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2008年07月 アーカイブ

2008年07月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年7月≫

G.K.チェスタトン著作集1 『正統とは何か』 
福田恆存・安西徹雄訳 春秋社 1973年

 
 店の主人が小僧の理想主義に小言を言う場合、こんなふうに話すのがまず普通というものだろう。「ああ、なるほど、若い時分には、とかく絵にかいた餅みたいな理想を持つものだ。しかし、中年になるとな、そんなものはみな霧か霞のように消えてなくなる。その時になれば人間は、現実政治の駆け引きを信じるようになり、今使っているカラクリで間に合わせ、今あるとおりの世の中とつき合って行く術をおぼえるものさ。」 少なくとも私自身が聞かされた小言はこんなものだった。尊敬すべきご老体が、変に恩に着せるような物腰で(今は立派に墓に眠っていらっしゃるが)、子供の私にいつもこう言い聞かせたものである。けれども今こうしてじぶんも大人になってみると、あの愛すべきご老体は実は嘘をついていたことを私は発見したのである。実際に起こったことは、ご老体が起こるだろうと言ったこととは正反対であったのだ。私は理想を失って、現実政治の駆け引きを信ずるようになると言われたが、今の私はいささかも理想を失ってなどいはしない。それどころか、人生の根本問題にたいする私の信念は、かつて抱いていた信念と寸分も変わってはいないのである。私が何かを失ったとするならば、それはむしろ子供の時に持っていた現実政治にたいする無邪気な信頼のほうなのだ。私は今でもかつてと少しも変わらず、世界の終末に国々の間で起こるというハルマゲドンの戦争には深い関心を持っている。けれども、たかが英国の総選挙にはもうそれほどの深い関心は持てない。赤ん坊のころには、総選挙と聞いただけで母親の膝に跳び上がったのも嘘のようである。そうなのだ。いつでも堅固で頼りになるのは直観なのだ。直観こそは一個の事実である。嘘っぱちであることが多いのはかえって現実のほうである。かつてと同じく、いや、かつてないほど深く、私は自由主義を信じている。だが、自由主義者を信じていたのは、かつてバラ色の夢に包まれて生きていた無邪気な昔だけだったのだ。
 理想がけっして消えてはなくならぬ一つの実例として、自由主義にたいする私の信念を持ち出したのだが、これには実は一つの理由があったのだ。私の思索の根をたどるにあたって、この信念はどうしても無視するわけにはゆかぬ、というのも、おそらくこれが私の唯一の偏見とも言うべきものだからである。これ以外に、私が明確な信念として抱いてきた前提は一つもない。私は自由主義の教育を受け、いつでも民主主義の原則を信じてきた。つまり、人間が人間自身を治めるという自由主義の大原則である。こんな定義はあまりにも漠然としているとか、あまりに陳腐だと言う読者もあるかもしれない。そういう読者にたいしては、ごく簡単に、私の言う民主主義の原則とは何かを説明しておこう。それは二つの命題に要約できる。
 第一はこういうことだ。つまり、あらゆる人間に共通な物事は、ある特定の人間にしか関係のない物事よりも重要だということである。平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。人間そのもののほうが個々の人間よりもはるかにわれわれの畏怖を引き起こす。権力や知力や芸術や、あるいは文明というものの驚異よりも、人間性そのものの奇蹟のほうが常に力強くわれわれの心を打つはずである。あるがままの、二本脚のただの人間のほうが、どんな音楽よりも感動で心を揺すり、どんなカリカチュアよりも驚きで心を躍らせるはずなのだ。死そのもののほうが、餓死よりももっと悲劇的であり、ただ鼻を持っていることのほうが、巨大なカギ鼻を持っているよりもっと喜劇的なのだ。
 民主主義の第一原理とは要するにこういうことだ。つまり、人間にとって本質的に重要なことは、人間がみな共通に持っているものであって、人間が別々に持っていることではないという信念である。では第二の原理とはどういうことか。それはつまり、政治的本能ないし欲望というものが、この、人間が共通に持つものの一つだということにほかならぬ。恋に落ちるということは、詩作にふけることよりもっと詩的である。民主主義の主張するところでは、政治(あるいは統治)はむしろ恋に落ちるのに似ていて、詩作にふけることなどには似ていないというのである。似ていないと言えば、たとえば教会のオルガニストになるとか、羊皮紙に細密画を描くとか、北極の探検とか(飽きもせずに相変わらず跡を断たないが)、飛行機の曲乗り、あるいは、王立天文台長になることとか―こういうことはみな民主主義とは似ても似つかぬ。というそのわけは、こういうことは、うまくやってくれるのでなければ、そもそも誰かにやって貰いたいなどとは誰も思わぬからである。民主主義が似ているものはむしろ正反対で、自分で恋文を書くとか、自分で鼻をかむといったことなのだ。こういうことは、別にうまくやってくれるのでなくとも、誰でもみな自分でやって貰いたいからである。しかし、誤解しないでいただきたい。私が今言わんとしているのは、自分の恋文は自分で書くとか、自分の鼻は自分でかむとか、そういうことが正しいとか正しくないとかいうことではないのである。(略)つまり人間は、人間に普通の人間的な仕事があることを認めており、そして民主主義に従えば、政治もその普遍的活動の部類に入る、ということである。要するに民主主義の信条とは、もっとも重要な物事は是非とも平凡人自身に任せろというにつきる。たとえば結婚、子供の養育、そして国家の法律といったことがらだ。これが民主主義である。そして私はその信条をいつでも信じつづけてきたのである。
(「おとぎの国の倫理学」より)

2008年07月04日

劇場へ美術館へ
≪GOLDONI/2008年7月の鑑賞予定≫

[演劇]
*13日(日)から8月3日(日)まで。  浜松町・四季劇場[秋]
劇団四季公演『ミュージカル南十字星』
企画・構成・演出:浅利 慶太    作曲:三木 たかし
美術:土屋 茂昭  照明:沢田 祐二  振付:加藤 敬二
劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/

*5日(土)から13日(日)まで。  六本木・俳優座劇場
劇団俳優座公演『金魚鉢の中の少女』
作:モーリス・パニッチ  訳・演出:田中 壮太郎
出演:青山 眉子  河内 浩  清水 直子  ほか   

[歌舞伎]            
*3日(木)から24日(木)まで。   半蔵門・国立劇場大劇場
「七月歌舞伎鑑賞教室」
竹田出雲・三好松洛・並木千柳=作
中村富十郎=監修
『義経千本桜』河連法眼館の場
出演:中村 歌昇  澤村 宗之助 中村 種太郎  市川 高麗蔵 ほか

[パフォーマンス]
*10日(木)、11日(金)。       門前仲町・門天ホール
『蛹化の女(むしのおんな)』
―戸川純「蛹化の女」をもとにした舞踏、J.S.バッハ、即興音楽、映像の融合作品
演出・舞踏・美術:保坂 一平  サクソフォン:大石 将紀
映像:KoS    美術監修:田中 未央子  

[筝曲と能楽]
*19日(土)。         一ツ橋・共立講堂
『筝曲と能の夕べ』―<葵上>二題
山田流 筝曲「葵上」 山勢 松韻 ほか
喜多流 能 「葵上」 塩津 哲生 ほか
       
[音楽]
*15日(火)。           紀尾井町・紀尾井ホール
『PMFウィーン・アンサンブル演奏会』
演奏曲目: グリンカ:悲愴三重奏曲 ニ短調
        シュポア:七重奏曲 イ短調
   ベートーヴェン:七重奏 変ホ長調

*21日(月)。         東府中・府中の森芸術劇場
『ライナー・キュッヒル ヴァイオリンリサイタル』
ピアノ:加藤洋之
演奏曲目: ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ第8番ほか

*31日(木)。             赤坂・サントリーホール
『PMFオーケストラ東京公演』          
指揮:ファビオ・ルイジ  チェロ:ヤン・フォーグラー
演奏曲目: R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」
      ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14

[展覧会]
*7月21日(月・祝)まで。       虎ノ門・大倉集古館
『東大寺御宝・昭和大納経展』

*7月27日(日)まで。         三番町・山種美術館
『日本画満開―牡丹・菖蒲・紫陽花・芥子』

*8月3日(日)まで。   上野・東京国立博物館 表慶館
『フランスが夢見た日本―陶器に写した北斎、広重』

2008年07月05日

「新国立劇場の開館十年」を考える(十九)
≪巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(六)≫

「新国立劇場芸術監督交代 演劇部門 唐突な印象」 読売新聞7月1日朝刊
 一般新聞各紙が既に報じたように、新国立劇場は、先月二十七日に次期の舞踊部門の芸術監督を、三十日にはオペラと演劇の両部門の芸術監督を発表した。この九月から再来年九月の芸術監督の就任までの二年間は、芸術参与として作品企画の準備を始めることになるという。
 六月二十八日、七月一日の朝日、毎日、東京、産経の各紙朝刊は、この人事をほぼ短信扱いで報じていたが、日本経済新聞が五百字ほどの『文化往来』で少し詳しく報じたほか、読売新聞は短信とは別に、「新国立劇場芸術監督交代 演劇部門 唐突な印象」と題して、千二百字、写真付き、記者署名入りの記事を載せていた。読売新聞のニュースサイト「YOMIURI ONLINE」では読めないようなので、今回はこれを紹介する。
 この記事によると、次期芸術監督の同時交代を計画していた遠山敦子理事長らの執行部は、先月二十三日に開かれた同劇場運営財団理事会でこの人事を提案したが、一部の理事が演劇部門の現芸術監督・鵜山仁氏の再任を求め、議論が紛糾し、最終的には遠山理事長への一任を取り付け、二十四日に予定していた記者発表が延期された、という。三十日の記者会見に出席した遠山理事長は、鵜山氏を再任しない理由を、「あまりにお忙しく、いろんなコミュニケーションが難しかった」からとしたが、それについては演劇評論家の大笹吉雄氏の「忙しいのは就任前から分かっていたはずだ」と、先の遠山発言に疑問を呈するコメントを載せている。記者はまた、鵜山氏の最初の企画作品だった「ギリシャ悲劇三部作」の有料入場者率が四〇パーセント台だったことを挙げ、このことも不利に働いたと観測している。そして、「理事長サイドのトップダウンで物事が決まる」「国民の劇場である以上、理事会などの議事録を開示し、プロセスを透明化すべき」との同財団理事・劇作家の永井愛氏の談話を載せている。記者は、この一連の動きが演劇界にしこりを残し、後任の宮田慶子氏が「難しいかじ取りを迫られる可能性もある」とし、またオペラ部門の尾高氏がオペラの経験が少なく、「その点を疑問視する声も少なくな」く、舞踊部門のビントレー氏が英国のバレエ団の芸術監督と兼務することに触れ、「具体的な滞在期間、日本の不在の間の制作体制については今後話し合いを進める」と報じている。
 今日は、記事の紹介に止める。

2008年07月08日

「新国立劇場の開館十年」を考える(二十)
≪巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(七)≫

「新国立劇場 芸術の場らしい議論を」 朝日新聞7月7日朝刊 社説
 「<劇場の顔>の選考をめぐり、東京・初台の新国立劇場から大きなきしみが聞こえてくる。」との書き出しで始まる、昨七日の朝日新聞社説は、前回紹介した七月一日の読売新聞の解説記事以来の、新国立劇場の芸術監督就任をめぐる一連の動きを論じるものと思われる。紙面リニューアルの後、評判がいま一つの「天声人語」を、それでもさらりと目を通すことはあっても、よほどのことでもない限りは社説を読む習慣は疾うに無くし、このブログの熱心な読み手のおひとりから、「読んでいませんね」と、最前教えられたばかりである。今また、メールと電話で、同様な知らせを戴いたところである。少なくともこの一時間で三人の方から、ブログでの続報を期待されたと判断して、何はともあれ、かいつまんで、この社説を紹介することにする。 
 「混乱のきっかけは、…遠山敦子理事長が、芸術監督全員を一気に代えようとしたこと」にあり、昨秋就任したばかりの鵜山仁氏が「1期3年限りで退任させられることに疑問が出た」とある。劇場の理事で、次期監督の選考委員でもある小田島雄志氏らが、鵜山氏の続投を求めたそうだが、遠山執行部は「そうした声を抑え、交代を理事会に提案」、「そこでも演劇人や経済人の理事から異論や慎重論が相次いのに、理事長は「対応を一任された」と交代を発表した」とある。
 論説委員氏も、「選考の過程で理事長が考えを強く表明することはあっていい。しかし、理事たちの十分な理解を得られないようでは困る」とし、鵜山氏が多忙で現場とのコミュニケーションが取れなかったことが再任しない理由だとしても、「芸術家としての成果をどう判断するか議論を深めないまま、管理や運営面だけで芸術監督の適否は決められまい」し、「芸術に公費を使う歴史の浅い日本では、公共の劇場の芸術監督をどう選び、どんな役割と権限を与えるかは定まっていない」と説く。
「開かれた場で、芸術家、執行部、関連分野の専門家に観客も加わって、それぞれの考えをぶつけ合い、ここをどういう劇場にしてゆくのか、大いに議論したらいい。新国立劇場は、そうした面でも一つのモデルを示す存在であってほしい」として、
「その姿勢を捨てるなら、劇場は劇場でなくなる」と結んでいる。
今日は、記事の紹介に止める。

2008年07月09日

「新国立劇場の開館十年」を考える(二十一)
≪巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(八)≫

「演劇部門の芸術監督交代 「1期限りで代える必要あるのか」の声」 毎日新聞7月8日夕刊
 今回の新国立劇場の芸術監督交代の発表は、どうやら騒動、交代劇と呼ぶに相応しい事態を招いているようである。既にこのブログ『提言と諫言』<「新国立劇場の開館十年」を考える>でも紹介しているように、一日の読売新聞の『解説記事』、七日の朝日新聞の『社説』に続き、昨八日には毎日新聞夕刊に、『Crossroads』「新国立劇場」という記者署名入りの六段記事が載った。この記事は、毎日新聞のサイト『毎日jp』でも読むことが出来る。ここでは簡単に紹介するに止める。
 「現在の芸術監督はオペラが若杉弘氏(73)▽舞踊が牧阿佐美氏(73)▽演劇が鵜山仁氏(55)。若杉氏と牧氏は高齢で、後任選びを急ぐことに異論はない。だが、鵜山氏はまだ若く、昨年9月に就任したばかり。交代は唐突で早すぎる感じがする。」とある。
「今回の人事案は、次期芸術監督の選考委員会の結論として」理事会に提案されたものだそうだが、「選考委員会の経過も一部明らかになった」として、「欠席した委員が電話で「鵜山留任」と自分の意見を伝えたところ、選考委の主査の同財団常務理事が、「それはない」と言ったため、この委員は宮田氏の名前を挙げたという。」との選考委員から取材した話を書いている。また、遠山理事長が鵜山氏を再任しない理由として、「あまりに忙しく、制作現場とうまくコミュニケーションを取れていなかった。現場の意見、観客の反応、いずれにしても鵜山さんにもう一度お願いすることは難しかった」と語った30日の記者発表での発言内容を他紙の記事よりも詳述している。
 読売の記事でもコメントが載った永井愛氏がここにも登場する。永井氏は、「選考のプロセスが強引で不透明すぎる。芸術監督が芸術的なリスクをおかさないように管理を強化している」と、劇場の姿勢を批判している。また、当事者である鵜山氏は、「再演などで増えた外部演出の本数を大幅に減らすところでした。財団理事会の決定には従います」と語ったそうである。
 止めの文はこうだ。「東京・シアターコクーンと埼玉県芸術文化振興財団の芸術監督を兼務する蜷川幸雄氏は厳しく批判する。「1年もしないうちに次の芸術監督を発表することは、現職の否定につながる。」「国立の舞台は、芸術的成果こそ問われるのであって、興行面であれこれ言われる筋合いはない。鵜山君を任命した遠山理事長が、自身の責任を含め、ちゃんと説明してほしい」。
 この『Crossroads』、「今回の人事が演劇界にしこりを残すことも予想さ」せるとした1日の読売『解説』記事や、「(開かれた場での議論を深めるという、)その姿勢を捨てるなら、劇場は劇場でなくなる」とした7日の朝日『社説』に比べ、一段と厳しい論調であった。

2008年07月11日

「新国立劇場の開館十年」を考える(二十二)
≪巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(九)≫

<新国立劇場 次期芸術監督の人事迷走 尾高氏「納得できねば辞退も」> 朝日新聞7月9日朝刊
 「劇場から大きなきしみが聞こえてくる」、「(議論を大事にする)姿勢を捨てるなら、劇場は劇場でなくなる」と、芸術監督の交代についての新国立劇場・遠山敦子理事長の対応を、その新聞の主張を明らかにするべく、論説委員が執筆する社説で早々と取り上げた朝日新聞だが、今度は9日朝刊の文化面で、演劇担当、音楽担当の二人の記者連名による記事を掲載した。今回も要旨だけを紹介する。
 リードの一行目には、「選任をめぐって迷走している。」とあり、「3部門の監督を10年秋に一斉に代えると発表、「一大イベント」とうたって清新さを強調したが、関係者から異論が続出。名前の挙がった予定者からは「辞退もありうる」との声まで出た。芸術監督のありかたが改めて問われている。」とある。私は、問われているのは「芸術監督のありかた」ばかりではなく、社説が敢えて言葉にせずに説いているように、遠山理事長の運営手法の危うさだと思うが、このことについては次回に譲ろう。
 「「え、僕に決まったの?」オペラ部門の芸術監督予定者として発表された指揮者尾高忠明さんは、新聞記事を読んで驚いた」とあり、「1年の半分は海外にいるし、札幌交響楽団の音楽監督や芸大での教職の仕事もやめるつもりはない」と一度は断ったそうだが、「現状の仕事は続けていい」と財団に説得され、了承。ただ、具体的な仕事の内容については詰めておらず、「事実上の見切り発表に。霜鳥秋則常務理事は「これから細かいところを話していけばいいと思っていた」。しかし尾高さんは「それは発表の前に文書化しておくべきこと。劇場が僕に何を求めているのか、僕の人脈やキャリアで何ができるのか
、会見の場でも説明するべきだったのでは」と不信感を募らせる。」とある。尾高氏は、自分の演奏実績なども「きちんと理事会で議論された」か疑問としたが、「複数の理事によると、今回の理事会でそうした議論はなかったという」。「今後、納得のいく書面を出してもらえなければ、辞退の可能性もある」との尾高氏のコメントを載せている。
 演劇部門の鵜山退任について、その疑問が相次いでいる理由を、「財団側が3月に退任の方針を固め、選考委員兼理事で演劇評論家の小田島雄志さんらが提起した鵜山再任案が十分議論されないまま、演出家の宮田慶子さんの選任を決めたため」としている。また、「次期芸術監督は作品準備のため、就任の約2年前に決まる。1期で退任する場合、1年もたたないうちに評価されることになる」とし、「芸術家の使い捨ては困る」との、沢田祐二氏(舞台照明家・財団理事)の発言も載せている。
 また、鵜山氏の再任しない理由に、劇場外の仕事が多忙で、現場のコミュニケーションが難しいことを挙げた劇場側が、「尾高さんに対しては外部の仕事の継続を認めている」とし、英国のバレエ団の芸術監督との兼任となる舞踊のデビッド・ビントレー氏についても、「日本に滞在する日数などの具体的な取り決めはまだされていない」と書いている。
 最後には、芸術監督の3年の任期について、「短すぎるし、監督にたいしても失礼。延ばす方向で検討したい」との、遠山理事長の話を載せている。
 これで、読売、毎日、朝日の取材記事が揃った。今回も記事の紹介に止める。

2008年07月13日

「新国立劇場の開館十年」を考える(二十三)
≪巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(十)≫

 「新国立劇場の開館十年を考える」22回分の総目次 <「世界の三本指に入る」と豪語する天下り劇場理事長>から <次期芸術監督の人事迷走 尾高氏「納得できねば辞退も」朝日新聞7月9日朝刊>まで。
 このブログ『提言と諫言』では、昨07年の4月13日から、この年の9月6日に劇団創立70周年を迎えた文学座のスケッチ、「劇団文学座の七十年」を書き始めた。劇団発行の「文学座五十年史」や、劇団に関わった作家・演出家・俳優たちの書籍などから興味深い証言などを拾い出し、私なりの「文学座小論」を将来にものするためのメモのつもりで書いていた。しかし、11回目を書いた直後だったか、劇団の幹事会の席上で、「GOLDONIがブログで文学座を批判している」としてブログのコピーが回し読みされたと、ある幹事から聞かされた。怪文書の扱いのようで、それ自体は少しも嬉しくはなかったが、生来の恥ずかしがりが禍するのか、却って関心を持たれることを避ける性格、隠者のような振舞いを良しとする質でもあって、暫く休むことにして、そして今に至っている。
 「新国立劇場の開館十年を考える」のタイトルで、昨07年12月3日から書き始めたブログは、今日で23回を数えることになった。これは、「文学座小論」同様に、「劇場運営論」の執筆のためのスケッチのつもりで書いていて、「文学座の七十年」と深い関わり、繋がりを意識しているつもりである。ただ、こちらが想像している通りにか、新国立劇場に出入りする文学座の演出家や幹部俳優、新国立劇場の演劇部門の芸術監督になっていた鵜山仁氏にも読まれていないようなので(そして肝心の新国立劇場・遠山敦子理事長にも、だが。)、暫くは続けることにする。

 22回分のブログの見出しを書き出した。リンクも貼ったので、ご笑読をお願いする。

 第1回  < 「世界の三本指に入る」と豪語する天下り劇場理事長>07年12月3日

 第2回  「役所体質から劇場組織への転換が急務」と語る若杉芸術監督07年12月4日

 第3回  明暦・寛文期のインテンダント・村山又兵衛に学ぶ07年12月6日

 第4回  六十歳で勇退したバイエルン歌劇場総裁07年12月9日

第5回  本物が退散し、偽物が蝟集する『綻びの劇場』07年12月12日

第6回  国立劇場の理事だった大佛次郎の苦言07年12月21日

 第7回  無償観劇を強要する演劇批評家、客席で観劇する劇場幹部08年1月1日

 第8回  劇場のトップマネジメントは及第か(上)08年1月9日
      ―税金で賄われる「民間の財団」という不思議な劇場

 第9回  劇場のトップマネジメントは及第か(中)08年1月17日
      ―芸術監督は「ギャラの高いアルバイト」で良いのか

 第10回  NHK副会長を引責辞任した新国立劇場の評議員08年1月26日

 第11回  就任会見で「専念しない」と発言、朝日新聞に「無自覚」と批判されたNHK会長も兼ねる新国立劇場の理事職08年2月5日 

 第12回  劇場のトップマネジメントは及第か(下)08年2月7日
      ―専念しない、専門家でない天下りの劇場最高責任者を頂く、世界で稀れな歌劇場  

 第13回  巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(一)08年2月18日
      ―肩書は年齢の数を越えるといわれる六十九歳の遠山理事長

 第14回  巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(二)08年2月26日
      ―「官と民の持たれ合い」を象徴する、元文化庁長官の被助成団体会長兼任 

 第15回  巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(三)08年2月29日
      ―経営の健全化を指摘されるNHKの子会社の取締役も務める遠山理事長

 第16回  巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(四)08年3月7日
      ―パチンコ施設業者の団体の長に収まる元文部科学大臣

 第17回  官僚批判喧しい最中、電通の社外監査役に就任する天下り劇場理事長08年6月19日

 第18回  巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(五)08年6月30日
      ―公務員改革に慎重な福田首相も、「適材適所でも天下りは二回まで」。

 第19回  巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(六)08年7月5日 
      ―「新国立劇場芸術監督交代 演劇部門 唐突な印象」 読売新聞7月1日朝刊

 第20回  巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(七)08年7月8日
      ―「新国立劇場 芸術の場らしい議論を」 朝日新聞7月7日朝刊 社説

 第21回  巨額な年国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(八)08年7月9日
      ―「演劇部門の芸術監督交代 「1期限りで代える必要あるのか」の声」 毎日新聞7月8日夕刊

 第22回  巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(九)08年7月11日
      ―<次期芸術監督の人事迷走 尾高氏「納得できねば辞退も」> 朝日新聞7月9日朝刊

2008年07月14日

もうひとつの「7月14日」  

 ―劇団四季創立記念日に先人を偲ぶ
 今日7月14日は劇団四季の創立55周年の記念日である。午後には、記者会見などが予定されていると聞く。新聞、テレビ・ラジオなどで取り上げられることだろうから、私の拙い文で祝意を表すことは差し控えよう。

 今回は1928(昭和3)年に敢行された、歌舞伎の最初の海外公演について書く。それは、今は無きソビエト連邦政府の招聘による二代目市川左團次一座の、モスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)公演である。
この歌舞伎公演は、前年の建国10年祭に国賓として招かれた小山内薫が、ソビエト連邦政府の当局者と交した会話で出た話といわれ、帰国した小山内が、左團次、そして松竹・大谷竹次郎社長に相談し快諾を得、駐日ソビエト大使館に伝え実現したとされている。
この公演は、モスクワ第二芸術座(客席数千三百強)で行われ、初日前に12日分のチケットが売り切れ、急遽次のレニングラードでの公演を短縮して、5日の日延べとし17日間の興行となった。尚、この劇場の芸術監督は名優ミハイル・チェーホフだったが、この月にアメリカに亡命していて、左團次一座とは遭遇していない。
 『左團次歌舞伎紀行』(平凡社、1929年刊)からの孫引きだが、当時の大阪朝日新聞の記事によれば、「その日またもや前賣切符を賣出したが、忽ち午前中に最終日までの分が賣切れてしまつたのだといふ。切符賣出しの當初は争つて求める民衆の列が、あの劇場廣場に數町にわたつてゐたといふ。何しろ革命以後劇らしい劇が来てくれず、外國ものに全く渇していた芝居好きの國民はこんど始めて外國の大物、しかも露國にとつては始めての純『カブキ』といふ最も珍しい東洋劇を迎へたのであるから、民衆の喜びは、いふまでもない…」(同書)という盛況ぶりだった。
 蛇足だが、この左團次一座の本邦初の海外歌舞伎公演の後は、夥しい数の海外歌舞伎公演が実施されている。昨年も、パリでは団十郎、海老蔵などの一座が、ニューヨーク、ワシントンでは勘三郎一座が公演しているが、パリは5日間、ニューヨークは6日間、ワシントンは1日という短期間の公演だった。左團次一座の公演の意義、影響力は無論だが、規模の大きさが知れよう。
 尚、団十郎、勘三郎の公演はともに、その挨拶やら演出に、それぞれフランス語、英語を取り入れたという。日本の伝統芸能たる歌舞伎を知らしめる公演では如何なものだろう。
 ―外國で日本の芝居をやる場合に、ともすると演技の上で外國人の気に入るやうに、外國人の趣味に迎合するやうにと殊更に改めることが多いが、そんなことは今度のロシア興行ではとらない所である。飽く迄も純日本式に演つて、日本固有の國劇を忠實に紹介するといふ精神で演じて貰いたい―
 左團次は、松竹・大谷社長主催の壮行会でこう述べたという。百年も前にヨーロッパに学んだ経験を持つ唯一の歌舞伎俳優の、至極真っ当な言である。

 第二芸術座での興行の翌日には、隣のボリショイ劇場(客席数四千五百強)で追加の公演をした。「さしもの大劇場も立錐の余地ないまでの満員で大盛況のうちにモスクワ十八日間の興行を打ち上げ」(同書)たという。
 レニングラード公演は、第二芸術座と同規模の国立マールイ・オペラ劇場で7日間行われた。残り三回の公演の六千枚程のチケットの申込数は四万を超えたという。また、同市で公演中のメイエルホリド一座(「メイエルホリド名称国立劇場」のことか)の招待を受け、エレンブルグの『ヨーロツパの滅亡』、ゴーリキーの『検察官』、オストロフスキー『森』のそれぞれ一部上演を観劇した。メイエルホリド本人は、前月からフランスに休暇滞在していたため、左團次とは出会っていない。

 たびたび引用した『左團次歌舞伎紀行』には、劇団四季代表の浅利慶太氏の父、浅利鶴雄氏の若き日の写真と、氏が著した「海外公演準備日誌」「歐州巡遊記」が掲載してある。氏は、この左團次一座公演のために単身モスクワに赴き、事前折衝を済ませて戻り、松竹副社長秘書として本隊に同行した。一行は、左團次、松竹副社長・城戸四郎、鶴雄氏にとっては叔母にあたる左團次夫人・高橋とみ(登美)、病気で渡航を断念した小山内薫に代わって演出・文芸顧問役を務める劇作家の池田大伍など総勢45名。東京から列車で敦賀まで行き、敦賀から船でウラジオストクまで、そこからモスクワまではシベリア鉄道と、二週間を超える旅程である。当初は、朝鮮・満州を経由してチタからシベリア鉄道でモスクワへ入る予定だったが、満州鉄道の列車転覆事件が報道された直後であり、ソビエト政府から「安全確保のため、最初からソビエト国領を通過して欲しい」との要請があって、この行程に変更された。
 敦賀港出港の様子が描かれているので、採取する。
 ―午後三時、嘉義丸に乗船のため桟橋に行く。桟橋には敦賀町長後藤貞雄、敦賀廓検査總取締北川作治郎氏を始め町の有志、組合の藝妓總出の見送りで波止場は立錐の餘地もない。一行は嘉義丸に乗船して甲板に並ぶ。やがて出船の合圖の銅鑼が響き渡り、萬歳の聲に送られて汽船は波止場を離れて行く。甲板の人々と波止場に見送る美妓連の手に握り交はされた赤や青や紫のテープは綾をなしながらひらひらと船足と共に延びてゆく。それも一つ切れ、二つ切れ、最後まで残つてゐた左團次丈の手のテープもきれた。(略)かうして先發した大道具の三人を除く一行四十五人を乗せた嘉義丸は船首を一轉すると一路浦鹽へ向けてエンヂンの音を高めたのである。―
 
 この敦賀港の出港は、今から80年前、劇団四季創立の四半世紀前のきょう、7月14日のことであった。

2008年07月24日

「新国立劇場の開館十年を考える」(二十四)
≪次期芸術監督人事について(一)≫

 7日に、芸術監督の交代についての新国立劇場運営財団(遠山敦子理事長)の対応を社説で批判、畳み掛けるように9日朝刊の文化面で、次期芸術監督の人事迷走ぶりを報じ、尾高忠明氏の「納得できねば辞退も」とのコメントを載せた朝日新聞だが、14日、18日には、ともに2百字足らずの短信を掲載している。
<監督人事、詳細開示を>朝日新聞7月14日夕刊
 新国立劇場(東京・初台)演劇部門の芸術監督交代をめぐり、演劇人有志と日本劇作家協会、日本演出者協会、国際演劇評論家協会日本センターが14日、「選定過程が不透明だ」として詳細の開示を求める声明を出した。
 会見で劇作家の井上ひさし氏は「税金を使っている劇場なのだから、(交代の)狙いや理由を提示すべきだ」と話した。声明には、井上氏に加え、蜷川幸雄、坂手洋二、永井愛、別役実、木村光一、佐藤信ら計12氏が名を連ねている。

<劇場側「運営は透明」>朝日新聞7月18日朝刊
 新国立劇場(東京・渋谷)演劇部門の芸術監督交代をめぐり、日本劇作家協会などが選考過程の情報開示を求めた声明に対し、同劇場運営財団(遠山敦子理事長)は17日、「国民の負託にこたえられる透明性の高い運営をしている」などと文書で回答した。選考過程は非開示で、討議参加者のは守秘義務があるなどとし、審議の詳細なプロセスは開示できないとした。 

 
 前後したが、14日に出された「芸術監督選定プロセスの詳細開示を求める声明」と、劇場側の回答を受けて22日に出された「芸術監督選定プロセスの詳細開示を、再度求める声明」が、日本劇作家協会と国際演劇評論家協会日本センターのサイトに掲載されていた。

「芸術監督選定プロセスの詳細開示を求める声明」
 新国立劇場運営財団は6月30日、オペラ、舞踊、演劇の次期芸術監督を発表しました。
 演劇については、「6月23日の理事会では鵜山監督の続投を主張する声もあったが、遠山敦子理事長に一任となった」と、報道されていますが、採決が不可能だった理事会の審議過程そのものを問題視する意見が出ています。また、芸術監督の選任について、選考委員会に差し戻すこともなく、なぜ理事長に一任するという異例な結果になったのかも不明瞭なままです。
 7月1日付読売新聞、7月7日付朝日新聞、7月8日付毎日新聞でも指摘されているように、財団執行部が進めた今回の芸術監督交代については、各方面から疑問の声が上がっており、選考委員会、理事会で正常に検討、議決されたとは思えません。
 芸術監督選びのプロセスを曖昧にしようとする財団執行部のやり方は、芸術監督制度と芸術家を著しく軽視する行為であり、決して見過ごすことはできません。
 私たちは、ここに強く抗議するとともに、今後このようなことが繰り返されないためにも、芸術監督選定の手続を明らかにすることを要求します。
 2008年7月14日
 井上ひさし 大笹吉雄 小田島雄志 木村光一 坂手洋二 佐藤信 沢田祐二 永井愛 蜷川幸雄 ペーター・ゲスナー 別役実 松岡和子
日本劇作家協会 日本演出者協会 国際演劇評論家協会日本センター
 
「芸術監督選定プロセスの詳細開示を、再度求める声明」
 新国立劇場運営財団は7月17日、「芸術監督選定プロセスの詳細開示を求める声明」に対して「回答」を提出しましたが、私たちは、これは私たちの求める「プロセスの詳細開示」に対する回答にはなっていないと考えます。
 新国立劇場運営財団は、「芸術監督選考を巡る理事会でのやり取り」を記した永井愛理事が会議の内容を公開したことを、「守秘義務」に抵触すると指摘していますが、私たちはそのようには考えません。このたびの芸術監督選定過程に於いて問題になっているのは、鵜山氏やその後任者についての「個人の資質、評価」ではなく、新国立劇場運営財団執行部の進め方、手続きの踏み方の「プロセス」の正当性です。こうした財団執行部の対応は、問題の本質をすり替えるものです。
 非公開であっても、そこに、公正さを損なうおそれのある審議が行われていた可能性があるとすれば、そのことについて内部からの告発があった経緯こそを、重く受け止めるべきです。詳細開示を求めるメンバーの中に、永井理事のみならず、新国立劇場運営財団の理事、選考委員、評議員が入っていることは、このことが新国立劇場運営財団内部に留めておくべきではなく、広く社会に問いかけるべき問題であるという、私たちの判断を示しています。
 そもそも、新国立劇場運営財団執行部による記者会見の内容が、多くの報道陣に違和感を与えたばかりでなく、新国立劇場運営財団の一部の理事、選考委員、評議員の認識とも大きく食い違っていたことから、このような詳細開示を求める声が上がったのです。
 新国立劇場運営財団に、あらためて「プロセス」についての詳細の公開を求めるとともに、今回の回答の中で言及されている鵜山仁芸術監督にも、あらためて事実関係を証言して頂きたいと思います。
 2008年7月22日
 井上ひさし 大笹吉雄 小田島雄志 木村光一 坂手洋二 佐藤信 沢田祐二 島次郎 扇田昭彦 永井愛 蜷川幸雄 ペーター・ゲスナー 別役実 松岡和子
日本劇作家協会 日本演出者協会 国際演劇評論家協会日本センター

2008年07月31日

「新国立劇場の開館十年を考える」(二十五)
≪次期芸術監督人事について(二)≫

「芸術監督人事 なぜもめる?」 日本経済新聞7月26日夕刊
「新国立劇場の次期芸術監督選出 対立が泥沼化」 東京新聞7月30日朝刊

 日本劇作家協会などの演劇関係者が芸術監督の選考プロセスの詳細開示を再度求めて十日が過ぎるが、劇場執行部からは回答がない。既に17日に回答したので、それで充分であるとの考えであろう。
 日本経済新聞7月26日夕刊のコラム「芸文余話」(内田洋一編集委員執筆)は、「芸術監督人事 なぜもめる?」と題して、芸術監督が「三年の任期で成果をあげるのは難しい」として、選考過程で芸術監督候補の「ビジョンが競われる仕組みを考えられないか」と問い、「核となる俳優と長期の出演契約を結ぶなり、戯曲を発掘する専門家を育てたりすることで、芸術監督は仕事をしやすくなるだろう」と説く。そして、見直すべきは、芸術監督制の「不足」についてであり、見直しがなければ、引き受け手がないという「最悪のシナリオが現実にな」ると警鐘を鳴らす。
 東京新聞7月30日朝刊の「新国立劇場の次期芸術監督選出 対立が泥沼化」は、7段写真付きの大きな記事である。
見出しも、<演劇人 「芸術家使い捨て」と反発> <運営財団 意思疎通不足を問題視> <鵜山仁・現監督が会見 「選考経緯に不自然な部分」>とある。ついでに、小見出しもあげると、<不透明な理事長一任> <制作上の支障を指摘> <芸術より営業重視?>とある。
 リードには、「1期限りで退任の決まった鵜山仁・現監督が財団を批判するという異常事態も。」とある。本文記事によれば、「劇場側は十七日、「理事会の大勢は(後任を選ぶなら宮田さんとした)選考委員会の決定を尊重した」と回答。日本劇作家協会などは、「(過程開示要求への)回答になっていない」とする声明を再度発表するなど、議論が擦れ違ったまま泥沼化している」。
 また、「運営財団の理事で、劇作家の永井愛さんは遠山理事長ら執行部が一任を主張し、発表に至った議事内容をメモとして記者会見で明らかにした」ことについて劇場側は、「非公開で行われる理事会の議論が会見で公開されたのは遺憾」としたと報じている。1期限りで再任しない理由とされるコミュニケーション不足については、「執行部がやりやすい人を選ぼうとしているのではないか」と劇作家・井上ひさし氏が批判、「芸術監督にすべての非難を集めるのは無理。上層部が現場に来て、けいこにつきあうようなコミュニケーションができる劇場もある」との、演出家で彩の国さいたま芸術劇場、シアターコクーンの芸術監督を務める蜷川幸雄氏のコメントを載せている。
 また、「観客動員に苦戦した」ことをあげ、劇場側には、「芸術水準より営業成績を重視する空気があったのではという関係者の見方もある」として、退任の背景を推測している。最後に、「芸術家が個性的なカラーを貫き、権限も強い欧米に比べ、日本は芸術監督制度の社会的認知が十分でない」とし、新国立劇場運営財団の評議員でもある評論家の大笹吉雄氏の「問題を開示して共有すべきだ。でないと開かれた劇場という考え方から遠ざかっていく」とのコメントで結んでいる。
 
 鵜山仁・現監督の会見についての記事では、<「『粛々と進行した』とされる選考委員会から理事会に至る経緯に、かなり不自然な部分があったと考えざるをえない」>との鵜山氏の発言から始まる。また、<自身の発言が、新国立劇場側に「不可思議な文脈で引用されている」との疑念を抱いていること、「続投についての自らの意志表示は公式に一切していないのに、退任の理由を「忙しいから辞めたい」とも受け取られかねないような個人的な事情に帰され、「意思の有無をある方向に誘導された違和感を持っている」>との鵜山氏の劇場に対する疑念や違和感を取り上げている。そして、<「芸術監督は芸術の成果で評価されるべきで、忙しさという個人的事情に帰することは、芸術監督制そのものを矮小化することにつながる」>との鵜山氏の劇場j側への批判を伝えている。