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2006年01月 アーカイブ

2006年01月02日

『梶井基次郎』と『ブログの書き初め』

一、及第するべからず
二、常に哲学的考察をおこたるべからず
三、冗費をなすべからず
四、健康を増進せざるべからず
五、風采に拘泥すべからず
六、軽薄なる言辞を喋々すべからず
七、常に正義なるべし、誠実なるべし
八、我が癖をなほすべし 曰く、自堕落 曰く、他人の意志に迎合すること

梶井基次郎が日記を書き始めたのは、旧制第三高等学校(現・京都大学)に入学、肺結核を患い療養を強いられた大正9(1920)年の11月のことだそうだ。
上に引用した、日記の書出しにある言葉は、日記を書くにあたっての心得なのであろうが、近い将来の死を意識した基次郎の、残り僅かな人生の戒めでもあったのではないだろうか。
ブログは日記形式にはなっているが、本来的には、極小メディア、個人の言論の場だろう。ただ、そのように認識しているものは限りなく少数のようだ。無名な私でも、仲間内での無駄話のような書き込みで、からかいやあざけりの対象にする、ミュージカルや演劇ファン、演劇専攻の学生などが開設する匿名や変名のブログの被害にたびたび遭っている。そういうものに対しては、出所を調べて彼等の実名を明かし、抗議し謝罪を求めようと思っている私は良いが、名の高い人を含めて多くの人は泣き寝入りせざるを得ないのだろう。
ブログが大流行する昨今、基次郎の記した八ケ条の心得に心惹かれる。
新年のブログ書き初めである。

2006年01月04日

『規制改革・民間開放』と『文化芸術振興』(壱)

今回は三回に分けて、<『規制改革・民間開放』と、『文化芸術振興』>について書いてみる。
旧臘28日に、<『規制改革・民間開放』と『新国立劇場』>と題して、規制改革・民間開放推進会議が決定した最終答申について触れた。
この答申案が報道される一月半ほど前の11月3日、『効率化追求による文化芸術の衰退を危惧する』とのメッセージが出された。
千三百字ほどのそのメッセージを要約する。
≪文化芸術の分野においても、市場原理の導入や、効率性・採算性を重視した施設運営を求める声がある≫
≪その振興には、市場原理や効率性・採算性とは相容れない面があり、一律に効率性を追求することは、極めて危険≫
≪目先の利益にとらわれることなく、息の長い取組みにより、優れた文化を創造し、かつ継承していくことが、世界に誇れる品格ある国作りにつながるのである≫
≪伝統を異にする国立美術館、国立博物館、文化財研究所を統合すべしという提案や、いわゆる「市場化テスト」を適用しようとする動きには、わが国の文化芸術の衰退につながるものと危惧の念を覚えざるを得ない≫
≪日本のみが安易に、採算性や経済効率追求を至上命題とする改革を行えば、国際的にもわが国の文化芸術に対する姿勢に疑問を持たれる≫
≪5年前に独立行政法人になった際に、各館の目的や運営方針を踏まえ、四つの国立美術館が一つの法人に、三つの国立博物館が一つの法人に統合した≫
≪様々な文化的催しの開催による施設の有効利用や開館時間の延長などサービス向上や経営改善の努力が見られる≫
≪さらなる統合を行うことは、これまでの努力を無にし、文化施設の多様性の喪失に繋がる≫
≪文化はその国のあり方を示すものである。「文化立国・日本」の実現に向け、長期的かつ国際的な視野に立ち、文化芸術振興のための議論が展開されることを切に望み、私たちのメッセージとする≫

声明の文言や、発表を敢えて文化の日にセットしたことからも、文化庁主導であることを隠していないメッセージだが、その呼びかけ人は、日本画家の平山郁夫氏と美術評論家の高階秀爾氏である。賛同者には建築家の安藤忠雄氏、照明デザイナーの石井幹子氏や、有馬朗人氏はじめ国立・私立大学の総・学長やその経験者が並ぶ。人寄せパンダを自任しておられるのか、この手の声明には常連の作家・井上ひさし氏の名があることには驚かなかったが、意外だったのは、業務改革の先頭に立ち、その批判の矢面にも立たされていて、経営に専念専心しているはずの新国立劇場運営財団の遠山敦子理事長や、NHKの永井多恵子副会長も(とくに永井氏の場合は、文教ジャーナリストという耳新しい肩書になっている。公私の峻別に厳しい方なのかもしれないが、寡聞にして氏の演劇批評にも美術批評にも触れたことがなく、文教ジャーナリストというほどの職業や立場があったことにも驚ろかされた。)、日本の芸術文化の先行きに不安に駆られてか危惧の念を持たれてか、矢も楯もたまらずにか、名を連ねている。
言論・表現の自由が憲法で保障されている日本ではあるが、行財政改革が最大の国内政治テーマになっている昨今、その改革を推進する内閣機関に対して、天下りの渡り鳥やお飾りトップのはずの「公的組織」の長が、こんな反攻の挙に出るとは思わなかった。
文化庁が主導したと思われる、「賛同者の名前を貸しただけ」との言い訳では済まない批判行動、「公的組織」の存亡消長に予算編成で影響力を持つ財務省や、NHKの監督官庁でもある総務省の高官たちには、どう映ったのであろうか。

2006年01月05日

『規制改革・民間開放』と『芸術文化振興』(弐)

「効率性追求による文化芸術の衰退を危惧する」メッセージが発表された後の11月15日、規制改革・民間開放推進会議は事業民営化等ワーキンググループ主査、市場化テストワーキンググループ主査の連名で、「効率性追求による文化芸術の衰退を危惧する」に対する同会議としての意見表明を発表した。
『規制改革・民間開放・市場化テストは
 文化芸術の振興のためにこそ行われます。』
―11月3日付け「効率性追求による文化芸術の衰退を危惧する」について―
と題した二千四百字ほどの文章を要約する。

≪「文化芸術」の重要性については当会議としても、まったく異論がない≫
≪日本の優れた文化の継承・発展のためにこそ、規制改革・民間開放・市場化テスト等の推進に努力している≫
≪「真に国民のためになる文化芸術の振興・研究・管理保存・展示はどのようなものであるべきか」という問題意識を持って、国・地方において真摯な運営形態の見直し作業が進められている≫
≪しかしこのメッセージは、これらの見直し作業を支持する意見を「財政難や行政改革を背景に、文化芸術の分野においても、市場原理の導入や、効率性・採算性を重視して施設運営などを求める声」として一蹴し、論拠も示さずに否定している≫
≪「市場化テスト」は、国民に対し公的財源により提供される公共サービスについて、サービスの受益者・納税者としてそのコストを負担している国民の視点に立って、当該公共サービスの質とコストの両面から、最も優れた者がそれを提供していくこととする制度であり、コスト削減効果のみを判断基準としておらず、従来提供されてきた公共サービスの質の維持・向上を図ることを前提に、官民を問わず、最もコスト効率性の高い事業者を選定する仕組みである≫
≪公的財源であるならば、一層質の高い国民本意のサービスの提供を目指すべきだ≫
≪メッセージの呼びかけ人・賛同者は、現在の国立美術館、国立博物館、文化財研究所が、真に国民のためのものとするならば、現在の運営主体である独立行政法人等に対して、胸を張って「市場化テスト」に参加し民間事業者より優れていることを立証せよと慫慂すべし≫
≪「長期的ビジョン」や「独立性」の保持が、「公的組織」にのみ可能とは考えず、公務員や独立行政法人の職員が担えばこれらの目標が問題なく達成でき、民間人では達成できないという命題について理論的または実証的に明らかにした分析を当会議は知らない≫
≪「公的組織」が一律にこれらの点で優れているという主張は、「官尊民卑」にほかならない≫
≪当会議は、官民を問わず、より優れたサービスを提供できる主体がサービスを担うべきだと考えているのであり、「民間主体が常に優れている」という決め付けや、「初めに民営化ありき」という結論を前提にはしていない≫

旧臘28日の『提言と諌言』にも引用したが、『規制改革・民間開放推進会議』の最終答申の前文には、
「小さくて効率的な政府」の実現に向けて―官民を通じた競争と消費者・利用者による選択―」とあり、
≪「官による配給サービス」から「民による自由な競争・選択」へと制度の転換を目指す≫
≪しかし現状は、官自身あるいは官が定めた特定の者だけが、官によって予め決められた財・サービスを提供するという社会主義的システムにおける市場の機能を無視する配給制度≫
≪我が国の公共サービスの大部分は、この「配給制度」により支配されている「官製市場」の下にある≫
≪「配給制度」は既得権益と非効率≫
≪生産者や官の関係者の特殊な利益を擁護≫
≪官だけがいわゆる公共公益性を体現できる唯一の主体であるという旧来の発想は終焉を迎えたと言わなければならない≫
と述べている。

「効率性追求による文化芸術の衰退を危惧する」メッセージの呼びかけ人・賛同者そしてその仕掛人たちの危惧の本質は、
<「大きくて非効率な政府」であるべきで、官民を通じた競争だの、納税者・受益者による選択など許さない。
文化芸術振興は行財政改革に優先されるべきもの>
との主張が否定されること、だったのかもしれない。

2006年01月06日

『規制改革・民間開放』と『芸術文化振興』(参)

「大学生が考えた自主企画をメディアを使って社会に発信する大学生と本社の共同企画」と、リードに書かれていた朝日新聞の12月30日の18、19面の特集は企画広告の様だったが、お読みになった方は少ないかもしれない。
朝日新聞総合研究本部の協力で、7人の女子学生が1年かけて企画し編集したページだそうだが、その中心は、12月1日に行われたトークセッション「少子化日本を救う、多様な生き方、働き方」(朝日新聞社主催、青山学院大学後援)で行われた、経済同友会代表幹事・日本IBM会長の北城恪太郎氏の基調講演と、企画側の女子学生と北城氏との対話、会場での質疑応答である。
その中で北城氏は、美術を専攻しているという女子学生の、美術館の運営を民間に開放する動きは、芸術や文化も郵政と同じ民営化の土俵か、との問いに、次のように答えている。
≪心の豊かさは大切だが、そのために税金を使うことと美術館の運営を効率的に行うことは別問題≫
≪メトロポリタン美術館は殆ど、入場料や支援者らの寄付、お土産や美術品の販売で運営≫
≪スミソニアン博物館は、施設を企業の晩餐会などのイベントに提供≫
≪民営化すれば営利主義に陥って、コストの高い作品が提供できない、文化を守るためにお金を削るのはけしからんというが、それは努力しないで今の仕事を続けたい人たちの主張のように聞こえる≫
≪国から運営交付金がないぐらいの気概を持って運営すれば、色んなことができる≫
≪民間企業から見ると、効率化できる余地がある≫
≪芸術だからといって、無駄は許されない≫。

質疑応答では、企業のCSR(社会的責任)についてはどう考えているか、との会場の女子学生からの問いに、社会的責任を重視した経営は、消費者の支持するところであり、CSRには寄付や芸術だけでなく、環境や育児支援もある。本来は企業の支援ではなく、サービスの強化こそ必要、と述べ、「規制と補助金がこの分野の活力をなくしてい」ることを指摘している。
芸術・文化の分野、とりわけ演劇界では、北城氏が指摘する育児・保育や介護の世界での問題同様、いやそれ以上に「規制と補助金」が事業の民営化、透明化、健全化の大きな障害になっていると思うのだが、これは私の大きな勘違いなのだろうか。

2006年01月08日

『殻を破る異才』と『殻に篭もる演劇オタク』

元旦の日本経済新聞は『待ったなし改革』という大特集を編んでいて、読み応えがあったが、それ以上に面白かったのは、1面、9面の『ニッポンの力』、とくに9面での、「小さくまとまった『ニッポン』という殻を自らの意思で、自らの知恵と技を頼りにぶち破ろうとする」異才として、ロック歌手の矢沢永吉、スーパーコン開発の後藤和茂、オランダで活動する建築家の吉良森子と、ニューヨーク・シティ・オペラの指揮者の山田敦の4氏を取り上げた記事である。私は、とくに建築と指揮の二人に関心をもった。
年末に、柳家花緑・立川志らく・柳家喬太郎の三人会を聴いた折、前座が、「私の父は一級建築士でして」と言うだけで満員の客席が沸くほどに40万建築士の旗色は悪いが、これはまた別の話。
吉良氏は早稲田大の院生の時にオランダ政府奨学生としてデルフト工科大学に留学。97年にはオランダで独立。99年にはハーグのオランダ首相官邸の改装の設計を手掛けた。昨年は古都ライデンにある、幕末の日本で活躍した医師シーボルトがオランダ帰国後に暮らした邸宅を、シーボルト記念館として改修する計画の設計者として活動した。
記者は書く。
≪大学院時代のオランダ留学。与えられた課題に沿って設計図を書けば合格だった日本と違い、留学先では作品の意味や文化的な背景までを厳しく問われた。「この設計で環境と調和できるのか」「なぜこの場所に窓を置くのか」。図面を提出するたびに教授や学生から容赦ない質問が飛ぶ。苦しかったが、その経験を通じてオランダ建築を学び、表現力や交渉力を身に付けた。≫

指揮の山田敦氏は早稲田大教育学部卒、日本IBM、ソニー生命の営業部門出身。十年間の勤め人暮らしをやめ、97年に渡米してNY・シティ・オペラの研究生に。
昨年11月、今までの「音楽監督助手兼指揮者」から「正指揮者」として契約、07年から同オペラを率いることになった。
ニューヨーク駐在の記者は書く。
≪米国では指揮者がコスト計算からスポンサー集めまでこなすため、ビジネス手腕が欠かせない。職人肌のマナハン(同音楽監督)は「営業は助手に任せたい」と思っていた。だが山田以外の志願者は現役音大生ばかり。日本では軽視された経験が生きた。〇五年五月に愛知万博で開いた凱旋公演でも、「営業大好き」の山田は総予算六億円のうち二億円強を集めてみせた。≫
≪「脱サラ根性物語はおしまい。これから待ち受けているのは実力だけが評価される世界だから」と気を引き締める。≫

ヴァイオリニストの諏訪内晶子さんが、文化庁在外研修制度を利用してニューヨークのジュリアード音楽院に入学した折、同級生達から歴史、とりわけ作曲家の生きた時代を理解できてヴァイオリンを弾いているのかを問われ、己の不勉強を知って、音楽院との単位交換制度を実施しているコロンビア大学で西洋史を学んだ、という話を思い出した。

文化庁が今年度も8億円以上の予算を組んで実施している芸術家在外留学研修制度についてである。
演劇研修に限っていえば、ニューヨークやロンドンなど物価の高い都市に滞在しても、国費から支給される1日一万円程度の日当で生活して、1年後の帰国時には百万円も貯めて帰って来る者や、大学(院)への正規留学はほぼ皆無で、十八歳の高校新卒生でも入る演劇学校の短期コースや、前衛というよりはハミダシ組の演劇人などが行うワークショップに気まぐれに参加する程度の者が続出する。ニューヨークでもロンドンでも、他の者よりは名を知られている研修生は、牢名主さながらに、日本人グループの中心に収まり、アパートなどに寄り集まって無為な時を過ごす。
外国政府奨学制度利用や、外国芸術施設への私費留学・研修をしてきた吉良氏や山田氏のような真剣さは微塵もない。

昨年の7月1日の『提言と諌言』<文化庁在外研修制度利用者を自衛隊予備役に編入せよ>、10月17日の『提言と諌言』<『在外研修』を実施する文化庁の『常識』と『言語感覚』>にも書いたので、ここでは繰り返さない。お読み戴きたい。
春には来年度予算が成立し、該当予算がどうなったかを確認出来るだろう。そうなれば、また国会議員や会計検査院などに提言や申し入れをするつもりである。

2006年01月13日

老練と若手のアンバランスな『演劇交流』

日本経済新聞の最終ページにある「文化往来」は、さすがに日本のホワイトカラー必読の経済総合新聞だけあって、他紙によく見かける催し物情報とは違い、短信に社会的な解説なり視点が盛られた、興味を惹かれることの多い囲み記事である。
1月10日の「文化往来」は、『文学座と青年団、人材育成の交流公演』とのタイトルで、≪「文学座+青年団自主企画・交流シリーズ」と銘打った連続上演をこの5月にスタートする≫ことについて書いている。
≪新劇界と小劇場界の有力劇団が手を結び、公演を重ねることで、主に若手の育成を目指す≫と記事にはある。
岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄の三人の作家が、築地小劇場出身の俳優である友田恭助と田村秋子の為に昭和12(1937)年に設立した、最古にして最大の新劇団である文学座と、国際基督教大学の学内学生劇団出身の、劇作・演出の平田オリザ氏が主宰する青年団との接点は、新宿区信濃町にある文学座の「アトリエ公演」で、1997年11月、『月がとっても蒼いから』という平田氏の書き下ろし戯曲を、同座の俳優・坂口芳貞氏が演出して上演したことからか。
≪互いにアトリエが近いことなどから企画が持ち上がった≫と記事にあるが、文学座は、信濃町のアトリエや隣接の小稽古場だけでは手狭になり、劇団所属の俳優や演出部スタッフの自主稽古や自主公演の場にと、数年前から板橋区小茂根に民間のスタジオを年間契約で借用しているが、目黒区駒場を拠点とする青年団も、同様に同所近くに小稽古場があること、あるいは坂口氏と平田氏が桜美林大学での同僚ということもあってか、この企画が進んだのかもしれない。
この交流シリーズに参加する演出家だが、文学座からは、劇団代表で、現代演劇界の最長老である戌井市郎氏、文学座アトリエ公演で別役実作品を多く手掛けた藤原新平氏など。青年団からは無名の演出部員とフランスの若手演出家など。90歳から25歳までの十数人の演出家を抱え、新国立劇場には芸術参与や演劇研修所の副所長を送り出し、東宝や松竹、芸能プロ製作の商業演劇まで進出する中堅の演出家が揃う老舗の文学座と、大学教授やテレビコメンテーター、公共団体等の審議会委員など八面六臂の活躍の43歳の主宰も含め全員が若手の範疇に入る新興の青年団。参加演出家の構成については、均衡の悪さが気になるが、当事者には然したる問題ではないのだろう。
「地域」や「公共性」など、猫も杓子も口にするこの時代であれば、この企画には地元の板橋区などから、「地域振興」「芸術支援」「芸術を活用しての街作り」などの名目で補助金が支出されたりするのだろうか。この「文化往来」には、そのあたりの言及はなかった。
また、平田氏の談話はコンパクトに取り上げられていたが、一方の文学座の側の談話がないことが気になった。
続報に期待する。

2006年01月17日

クラシック音楽尽しとなった新春第二週

連休明けの10日(火)から一昨15日(日)までの6日間は、久しぶりに音楽、そして友人との食事を楽しんだ。
10日は、初台の東京オペラシティコンサートホール。「日本におけるロシア文化フェスティバル2006 in Japanオープニング・ガラ・コンサート」と銘打ったマリンスキー歌劇場管弦楽団の演奏会。カラヤン以来の魔術師ともいわれるワレリー・ゲルギエフの指揮。定刻の開演時間には、このフェスティバル実行委員会の委員長・森喜朗氏とロシア連邦の大統領府官房長官氏の挨拶があり、ゲルギエフの登場を心待ちにし高揚する会場に水を指す、観客には礼を失したセレモニーになった。
第1部は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番第1楽章を上原彩子、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番を諏訪内晶子が協演。第2部、この日のメインはラフマニロフの交響曲第2番。第1部ではぎこちなさを感じるほどのオケだったが、これがゲルギエフの手兵といわれるマリンスキーかと納得させる演奏だった。客席は普段見受けられるクラシック音楽愛好者よりは、俳優座の栗原小巻さんなど、ロシア(旧ソビエト連邦)びいきか、ロシアに縁のありそうな人々が多く、客席もざわつき気味。休憩時のロビーも落ち着かないものだった。
12日は、赤坂・サントリーホール。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の主要メンバー9名によるウィーン・リング・アンサンブル演奏会。ライナー・キュッヒル率いるウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団のメンバーに、コントラバス、フルート、ホルン、クラリネット(2名)の9人編成。モーツァルト・後宮からの逃走序曲、ヨハン・シュトラウスのポルカなど十数曲。先日のウィーン楽友協会でのニューイヤー・コンサートは、マリス・ヤンソンスの指揮だったそうだが、テレビを観ないので、キュッヒル氏を見るのは今年は初めて。相変わらずの見事な演奏だった。
休憩時、いつものように紅茶をロビーで喫したが、そこで四十歳前後のカップルと長椅子の狭いスペースを譲り合って座った。終演後、混雑するクロークで偶然に彼等と前後して並び、ご挨拶。「お気を付けてお帰りになってください」「きっと、またお目に掛かりますね」と言葉を交わし、別れた。一期一会、品も雰囲気もある夫妻とのつかの間の袖擦り合い、最も好きなサントリーホールでの一夜を、より心地よいものにした。
14日は、府中の森芸術劇場・ウィーンホールでのライナー・キュッヒル・リサイタル。ピアノは加藤洋之。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第40番やベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲6番など。私は府中は初めてだが、ここでのキュッヒル氏のリサイタルは12回目という。五百の客席は売り切れ、最後部には補助椅子も用意されるほどの盛況ぶり。
休憩時のロビーは、キュッヒル氏のサイン付きのCDが売り切れ、特設のウィーン物産品コーナーや飲み物の売店も大賑い。
アンコールにはクライスラーの小品を7曲。結果としては三部構成のようなリサイタルで、終演は9時35分過ぎ。冷たい雨の降る中の遠出だったが、品格と奥行きのあるヴァイオリンを堪能した。
15日は、千駄ヶ谷の津田ホールでの、公開講座=オペラ劇場運営の現在・ベルギー=。「オペラ・ハウスの芸術運営と創作過程-オペラ歌手によるワークショップとともに」と題した、昭和音楽大学オペラ研究所が主催する講座。この講座については、この『提言と諌言』の2005年8月15日<バイエルンの招待者は大統領ただ一人>で触れたが、今回はその13回目の公開講座。講師は、ベルギー王立モネ劇場の音楽監督を2002年から務める指揮者の大野和士氏。日本人のオペラ指揮者としては、かの小澤征爾氏を凌ぐ人気と実力といわれる大野氏だけあって、五百席の会場は満員で、舞台上にも補助椅子を並べるほど。キャパシティの二倍の聴講希望があったというから、この講座の浸透度も大したものである。
前半の1時間半は、大野氏の講演、後半の1時間はテノールの小山陽二郎(藤原歌劇団)、ソプラノの木下美穂子(二期会)両氏と大野氏によるワークショップ。ワークショップでは、「音と歌詞の分析の重要性」を大事にする大野氏のレッスン、歌手とのディスカッション風景を短時間だが覗くことが出来た。
前半の講演は、興味深いものであった。これについては、近いうちに書くつもりだ。
以上のそれぞれの費用は、10日のマリンスキーが1万5千円、12日のウィーン・リング8千円、14日のキュッヒルリサイタル4千円、15日の公開講座は無償。
私にとって満足度の高いものは、15日、14日、12日、10日と、費用負担の少ないものの順になった。

2006年01月25日

『新国立劇場』関係者に見る『国家と演劇の品格』

昨2005(平成17)年10月23日の、毎日新聞の読書欄の二段囲み記事の切り抜きが、今も未整理のままに、三ヶ月もほかに紛れることなく、デスクの上に残っている。せっかくなので、今日はこの切り抜きについて書いてみよう。
この切り抜きは、學燈社が刊行する雑誌『國文学』の11月号についての書評で、650字ほどの短かいもの。この号が創刊五十周年記念として、『演劇』を特集していること、演劇についての海外の動向や大学教育、舞台の現場、についても取り上げ、人気劇作家の対談もあり、「充実した誌面だ」と、書評氏は褒めている。また、特集の副題が『国家と演劇』となっていることに、「目を引く」とある。それに続いては、「演劇は体制や権力を批判する立場」で、「国家の御用を果たすものであってはならず」、「逆に国家の支援を必要と」し、「健全な国家であれば、大いに演劇を助成する制度が整っているべきであることは、西洋の例を見れば明らか」とある。
対談を含めて25人の演劇・劇場・大学関係者がこの特集に寄稿しているが、この書評で取り上げているのは、大笹吉雄『国家と演劇』、栗山民也『新国立劇場はどこへ行くか』、西川信廣『俳優養成の現在』の3本。『国家と演劇』は、「日本の文化政策の変遷と実情が詳述」されているそうだ。また、『新国立劇場はどこへ行くか』は同劇場芸術監督である栗山民也が談話を寄せているもので、視察したスウェーデンの王立劇場の俳優が「とてもいいのに」驚き、5つの王立演劇学校があり俳優教育が充実していることを聞き、「日本にはそうした体制がない」ことを伝えたら、先方は「ほんとに少し青ざめた顔で、『では舞台では、一体誰が立ってらっしゃるんですか』と真面目な声で聞いた」とある。書評氏は、この「逸話が心に残」り、「笑えない笑い話だ」と書く。
最後は、『俳優養成の現在』で、新国立劇場演劇研修所が開校したことにも触れ、「その現在を語る西川信廣が、俳優の養成を演劇界全体で真剣に考える時期が来ていると語る言葉の意味はきわめて重い。」と書評を締めくくった。

この『國文学』は、大学の国文(日本文学)科の教員か学生・院生くらいにしか読者のいなそうな、マイナーな雑誌である。基礎学力も、無論のこと教養も、そして演劇的素養も能力も無い者ばかりが遣りたがる「演劇」の内側にも、またそんな者たちが作る演劇を見たがる同質の観客の側にも、この書評を読んで、この雑誌を手に取ろうとしたものがどれほどいただろうか。
それでもあまたある雑誌から、これを取り上げるとは、さすがは丸谷才一氏などの最後の教養ある文学者が参画してきたと言われる毎日新聞の読書欄だけのことはある。欄担当者の目配りが秀でているのか、あるいは書評委員の慧眼か、いずれにしてもたいしたものである。30年も前の読者としては、演劇同様、文学が教養と乖離したこの国で、この雑誌が廃刊されずに命脈を保っていることに驚いた。
しかしである。
演劇は体制批判であり、国家の御用を果たしてはならないが、国家の支援は必要、西洋の健全な国家は演劇を助成する制度が整備されている、という書評氏の「国家と演劇」についての考えが、この小さな書評の前半に現れたが、その唐突さに、こちらは「目を引く」前に体が引いてしまったが、それはまた別の話。「演劇は体制や権力を批判する立場」だそうだが、ほんとうか。「国家の御用を果たすものであってはなら」ぬそうだが、「国家の御用」とはなんだろうか。「国家の支援を必要とするものでもある」とも言い、「健全な国家であれば、大いに演劇を助成する制度が整っているべき」とも言う。前述したが、たかだか650字程度の小さな書評では、「演劇」や「国家」や「支援」「助成」など、それぞれに大きなテーマを語ることは無理である。どう書いても舌足らずな表現になり、説明不足に陥り、誤解を与えがちなものになると思うが、毎日新聞が執筆者に選んだほどの見識のある書評氏のこと、私が心配するまでも無く、そのあたりの誤解を与えることを承知した上での執筆なのだろう。書評にか、あるいは演劇に余程の覚悟、使命感をお持ちなのかもしれない。
書評氏が取り上げた、栗山民也『新国立劇場はどこへ行くか』は、先述したが談話である。「解釈と教材の研究」との副題がついたこの雑誌『國文学』、立派な研究誌だと思うが、このような雑誌は、一般的には対談、座談を除けば書き原稿が原則だろう。書評家であれば「談話とは、安手の感は否めないが…」ほどの常套句を用いるところだろう。
栗山氏の「逸話が心に残」り、「笑えない笑い話だ」と書くのだから、よほど感銘したのだろう。
日本の実情はどうか。「では舞台では、一体誰が立っていらっしゃる」かと問われる俳優の問題以前に、舞台演出の専門教育も受けず、芸能タレントを重宝がってか舞台に立たせているこの国の演出家という存在こそが問題なのである。スウェーデンばかりか書評氏の言う「健全な国家」である「西洋」には、日本とは違い、ぽっと出の演出家などほとんどいないのではないだろうか。
西川信廣『俳優養成の現在』を読んで合点がいかないことがあった。それは、彼の肩書が、「文学座・演出家」とだけ書かれていて、新国立劇場演劇研修所副所長という公的職名が抜けていることである。同研修所の所長でもある芸術監督と二人で、俳優の養成システムの重要性を唱和しているが、文中には文学座の養成システムへの否定的な見解が述べられている。劇団の幹事で、会社組織の役員でもある者の発言としては如何なものだろうか。フリーランサーではない組織構成員が、同業の他の組織で働くことの弊害など、いずれ改めて書こうと思っている。
この書評に名前の挙がった、大笹吉雄、栗山民也、西川信廣の3氏は、新国立劇場の評議員や芸術監督、サポート委員のようである。そして、書評氏は、東京大学助教授・イギリス演劇専攻だそうだが、偶然か新国立劇場演劇研修所の講師でもあるようだ。この4名は新国立劇場に蝟集する「お仲間」であったのだ。今や新聞が「公器」であるかどうかは意見の分かれるところだ。しかし、今でも、「仲間褒め」をする場ではないことくらいの了解や見識は、毎日新聞にもあるだろう。
であれば、毎日新聞の読書欄担当者は、この書評氏が、≪いま演劇はどうなっているか―演劇の最前線≫『シェイクスピア劇の最前線』というタイトルの文章を、この雑誌に書いていることは知らなかったのだろうか。
自分が執筆者の一人である雑誌を、新聞の読書欄で持ち上げる。演劇公演では、パンフレットやチラシ、あるいは新聞・テレビなどの媒体で紹介・宣伝したり、公演の協力をした批評家が、新聞の劇評でその作品を批評することがあり、発注者も含めて、そのモラルの無さに愕然とすること度々だが、ついに新国立劇場関係者は、劇評ばかりか書評でもこんなことをするようになってしまった。
『国家の品格』(新潮新書)で、藤原正彦氏言うところの「卑怯な振る舞い」を日常とする大多数の演劇関係者を前に、「惻隠の情」をもって批判心を抑えてきたつもりだが、孤立しても品格は守らなければならない。演劇人としての矜持は保たねばならない。
三ヶ月も前の小さな新聞の切り抜きが、『演劇の品格』の大切さを教えてくれた。