは、わたしの知つてゐる限りでは約十種ある。誰でも知つていることではあらうが、説明の順序としてその題目を掲げる。
『大塔宮曦鎧』『蘆屋道満大内鑑』『小栗判官車街道』『ひらがな盛衰記』『夏祭浪花鑑』『菅原傳授手習鑑』『義経千本櫻』『假名手本忠臣蔵』『双蝶々曲輪日記』『小野道風青柳硯』。
(略)何と云つても操り芝居の代表的作家としては、近松門左衛門と竹田出雲と近松半二と、この三人をあげるより外はない。したがつて、その操りから移し植られた所謂「竹本劇」の舞臺の上から見ても、かれら三人をやはり代表作の作家として認めなければならない。
(略)出雲といふ人の経歴も、かの近松と同じやうに餘り委しく傳へられてゐない。かれの父はからくりで有名な竹田近江である。(略)砂時計の発明者、からくり人形の発明者を父として生れた彼は、同じ血をうけて矢張り緻密な頭脳の所有者であつたことは容易に想像されるであろう。 (「歌舞伎往来」)

―近松門左衛門は本業であつたが、それに對抗してゐた紀海音は一方醫師であり、傍らに和歌を修めて法橋に叙せられてゐる。竹田出雲は忠臣蔵等の作で有名ではあるが、その本業は竹本座の座元で、同座の経営に力を盡してゐたのである。そのほかにそれを本業としてゐたのは、近松半二と並木宗輔ぐらゐのもので、他は醫師であり、茶屋の主人であり、人形使ひであり、義太夫語りであつて、皆その本業の傍らに筆を執つたのが多い。
江戸の浄瑠璃作者には、それを本業とした者は一人も見當らない。福内鬼外は彼の平賀源内の変名である。松貫四は茶屋の主人、紀の上太郎は越後屋(今日の三越呉服店)の主人、容楊黛は下谷の町醫師、烏享焉馬は大工の棟梁である。かういふ風に、素人が自分の趣味から筆を執つて兎もかくも百年二百年の生命を保ち得るだけの作品を世に残したのは偉とすべきで、専門家はまことに顔色なしと云つてもよい。(「歌舞伎談義」)

世界の中でこの国だけの例外のようだが、演劇を志向する人間には教養が必要でなくなって久しい。受容する観客もまた同様だ。批評家も、そして劇作家もまた然りである。
「専門家はまことに顔色なし」と、書いた綺堂が生きていれば、この時代の演劇状況を何と言うだろうか。