昨2005(平成17)年10月23日の、毎日新聞の読書欄の二段囲み記事の切り抜きが、今も未整理のままに、三ヶ月もほかに紛れることなく、デスクの上に残っている。せっかくなので、今日はこの切り抜きについて書いてみよう。
この切り抜きは、學燈社が刊行する雑誌『國文学』の11月号についての書評で、650字ほどの短かいもの。この号が創刊五十周年記念として、『演劇』を特集していること、演劇についての海外の動向や大学教育、舞台の現場、についても取り上げ、人気劇作家の対談もあり、「充実した誌面だ」と、書評氏は褒めている。また、特集の副題が『国家と演劇』となっていることに、「目を引く」とある。それに続いては、「演劇は体制や権力を批判する立場」で、「国家の御用を果たすものであってはならず」、「逆に国家の支援を必要と」し、「健全な国家であれば、大いに演劇を助成する制度が整っているべきであることは、西洋の例を見れば明らか」とある。
対談を含めて25人の演劇・劇場・大学関係者がこの特集に寄稿しているが、この書評で取り上げているのは、大笹吉雄『国家と演劇』、栗山民也『新国立劇場はどこへ行くか』、西川信廣『俳優養成の現在』の3本。『国家と演劇』は、「日本の文化政策の変遷と実情が詳述」されているそうだ。また、『新国立劇場はどこへ行くか』は同劇場芸術監督である栗山民也が談話を寄せているもので、視察したスウェーデンの王立劇場の俳優が「とてもいいのに」驚き、5つの王立演劇学校があり俳優教育が充実していることを聞き、「日本にはそうした体制がない」ことを伝えたら、先方は「ほんとに少し青ざめた顔で、『では舞台では、一体誰が立ってらっしゃるんですか』と真面目な声で聞いた」とある。書評氏は、この「逸話が心に残」り、「笑えない笑い話だ」と書く。
最後は、『俳優養成の現在』で、新国立劇場演劇研修所が開校したことにも触れ、「その現在を語る西川信廣が、俳優の養成を演劇界全体で真剣に考える時期が来ていると語る言葉の意味はきわめて重い。」と書評を締めくくった。
この『國文学』は、大学の国文(日本文学)科の教員か学生・院生くらいにしか読者のいなそうな、マイナーな雑誌である。基礎学力も、無論のこと教養も、そして演劇的素養も能力も無い者ばかりが遣りたがる「演劇」の内側にも、またそんな者たちが作る演劇を見たがる同質の観客の側にも、この書評を読んで、この雑誌を手に取ろうとしたものがどれほどいただろうか。
それでもあまたある雑誌から、これを取り上げるとは、さすがは丸谷才一氏などの最後の教養ある文学者が参画してきたと言われる毎日新聞の読書欄だけのことはある。欄担当者の目配りが秀でているのか、あるいは書評委員の慧眼か、いずれにしてもたいしたものである。30年も前の読者としては、演劇同様、文学が教養と乖離したこの国で、この雑誌が廃刊されずに命脈を保っていることに驚いた。
しかしである。
演劇は体制批判であり、国家の御用を果たしてはならないが、国家の支援は必要、西洋の健全な国家は演劇を助成する制度が整備されている、という書評氏の「国家と演劇」についての考えが、この小さな書評の前半に現れたが、その唐突さに、こちらは「目を引く」前に体が引いてしまったが、それはまた別の話。「演劇は体制や権力を批判する立場」だそうだが、ほんとうか。「国家の御用を果たすものであってはなら」ぬそうだが、「国家の御用」とはなんだろうか。「国家の支援を必要とするものでもある」とも言い、「健全な国家であれば、大いに演劇を助成する制度が整っているべき」とも言う。前述したが、たかだか650字程度の小さな書評では、「演劇」や「国家」や「支援」「助成」など、それぞれに大きなテーマを語ることは無理である。どう書いても舌足らずな表現になり、説明不足に陥り、誤解を与えがちなものになると思うが、毎日新聞が執筆者に選んだほどの見識のある書評氏のこと、私が心配するまでも無く、そのあたりの誤解を与えることを承知した上での執筆なのだろう。書評にか、あるいは演劇に余程の覚悟、使命感をお持ちなのかもしれない。
書評氏が取り上げた、栗山民也『新国立劇場はどこへ行くか』は、先述したが談話である。「解釈と教材の研究」との副題がついたこの雑誌『國文学』、立派な研究誌だと思うが、このような雑誌は、一般的には対談、座談を除けば書き原稿が原則だろう。書評家であれば「談話とは、安手の感は否めないが…」ほどの常套句を用いるところだろう。
栗山氏の「逸話が心に残」り、「笑えない笑い話だ」と書くのだから、よほど感銘したのだろう。
日本の実情はどうか。「では舞台では、一体誰が立っていらっしゃる」かと問われる俳優の問題以前に、舞台演出の専門教育も受けず、芸能タレントを重宝がってか舞台に立たせているこの国の演出家という存在こそが問題なのである。スウェーデンばかりか書評氏の言う「健全な国家」である「西洋」には、日本とは違い、ぽっと出の演出家などほとんどいないのではないだろうか。
西川信廣『俳優養成の現在』を読んで合点がいかないことがあった。それは、彼の肩書が、「文学座・演出家」とだけ書かれていて、新国立劇場演劇研修所副所長という公的職名が抜けていることである。同研修所の所長でもある芸術監督と二人で、俳優の養成システムの重要性を唱和しているが、文中には文学座の養成システムへの否定的な見解が述べられている。劇団の幹事で、会社組織の役員でもある者の発言としては如何なものだろうか。フリーランサーではない組織構成員が、同業の他の組織で働くことの弊害など、いずれ改めて書こうと思っている。
この書評に名前の挙がった、大笹吉雄、栗山民也、西川信廣の3氏は、新国立劇場の評議員や芸術監督、サポート委員のようである。そして、書評氏は、東京大学助教授・イギリス演劇専攻だそうだが、偶然か新国立劇場演劇研修所の講師でもあるようだ。この4名は新国立劇場に蝟集する「お仲間」であったのだ。今や新聞が「公器」であるかどうかは意見の分かれるところだ。しかし、今でも、「仲間褒め」をする場ではないことくらいの了解や見識は、毎日新聞にもあるだろう。
であれば、毎日新聞の読書欄担当者は、この書評氏が、≪いま演劇はどうなっているか―演劇の最前線≫『シェイクスピア劇の最前線』というタイトルの文章を、この雑誌に書いていることは知らなかったのだろうか。
自分が執筆者の一人である雑誌を、新聞の読書欄で持ち上げる。演劇公演では、パンフレットやチラシ、あるいは新聞・テレビなどの媒体で紹介・宣伝したり、公演の協力をした批評家が、新聞の劇評でその作品を批評することがあり、発注者も含めて、そのモラルの無さに愕然とすること度々だが、ついに新国立劇場関係者は、劇評ばかりか書評でもこんなことをするようになってしまった。
『国家の品格』(新潮新書)で、藤原正彦氏言うところの「卑怯な振る舞い」を日常とする大多数の演劇関係者を前に、「惻隠の情」をもって批判心を抑えてきたつもりだが、孤立しても品格は守らなければならない。演劇人としての矜持は保たねばならない。
三ヶ月も前の小さな新聞の切り抜きが、『演劇の品格』の大切さを教えてくれた。