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「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(五)

「雑感」の続きである。

―独逸の作家、ベルンハルト・ケラーマンはその『日本漫歩』の中で、
「ハナミチは戯曲の呼吸が通うところである。そしてそれはまさしく観客の中を貫いている。本舞台で人物が幸福に酔つている時、運命は長く尾をひいてハナミチの上を観客の中から迫つて来るのである。新らしい運命の襲来を効果づける手段として、これ位素晴しいものはあるまい。又、舞台の余韻、余情を深めることハナミチに如くものはない。西洋の役者は後に退場するが、日本の役者は前に退場する。悲しい別れの場を想像してみるがいい。母に別れた子供は物思わしげにハナミチにかかり立ち止つては目と目で名残を惜しみ、ためらいつつも段々距つて行く余韻は長く観客の中に吸い込まれる。戯曲の生命はハナミチを通つて脈打ち観客の心に流れ込むのである」
と言つている。
これは一外国人の単なる歌舞伎劇観の印象に過ぎないが、私ども演劇人に多くの示唆を持つ言葉である。私ども日本の演劇人が花道の効用をはたして如何ほど、科学的に考えて居るであろうか。なお単に花道だけの問題でなしに、日本演劇の独自性といつたやうな問題に案外、外国人から教えられる処がありはしないだろうか。ケラーマンは、なお歌舞伎に対してこんなことを言つている。
「外国語のしやべれる日本人は最早古い芝居に興味をもつて居らず、古い芝居に興味をもつているらしい日本人は外国語を知らなかった。」皮相の観の嫌いはあるが、これを新劇にあてはめて考えた場合にも、私どもの内省をうながす何物かを含んで居るのではあるまいか。
時代的に優れた戯曲が現われない限り演劇の正しい発展はない。俳優は演劇企業家の同情者であるよりは、優れた戯曲作家の支持者であり共力者であることは勿論だ。
今年こそ時代を誘導してゆくような素晴らしい戯曲の現われることを切望している。―

70年近く前の水谷の言葉は、今も新しい。