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2009年12月 アーカイブ

2009年12月01日

劇場へ美術館へ≪GOLDONI/2009年12月の鑑賞予定≫

[演劇]
*1月3日(日)まで。             浜松町・自由劇場
劇団四季ミュージカル公演『コーラスライン』
劇団四季HPhttp://www.shiki.gr.jp/

*13日(日)まで。            信濃町・文学座アトリエ
文学座アトリエの会『崩れたバランス』
作:ファルク・リヒター 訳:新野 守広
演出:中野 志朗 

*17日(木)から23日(水)まで。       代々木八幡・青年座劇場
劇団青年座公演『第三の証言』
作:椎名 麟三 演出:檀 臣幸

[歌舞伎]
*3日(木)から26日(土)まで。          半蔵門・国立劇場
『12月歌舞伎公演』 
演目:『頼朝の死』『一休禅師』『修禅寺物語』
出演:吉右衛門 富十郎 魁春 段四郎 歌六 芝雀 歌昇 錦之助 ほか

[音楽]
*4日(金)                   銀座・王子ホール 
『アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル』

[展覧会]
*20日(日)まで。              丸の内・出光美術館
『ユートピア 描かれし嫁・楽園』

*27日(日)まで。    初台・東京オペラシティアートギャラリー
『ヴェルナー・パンドン展』

*1月11日(月)まで。         六本木・サントリー美術館
『清方ノスタルジア 名品でたどる鏑木清方の美の世界』

2009年12月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2009年12月≫

『江戸芸術論』 永井荷風著
岩波書店 2000年
 

 余は旧劇と称する江戸演劇のために永く過去の伝統を負へる俳優に向つて宜しく観世金春諸流の能役者の如き厳然たる態度を取り、以て深く自守自重せん事を切望して止まざるものなり。元来江戸演劇は時代の流行に従ひ情死喧嘩等の社会一般の事件を仕組みて衆世の娯楽に供せし通俗なる興行物たりしといへどもこれは全く鎖国時代の事にして、今日の如く日々外国思潮の襲来激甚なる時代において此の如き自由解放の態度はむしろ全体の破壊を招かんのみ。江戸演劇は既に通俗なる平民芸術にはあらで貴重なる骨董となりし事あたかも丹絵売が一枚幾文にて街頭にひさぎたる浮世絵の今や数百金に値すると異なる事なし。
 明治の革命起りて世態人情忽ち一変するや江戸の美術工芸にしてよく今日までその命脈を保てるもの実に芝居と踊三味線とあるのみ。浮世絵は月岡芳年を最後にして全く絶滅し、蒔絵鋳金の技は是真夏雄を失ひて以後また見るべきものなきに至りぬ。飜つて今日の西洋諸国を見るに外来の影響は皆自国の旧文明に一新生命を与へ以てその発達進歩を促したるに独我国にありては外国の感化は自国の美点を破却しその根抵を失はしむるに終れり。見よ仏蘭西の美術は日本画の影響によりて聊かも本来の面目を傷けられたる事なきに反し、日本画は油画のために全くその精神を失ひしに非ずや。西洋の工業一度日本に入るや日本の諸器物は全く美術としての価値を失ひしといへども西洋の諸工芸品に至りては巧に日本の意匠を応用してかへつて一大進歩を示せり。日本人は西洋より石版銅板の技並に写真の術を習得せんがためには浮世絵木版の技術をして全く廃滅せしめずんばあらざりき。大正改元以後西洋演劇の輸入一代の流行を来すや、これがために江戸演劇も漸次に破壊滅亡の兆候を示さんとす。余は今日の状態にして放任せしめんか、十年を出ずして旧劇は全く滅亡すべしと信ず。ああわが邦人の美術文学に対する鑑識の極めて狭小薄弱なる一度新来の珍奇に逢着すれば世を挙げて靡然としてこれに赴き、また自己本来の特徴を顧みるの余裕なし。これいはゆる矮小なる島国人の性質また如何ともすべからざるもの歟。進んで他を取らんとすればために自己伝来の宝を失ふ。一を得て一を失へば要するに文明の内容常に貧弱なる事更に何らの変る処なし。明治維新以来東西両文明の接触は彼にのみ利多くして我に益なき事宛ら硝子玉を以て砂金に換へたる野蛮島の交易を見るに異ならず。真に笑ふべき也。
 この一章を草せし後図らず森先生の「旧劇の未来」と題する論文(雑誌『我等』四月号所載)を読みぬ。旧劇は最早やそのままにては看るに堪へざれば、全くこれを廃棄するか然からざれば改作するにありといふ。これ余の卑見とは正反対なるを以て余は大に恑懼の念を抱けり。余の論旨は旧劇は改作を施さざる限りなほ看るに足るべしといふにあり。何が故ぞ。余は常に歌舞伎座帝国劇場の俳優によりて演ぜらるる旧劇中殊に義太夫物の演技に至りては、写実の気多き新芸風しばしば義太夫の妙味を損せしむるに比較し、宮戸座あたりに余命を保つ老優の技を見れば一挙一動よく糸に乗りをりて、決して観客を飽かしめざる事を経験し、余は旧劇なるものは時代と隔離し出来得るかぎり昔のままに演ずれば、能狂言と並びて決して無価値のものに非らずと信ずるに至りしなり。旧劇は元より卑俗の見世物たりといへども、昔のまま保存せしむれば、江戸時代の飾り人形、羽子板、根付、浮世絵なぞと同じく、休みなき吾人日常の近世的煩悶に対し、一時の慰安となすに足るべし。専制時代に発生せし江戸平民の娯楽芸術は、現代日本の政治的圧迫に堪へざらんとする吾人に対し(少くとも余一個の感情に訴へて)或時は皮肉なる諷刺となり或時は身につまさるる同咸を誘起せしめ、また或時は春光洋々たる美麗の別天地に遊ぶの思あらしむ。沙翁劇を看んとせば英文学の予備知識なからざるべからず。ワグネルを解すべき最上の捷路は手づからピアノを弾じて音符を知る事なるべし。江戸演劇を愛せんと欲せばすべからく三味線を弄ぶの閑暇と折々は声色でも使ふ、馬鹿々々しき道楽気なくんばあらざるべし。余は江戸演劇を以ていはゆる新しき意味における「芸術」の圏外に置かん事を希望するものなり。
      大正三年稿
(「江戸演劇の特徴」より)

2009年12月14日

「討ち入り」の日に


 『元禄快挙録』上・中・下三篇(福本日南著、岩波文庫)を一年ぶりに読んだ。今回はその下篇から採録する。

 同じ義徒の中にて、磯貝十郎左衛門正久が老母の重病に陥り、今にもむつかしいというのを後に残し、憤然として意を決し、一党と倶に讐家に討ち入ったことは、前に早く講じた通りである。その母は芝将監橋の近傍にある籏下松平氏の長屋に住む兄内藤万右衛門の許に養われていた。あたかも好し一党は泉岳寺へ引き揚げの途上、金杉橋からこの将監橋へは一走りである。有情の統領大石内蔵助は今しも殿して来る十郎左衛門を呼び、
 「貴殿御令兄の住宅はつい近傍ではないか。一走り行きて母上の御容態を見舞うてまいられい」
と注意した。十郎左衛門これを辞謝し、
 「御親切の段千万忝のうはおざりますれど、一旦志を決して参った上は、最早私親など省みるところではおざりませぬ」
と言い切った。堀部弥兵衛老人なども、また傍から口を添えたが、固く執ってこれを聴かず。そのまま衆と泉岳寺へと赴いた。
 後に細川邸に御預けの日、弥兵衛老人このことを挙げて、同邸の藩士堀内伝右衛門に語れば、伝右衛門は感嘆し、更に十郎左衛門に向かって、ひたすらその心掛けを称揚した。すると十郎左衛門はこれに答え、
 「いかにも同志の人々から、一目母に逢うて参れと勧められてはおざりますれど、第一異様な扮装にて、たとい御小身とは申せ、舎兄御奉公いたし、したがって老母もおりまする邸内に立ち入ることは、その御家に対し無躾の義と存じ、第二には好し暫時なりとても、いかようの変事出で来たらぬとも測られず、その際に居合わせずば一期の不覚とも存じ、ついに見合せた次第でおざる」
と語りながら、
 「さりながらただいまとなりて考えますれば、あのように無事に引揚げが出来たくらいなら、人々の勧めに任せ、一目母に逢うて参れば好かったになど、ちと慾が出て、少々後悔の気味もおざりまする」
と言いさして、後は笑いに紛らした。
 ああ彼や年歯僅かに二十四歳、公には蛮勇義に徇え、武士の面目を汚損せざらんと競い、私には念々母を憂い、人子の本懐のついに遂げざるを悲しんだ。その心を用いる良苦なりといわねばならぬ。
 (「二三九 磯貝十郎左衛門の言動」より)

 そもそもこの快挙たる、事成らざれば、火を吉良の一邸に放ち、猛火のうちに腹掻き切って、そのまま先君の後を追うべく、事成るの日は、公儀に訴え出で、謹んで御公裁を仰ごうとは、日頃から一党の約束であった。それで泉岳寺へ引揚げの途中から、内蔵助は吉田忠左衛門兼亮と富森助右衛門正因の二人を大目付仙石伯耆守久尚の邸に遣わした。それもそのはず、赤穂の一藩中で、その言語明晰にして、四方に使いして君命を辱かめぬ者は、先輩で吉田、後輩で富森と称せられた。特に吉田は一党の副統領であるから、内蔵助は自家の名代に立て、富森をこれに差し添えたのである。これによって忠左衛門が討入りの際から「浅野内匠頭家来口上書」の一通を懐中し得たのが知れる。
 両人は即刻一党に引き分れ、各々手槍を杖づきながら、愛宕下仙石邸へと赴き、槍を門前に立て掛けおき、つと入って案内を請うた。
 「われわれは赤穂の浪人吉田忠左衛門、富森助右衛門と申す者、同僚四十余名と倶に昨夜吉良家に討ち入り、亡主の讐上野介殿の首級を申し受けて、ただいま高輪泉岳寺迄引き揚げ、御公裁を仰ぎ奉らんがために、われら両人参上いたしておざりまする。委細のことは伯耆守殿に拝謁を願い、お直に申し上げとう存じまする。この旨何とぞ御執達下されたい」
と申し入れた。
 と睹れば両人ともに武装のままである。これは容易ならぬ事件が起ったと、同家の士は急ぎ伯耆守に取りつぎ、
 「如何いたしましょうか」
と伺うた。さてはと伯耆守は打ち首肯き、
 「直々会うから、広間へ通せ」
と指図された。この旨両人に通達する。両人は、
 「あり難う存じまする」
と一礼し、いずれも両刀を脱して前の士に交付し、案内に連れて、広間に打ち通る。貴人に対する両人の動作に、侍者は先ず感動した。間もなく伯耆守は出で来たられた。忠左衛門は謹んで亡主の鬱憤を散ぜんがためにこの挙に出でたる顛末を陳べ、さて
 「最早本懐を達しましたる上は、一同切腹仕り、相果て申すべき義におざりますれど、御膝下の土地と申し、かつは高家御歴々の方を、私に討ち取りましたる段、公儀に対し奉り、恐れ入ったる次第におざりますれば、一同亡君の墓前に聚まり、御公裁を仰ぎ奉らんがために、自訴し出でましておざりまする。委細はこの口上書にて御賢察を願い上げまする」
と、かの連名の上書を差し出した。趣意はいかにも明白である。陳述もまた瞭然である。伯耆守は心中に感嘆しながら、
 「一党の人数はこれ限りに止まるか」 
 「御意の通り、それ限りにおざりまする」
 「これらの衆は皆泉岳寺に聚っているか」
 「御意におざりまする。一人も離散仕らず、相控えておりまする」
 「それは神妙。これより登城して逐一言上する。その間寛々休息して、御沙汰を待たれい」
と申し聞け、既にその座を立とうとされる。忠左衛門は重ねて、
 「お手厚き御意、あり難う存じ奉りまする。ただ、一同の者御沙汰如何と待ちわびていようと存じますれば、われら両名の中、一名だけ泉岳寺まで御返し下されとう願い上げまする」
 「いやまだ訊ねたいこともある。が、ただいまは登城を急ぐから、両人とも、自分退出まで控えられい」
と言いながら、家人を呼び、
 「両人ともさぞ空腹であろう。湯漬を参れ」
と命じて、奥へと入られた。ああ士はもって誠ならざるべからずだ。義徒ら亡君の讐を復したとはいえ、国法の上から視れば、立派な罪人である。大目付たる者これに対すれば「それ縄うて」とも言われるべきところ。しかるにその優待やかくの通りである。「誠は、天の道なり。誠を思うは、人の道なり。至誠にして動かざるものは、いまだにこれあらず」という。古聖は人を欺かず。
 仙石家の家人は交る交る出でて両士を歓待した。両士は会釈して膳に向いながら「率爾ではおざりますれど、先刻御邸に伺候いたしまする際、手槍を御門前に残しておざりまする。何とぞ御取り入れ下さるよう」と申し出た。既に礼儀を疎にせず。それかといってまた武道を忘れず。両士は使者となって先ず一党の名誉を発揮した。
(「二四六 仙石邸への自首 吉田忠左衛門、富森助右衛門の使事」より)