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「討ち入り」の日に


 『元禄快挙録』上・中・下三篇(福本日南著、岩波文庫)を一年ぶりに読んだ。今回はその下篇から採録する。

 同じ義徒の中にて、磯貝十郎左衛門正久が老母の重病に陥り、今にもむつかしいというのを後に残し、憤然として意を決し、一党と倶に讐家に討ち入ったことは、前に早く講じた通りである。その母は芝将監橋の近傍にある籏下松平氏の長屋に住む兄内藤万右衛門の許に養われていた。あたかも好し一党は泉岳寺へ引き揚げの途上、金杉橋からこの将監橋へは一走りである。有情の統領大石内蔵助は今しも殿して来る十郎左衛門を呼び、
 「貴殿御令兄の住宅はつい近傍ではないか。一走り行きて母上の御容態を見舞うてまいられい」
と注意した。十郎左衛門これを辞謝し、
 「御親切の段千万忝のうはおざりますれど、一旦志を決して参った上は、最早私親など省みるところではおざりませぬ」
と言い切った。堀部弥兵衛老人なども、また傍から口を添えたが、固く執ってこれを聴かず。そのまま衆と泉岳寺へと赴いた。
 後に細川邸に御預けの日、弥兵衛老人このことを挙げて、同邸の藩士堀内伝右衛門に語れば、伝右衛門は感嘆し、更に十郎左衛門に向かって、ひたすらその心掛けを称揚した。すると十郎左衛門はこれに答え、
 「いかにも同志の人々から、一目母に逢うて参れと勧められてはおざりますれど、第一異様な扮装にて、たとい御小身とは申せ、舎兄御奉公いたし、したがって老母もおりまする邸内に立ち入ることは、その御家に対し無躾の義と存じ、第二には好し暫時なりとても、いかようの変事出で来たらぬとも測られず、その際に居合わせずば一期の不覚とも存じ、ついに見合せた次第でおざる」
と語りながら、
 「さりながらただいまとなりて考えますれば、あのように無事に引揚げが出来たくらいなら、人々の勧めに任せ、一目母に逢うて参れば好かったになど、ちと慾が出て、少々後悔の気味もおざりまする」
と言いさして、後は笑いに紛らした。
 ああ彼や年歯僅かに二十四歳、公には蛮勇義に徇え、武士の面目を汚損せざらんと競い、私には念々母を憂い、人子の本懐のついに遂げざるを悲しんだ。その心を用いる良苦なりといわねばならぬ。
 (「二三九 磯貝十郎左衛門の言動」より)

 そもそもこの快挙たる、事成らざれば、火を吉良の一邸に放ち、猛火のうちに腹掻き切って、そのまま先君の後を追うべく、事成るの日は、公儀に訴え出で、謹んで御公裁を仰ごうとは、日頃から一党の約束であった。それで泉岳寺へ引揚げの途中から、内蔵助は吉田忠左衛門兼亮と富森助右衛門正因の二人を大目付仙石伯耆守久尚の邸に遣わした。それもそのはず、赤穂の一藩中で、その言語明晰にして、四方に使いして君命を辱かめぬ者は、先輩で吉田、後輩で富森と称せられた。特に吉田は一党の副統領であるから、内蔵助は自家の名代に立て、富森をこれに差し添えたのである。これによって忠左衛門が討入りの際から「浅野内匠頭家来口上書」の一通を懐中し得たのが知れる。
 両人は即刻一党に引き分れ、各々手槍を杖づきながら、愛宕下仙石邸へと赴き、槍を門前に立て掛けおき、つと入って案内を請うた。
 「われわれは赤穂の浪人吉田忠左衛門、富森助右衛門と申す者、同僚四十余名と倶に昨夜吉良家に討ち入り、亡主の讐上野介殿の首級を申し受けて、ただいま高輪泉岳寺迄引き揚げ、御公裁を仰ぎ奉らんがために、われら両人参上いたしておざりまする。委細のことは伯耆守殿に拝謁を願い、お直に申し上げとう存じまする。この旨何とぞ御執達下されたい」
と申し入れた。
 と睹れば両人ともに武装のままである。これは容易ならぬ事件が起ったと、同家の士は急ぎ伯耆守に取りつぎ、
 「如何いたしましょうか」
と伺うた。さてはと伯耆守は打ち首肯き、
 「直々会うから、広間へ通せ」
と指図された。この旨両人に通達する。両人は、
 「あり難う存じまする」
と一礼し、いずれも両刀を脱して前の士に交付し、案内に連れて、広間に打ち通る。貴人に対する両人の動作に、侍者は先ず感動した。間もなく伯耆守は出で来たられた。忠左衛門は謹んで亡主の鬱憤を散ぜんがためにこの挙に出でたる顛末を陳べ、さて
 「最早本懐を達しましたる上は、一同切腹仕り、相果て申すべき義におざりますれど、御膝下の土地と申し、かつは高家御歴々の方を、私に討ち取りましたる段、公儀に対し奉り、恐れ入ったる次第におざりますれば、一同亡君の墓前に聚まり、御公裁を仰ぎ奉らんがために、自訴し出でましておざりまする。委細はこの口上書にて御賢察を願い上げまする」
と、かの連名の上書を差し出した。趣意はいかにも明白である。陳述もまた瞭然である。伯耆守は心中に感嘆しながら、
 「一党の人数はこれ限りに止まるか」 
 「御意の通り、それ限りにおざりまする」
 「これらの衆は皆泉岳寺に聚っているか」
 「御意におざりまする。一人も離散仕らず、相控えておりまする」
 「それは神妙。これより登城して逐一言上する。その間寛々休息して、御沙汰を待たれい」
と申し聞け、既にその座を立とうとされる。忠左衛門は重ねて、
 「お手厚き御意、あり難う存じ奉りまする。ただ、一同の者御沙汰如何と待ちわびていようと存じますれば、われら両名の中、一名だけ泉岳寺まで御返し下されとう願い上げまする」
 「いやまだ訊ねたいこともある。が、ただいまは登城を急ぐから、両人とも、自分退出まで控えられい」
と言いながら、家人を呼び、
 「両人ともさぞ空腹であろう。湯漬を参れ」
と命じて、奥へと入られた。ああ士はもって誠ならざるべからずだ。義徒ら亡君の讐を復したとはいえ、国法の上から視れば、立派な罪人である。大目付たる者これに対すれば「それ縄うて」とも言われるべきところ。しかるにその優待やかくの通りである。「誠は、天の道なり。誠を思うは、人の道なり。至誠にして動かざるものは、いまだにこれあらず」という。古聖は人を欺かず。
 仙石家の家人は交る交る出でて両士を歓待した。両士は会釈して膳に向いながら「率爾ではおざりますれど、先刻御邸に伺候いたしまする際、手槍を御門前に残しておざりまする。何とぞ御取り入れ下さるよう」と申し出た。既に礼儀を疎にせず。それかといってまた武道を忘れず。両士は使者となって先ず一党の名誉を発揮した。
(「二四六 仙石邸への自首 吉田忠左衛門、富森助右衛門の使事」より)