朝日新聞の2月3日夕刊2面の『窓 論説委員室から』は、「野茂投手の注文」と題して、同紙制定の朝日スポーツ賞での野茂英雄の受章の挨拶に触れて西山良太郎論説委員が書いている。今までの賞がその場だけのことに終っている。あげる方(新聞)は、今後のスポーツ、その競技を考えて欲しい、というスピーチだそうで、それは「受賞者から表彰側へ、活を入れるような注文」であるとし、またアメリカでの活躍や、球団経営、若手育成に努める野茂選手を称える。「日の当たらない陰の努力を追って選手に寄り添い、彼らを支える競技の環境に目をこらしながら一緒に走っていきたい。野茂さんの直球スピーチを、自戒を込めて受け止めた。」とコラムを纏めていた。野茂選手の朝日新聞(賞制定者)に対する厳しい批判を、自戒を込めて受けとめるべきは、この論説委員氏一人ではないはず。また、このコラム自体が、朝日新聞の自己批判とも思えるが、穿ち過ぎだろうか。
同じ朝日新聞の2月6日夕刊5面の文化欄には、作家で劇作・演出家でもあるロジャー・パルバース氏が『文学の国?文学賞の国?』というタイトルの随筆を書いている。
イギリスの『サンデー・タイムズ』が、三十年ほど前のブッカー賞受賞の原稿を二十の出版社や代理人に送りつけ、戻ってきた返事はすべて、出版をお断りする、というものだった、との書き出しが面白い。
パルバース氏によれば、日本には文学賞が五百近くあるそうで、「日本では、文学作品そのものより、文学賞のほうが重要である、というかのよう」。「作家に会ったときは、『どんな作品を書かれてきたのですか?』と尋ねるより、『どんな賞を受賞されたのですか?』と尋ねるほうがそのうち普通になるかもしれない」。「もはや文学は賞をもらうことによって評価されるのであって、文学が評価されて賞をもらうのではなくなりつつある」とも。
パルバース氏は朝日新聞に配慮してか、学芸の担当記者に泣いて縋られたからか、同紙制定の朝日賞や大佛次郎賞こそ挙げなかったが、他の十近い賞の名を挙げ、「これだけ多くの賞があるのだから、宝くじで一等賞を当てるよりは、文学賞を一つもらうほうが、ずっと確率は高い」と皮肉にいう。
「日本はまさに文学賞の国だ。しかし、それはすなはち文学の国ということになるのだろうか?」。
滞日三十年のパルバース氏は、現代日本の痩せた芸術・文化事情やメディア事情を指摘しているのだと思うが、これは私の偏見だろうか。
3日の論説委員氏のコラム、そして6日のパルバース氏の随筆は、1月の朝日賞・大佛次郎賞や舞台芸術賞の発表と贈呈式の直後だけに、とくに面白く読んだ。