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「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(参)

早速だが、『ふゆばら』の「あとがき」を読んでいて、水谷には昭和7年に『舞台の合間に』という著作があることを知った。「鏡を拭いて」という小説と、「米国旅行記」などが収録されているという。「あとがき」で「主婦の友社から刊行」と水谷は書いているが、所蔵する古書店の目録には「演劇研究社刊」とある。

大正12年9月の関東大震災の後、その10月には、新派に『ドモ又の死』で初出演した水谷だが、翌13年に再興した第二次芸術座では、イプセンの『人形の家』やアンドレエフの『殴られるあいつ』、ショーの『武器と人』など、翻訳劇を上演していた。前述したように、水谷はついに築地小劇場に加わることなく、第二次芸術座と商業演劇を経て、昭和3(1928)年10月、新派公演の藤森成吉作『何が彼女をそうさせたか』に出演し、新派に加入した。
大正14年、大阪朝日新聞社の招待でアメリカへ映画視察の旅に出る。この『ふゆばら』には記載がないが、その折には名優バレンチノにも会ったと、どこかで読んだ憶えがあるが、『ふゆばら』には、「思い出のチャップリン先生」という一章があるので採録する。

―チャップリン先生は一口に申せば東洋風の哲人だといえましょう。(略)近代の老子ではありますまいか。(略)その黙々たる裡に……無為にして化するといつた趣が、泌々と感ぜられるのでございます。
チャップリン先生は、世間的には至つて無頓着な方だそうですけれど、芸術的には極めて神経過敏な方らしいのです。氏の映画が短い年で完成せず、数年にまたがる事もあるそうですが成程、あの撮影法を見ればそうもあろうかと存じます。
(略)何でも一度撮ると、幾度も幾度も同じ場面を撮つてみて、それを試写してから、いよいよいいとならなければ次に移らないのだそうです。ですから実際に役立つフィルムの尺数は、使用したフィルムの十分の一に足りないという事です。
日本の映画も今日は非常に進歩し、俳優でも監督でもカメラでも、決して米国に負けないと思われますのに、出来上つた代物が比較にならないほど貧弱なのは、全くこの丁寧さが足りないのではないでしょうか。十五日間で七八千呎の映画を完成したり、三日間で一本の取り上げるなどの芸当で、いいものが出来る筈がないのは当然でしょう。

26歳の水谷が、昭和7(1932)年、チャップリンの来日にちなんで書いた文章と思われる。
チャップリンに会った時の水谷は芳紀二十歳、すでに日本を代表する女優であった。