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五代目市川三升(十代目市川團十郎)を語る

「元来、祖父は、俳優の質的な向上とか、人格の修養とか申すことにたいそう心を使った人の由で、現に、長女実子(じつこ)の婿には、慶應義塾出身で日本通商銀行に勤務していたインテリの、伯父三升を迎えていることでもうなずけます。
 祖父は、自分の芸の跡目を継がせようと、若い時に、兄の子を養子にして育てたのですが、この人がわずか十三才で亡くなり、落胆している折も折、翌年長男の(私にとっては、実の伯父に当たる人ですが)誕生で大喜びとなりました。ところが、この長男も生まれた年に病没し、その後は、男の子は授からず、続いて誕生した二人の子
は、揃って女の子でした。この姉妹が、私の伯母と母です。
 祖父は芸統の相続ということに相当深刻に悩まれたようでしたが、きっと、芸を相続させる人を、物色しながら、世を去ったのではないか、とも思われます。ですが、一方には伯父三升を長女の婿として迎える決心を固められたのは、人物本位が芸に優先したとも考えられます。
 私は、この伯父によって、どれほど、人間としても舞台人としても教養を深めることの大切さを、教えられたことでしょう。伯父は、好むと好まざるによらず市川宗家という大きな看板のお守りをしなければならぬ羽目になり、祖父の死後、自ら三升を名乗って死ぬまで、舞台に立ち歌舞伎十八番の復元や保存に努力致しました。」
「子供の頃は、私は画家になろうと、真剣に、と申しましても十才前後のことですから、幼い夢に過ぎませんが、心にきめていました。
これには伯父三升の影響が多分にあります。伯父は、前にもちょっと記しましたように、祖父の舞台上の名跡を継ぐために迎えられた養子でなく、堀越の家に新しい知識の風を導き入れるために迎えられた人ですから、人間も静かで趣味も高尚優雅なものを持っていました。
 特に、書と画をよく致しましたが、私の、まだ小さい時分から、庭の花壇へ連れ出したりして、スケッチをすすめました。まだ幼い私に、「写生をすることは、物をよく見ることの基礎である」ことを、噛んでふくめるように、やさしく説明してくれました。」
「この伯父には、もう一つ、俳句の手ほどきを受けました。後年、新派に入りまして、久保田(万太郎)傘雨宗匠のご批評や御叱正をいただくようになりましたのは、偏えに伯父の薫陶よろしきを得た賜物と思っています。」

劇聖・九代目市川團十郎の唯一の孫であり、最後の血統となった、劇団新派の大幹部であった三代目市川翠扇が、昭和41(1966)年に上梓した『九代目團十郎と私』(六芸書房刊)から、伯父・五代目市川三升について触れた箇所を二三摘んでみた。
GOLDONIの開店5周年にあたる昨年9月、この『提言と諌言』で、<「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』>という、この市川三升の著書を3回に分けて取り上げた。
先ほど久しぶりに、この『九代目市川團十郎』を手にしたが、今まで長いこと読み飛ばしてしまっていた、その「自序」の中にあった三升の言葉に教えられたので、それを書き記す。
「誰かの言葉に人を語るには語る人が語られる人と同格の人か、若しくは以上の人でなければならない。偉大な人は偉大な釣鐘のようなもので、その偉大な音響を出さんとするならば、偉大な力と偉大な撞木がなければならぬと云つた。結局私の持つた撞木は餘りに小さく且つあまり力弱かつた事を嘆かずにはゐられない。」

九代目やこの三升という縁戚の歌舞伎役者の存在を知ったのは6、7歳の頃。彼等を演劇人の規範として意識し始めたのは二十代半ば。それからもう四半世紀になるが、以来、彼等の偉大さを識れば識るほど、己の力の無さを痛感する毎日である。一昨年からは、折に触れて、彼等のことをこの『提言と諌言』で語るようになった。三升の言ではないが、非力な私が語ることで、(九代目は別としても)三升の人物像が歪んでしまってはいけないと思いながらも、久しぶりに三升に触れた。

歌舞伎の大きな財産である「歌舞伎十八番」を復活させ守ってきた三升だが、残念ながら、そして悔しいことだが、その恩恵を受ける松竹も、批評家も、そして三升の養子となり大名跡を継いだ十一代目の実子である当代の團十郎も、その人物、業績を語らない。
せめて私は、自戒しながら、これからも三升を語っていこうと思っている。

今日2月1日は、市川三升の五十年の正忌である。