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推奨の本
≪GOLDONI/2008年7月≫

G.K.チェスタトン著作集1 『正統とは何か』 
福田恆存・安西徹雄訳 春秋社 1973年

 
 店の主人が小僧の理想主義に小言を言う場合、こんなふうに話すのがまず普通というものだろう。「ああ、なるほど、若い時分には、とかく絵にかいた餅みたいな理想を持つものだ。しかし、中年になるとな、そんなものはみな霧か霞のように消えてなくなる。その時になれば人間は、現実政治の駆け引きを信じるようになり、今使っているカラクリで間に合わせ、今あるとおりの世の中とつき合って行く術をおぼえるものさ。」 少なくとも私自身が聞かされた小言はこんなものだった。尊敬すべきご老体が、変に恩に着せるような物腰で(今は立派に墓に眠っていらっしゃるが)、子供の私にいつもこう言い聞かせたものである。けれども今こうしてじぶんも大人になってみると、あの愛すべきご老体は実は嘘をついていたことを私は発見したのである。実際に起こったことは、ご老体が起こるだろうと言ったこととは正反対であったのだ。私は理想を失って、現実政治の駆け引きを信ずるようになると言われたが、今の私はいささかも理想を失ってなどいはしない。それどころか、人生の根本問題にたいする私の信念は、かつて抱いていた信念と寸分も変わってはいないのである。私が何かを失ったとするならば、それはむしろ子供の時に持っていた現実政治にたいする無邪気な信頼のほうなのだ。私は今でもかつてと少しも変わらず、世界の終末に国々の間で起こるというハルマゲドンの戦争には深い関心を持っている。けれども、たかが英国の総選挙にはもうそれほどの深い関心は持てない。赤ん坊のころには、総選挙と聞いただけで母親の膝に跳び上がったのも嘘のようである。そうなのだ。いつでも堅固で頼りになるのは直観なのだ。直観こそは一個の事実である。嘘っぱちであることが多いのはかえって現実のほうである。かつてと同じく、いや、かつてないほど深く、私は自由主義を信じている。だが、自由主義者を信じていたのは、かつてバラ色の夢に包まれて生きていた無邪気な昔だけだったのだ。
 理想がけっして消えてはなくならぬ一つの実例として、自由主義にたいする私の信念を持ち出したのだが、これには実は一つの理由があったのだ。私の思索の根をたどるにあたって、この信念はどうしても無視するわけにはゆかぬ、というのも、おそらくこれが私の唯一の偏見とも言うべきものだからである。これ以外に、私が明確な信念として抱いてきた前提は一つもない。私は自由主義の教育を受け、いつでも民主主義の原則を信じてきた。つまり、人間が人間自身を治めるという自由主義の大原則である。こんな定義はあまりにも漠然としているとか、あまりに陳腐だと言う読者もあるかもしれない。そういう読者にたいしては、ごく簡単に、私の言う民主主義の原則とは何かを説明しておこう。それは二つの命題に要約できる。
 第一はこういうことだ。つまり、あらゆる人間に共通な物事は、ある特定の人間にしか関係のない物事よりも重要だということである。平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。人間そのもののほうが個々の人間よりもはるかにわれわれの畏怖を引き起こす。権力や知力や芸術や、あるいは文明というものの驚異よりも、人間性そのものの奇蹟のほうが常に力強くわれわれの心を打つはずである。あるがままの、二本脚のただの人間のほうが、どんな音楽よりも感動で心を揺すり、どんなカリカチュアよりも驚きで心を躍らせるはずなのだ。死そのもののほうが、餓死よりももっと悲劇的であり、ただ鼻を持っていることのほうが、巨大なカギ鼻を持っているよりもっと喜劇的なのだ。
 民主主義の第一原理とは要するにこういうことだ。つまり、人間にとって本質的に重要なことは、人間がみな共通に持っているものであって、人間が別々に持っていることではないという信念である。では第二の原理とはどういうことか。それはつまり、政治的本能ないし欲望というものが、この、人間が共通に持つものの一つだということにほかならぬ。恋に落ちるということは、詩作にふけることよりもっと詩的である。民主主義の主張するところでは、政治(あるいは統治)はむしろ恋に落ちるのに似ていて、詩作にふけることなどには似ていないというのである。似ていないと言えば、たとえば教会のオルガニストになるとか、羊皮紙に細密画を描くとか、北極の探検とか(飽きもせずに相変わらず跡を断たないが)、飛行機の曲乗り、あるいは、王立天文台長になることとか―こういうことはみな民主主義とは似ても似つかぬ。というそのわけは、こういうことは、うまくやってくれるのでなければ、そもそも誰かにやって貰いたいなどとは誰も思わぬからである。民主主義が似ているものはむしろ正反対で、自分で恋文を書くとか、自分で鼻をかむといったことなのだ。こういうことは、別にうまくやってくれるのでなくとも、誰でもみな自分でやって貰いたいからである。しかし、誤解しないでいただきたい。私が今言わんとしているのは、自分の恋文は自分で書くとか、自分の鼻は自分でかむとか、そういうことが正しいとか正しくないとかいうことではないのである。(略)つまり人間は、人間に普通の人間的な仕事があることを認めており、そして民主主義に従えば、政治もその普遍的活動の部類に入る、ということである。要するに民主主義の信条とは、もっとも重要な物事は是非とも平凡人自身に任せろというにつきる。たとえば結婚、子供の養育、そして国家の法律といったことがらだ。これが民主主義である。そして私はその信条をいつでも信じつづけてきたのである。
(「おとぎの国の倫理学」より)