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「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(四)

『ふゆばら』の中に、昭和13(1938)年1月に発表したと思われる「雑感」という小文が載っている。水谷の十代の頃からの芝居仲間だった友田恭助や芸術座の渡辺実が戦死したのは、その前年の12年である。

―身近かな人たちが二人も相ついで戦死してしまつたことは、何としても悲しい事ではあるし、それぞれの仕事の上で惜しい事ではあるけれども、それだけに戦争の厳粛さを感じないでは居られない。
一切の感傷や私情のさしはさめない高い処にある民族の興亡という問題に、今更らに敬虔の念を覚える。
戦争は勝たねばならない。それはもう理屈ではない。これらの親しい人たちの壮烈な戦死を無意義なものにしてはならない。(「雑感」)

死者を追悼しながらも、「民族の興亡」の為、「理屈ではな」く、「戦争は勝たねばならない」と語る姿は、戦後60年を過ぎた今から見れば、哀れを誘うほどの愚かさかもしれない。
戦時下の水谷を含む多くの演劇人に比べれば、現代の演劇人は「賢明」である。己は戦争や危険から最も遠い安全で、危機感を自覚しにくい世界に身を置きながら、戦争反対のアピールに名を連ねたり、「非戦」を主張するなど現代の、それも第一線の演劇人の多くがやっていることは、「戦争に加担している」はずの国が作った、国民の批判の高い「渡りの天下り官僚が運営」し、いつまでも「国家助成にすがる」新国立劇場で、破格に高い戯曲執筆料や演出料、出演料、講義謝礼をせしめることでもあるのだから。
また、そればかりか、智慧のない施策である芸術文化の補助金に群がりながらの「芸術活動」、それも戦後民主主義か社民主義か知らないが、サヨク気分演劇人が掃いて棄てるほどいるこの世界には、過去の戦時体制に代わるもの、例えば助成金制度の全面撤廃など、演劇をすることが厳しくなる状況が必要かもしれない。
「言論の自由」、「表現の自由」、演劇では何をしても検束される恐れの無いこの時代に、戦時下で、軍部からの締め付けを受けながら、その体制に協力・迎合せざるを得なかった演劇人のひとりとして、それもすでに大女優としての水谷の当時の言動、振舞・居方は、演劇の基礎・素養もなく、「演劇の他はない」訳ではない、「素人に毛の生えたような」現代の演劇人には、想像することすら出来ないことかもしれない。