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推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年9月》

『消費社会批判』堤清二著 
    岩波書店 1995年刊


 ここで明らかにしておかなければならないのは、マルクスが行った資本主義の矛盾についての指摘は、産業社会の存在を前提として、それの民衆のための作り替えという歴史的な位置づけを持っていたことである。彼は革命による資本主義の打倒、社会主義の実現、その政権による生産の発展、いずれは国家の止揚、共産主義社会の建設、という未来図を描いていた。しかしそのためには新しい政権は常に自由市場経済に立脚する政権以上に、果断な自己否定、革新を行わなければならなかったはずである。
敗戦後になって漸くわが国に紹介されたマルクスの「経済学批判要綱」序説の「生産・消費・分配・交換(流通)」に含まれている第四節“生産、生産手段と生産関係、生産関係と交易関係とにたいする関係での国家形態と意識形態、法律関係、家族関係”という長い名を持った節のなかに次のような記述がある。
 「芸術のばあいには、一般に知られているように、その一定の最盛期は、社会の一般的発展に、したがってまた、いわばその組織の骨格である物質的基礎の発展にけっして比例するものではない。」
 そうしてマルクスはこの文章に続けてギリシャの叙事詩やシェークスピアを例にあげる。この思想はスターリンが主張し、世界の共産主義の組織が文化・芸術・学問を鋳型に流し込むために利用した「上部構造と下部構造」という唯物論の卑俗化、それを梃子とした”社会主義リアリズム論”とは全く異質である。こうした権力による歪曲や雑音を排除し、また衆をたのんで「魔女狩り」をするような勢力に煩わされることなく、マルクス本来の思想に拠って資本主義制度を点検するなら、自由市場経済の欠陥に対して新しい視点を発見できるばかりでなく、産業社会そのものの成立過程と内部矛盾を見出すことによって、消費社会批判への思考の糧を獲得することが可能になるに違いない。

 ここで補足的に、自由市場体制以前の消費社会のひとつである江戸時代後期に触れておきたい。井原西鶴、近松門左衛門、上田秋成、与謝蕪村と続いた文学・演劇作家の輩出は、この時代に一種の消費社会が存在していたことを示しているように思われる。その際、大阪に三宅石庵、中井甃庵、富永仲基、五井蘭洲、中井竹山、山片蟠桃と続いた高等教育機関、懐徳堂が経済人の思想、理論指導機関として存在していたことは注目に値する。彼らは、利の源泉を、働き、努力、才覚、そしてまた技術の対価と考えていて、決して土地転がしや金融商品のバラマキによって利を得ようとは考えていなかった。彼らの思想は倫理的性格を帯び、また富永仲基のような思想家は文化の普遍性と個別性についての分析的認識論の体系を持ち、「インドの幻、中国の文に対し日本人は清介質直の語を好む」というように比較文化論的方法をも使ったのである。これらは徳川時代の思想、経世済民(「経済」という訳語の語源)のあり方を示すとともに、「消費社会」と呼ばれる社会の質が、エコノミック・アニマルが作った二〇世紀末のバブル・エコノミーとは比較にならないほどの倫理的、思想的水準を持っていたことを示している。
 ただし、産業社会以前の消費社会は、社会全体を覆うものではなかった。ギリシャの「市民社会」が奴隷の存在を前提としたように、江戸時代の消費社会は土地に縛りつけられた農民を前提としていた。ただし、懐徳堂の指導者の多くが、頽廃した武家社会とその制度の老朽化に対して鋭い批判を公然と述べていたことは、「万年与党」と言われる今日の経済人と対比する時に、これまた興味ある事実であろう。  (「第4章 消費社会(Ⅱ)ーーその構造」より)