2021年07月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

アーカイブ

« 「新国立劇場の開館十年」を考える(四)≪六十歳で勇退したバイエルン歌劇場総裁≫ | メイン | 「新国立劇場の開館十年」を考える(六)≪国立劇場の理事だった大佛次郎の苦言≫ »

「新国立劇場の開館十年」を考える(五)
≪本物が退散し、偽物が蝟集する『綻びの劇場』≫

 ―タケルの話は日本中知らぬもののないくらい周知のものだ。これは、ワーグナーの考えたように国民的音楽劇を書く上で大きなプラスになる。だが同じ事情がマイナスにもなり得る。劇・音楽の進行が皆とっくに知ってる話を忠実になぞるだけなら伴奏つき絵本でしかないのだから。
 とはいえ、團は決してナイーブな芸術家ではない。逆に際立って賢明な人であり、日本に類少ない手だれのオペラ作曲家である。彼は台本の段階でよく用意していた。
 日本狭しと東奔西走、連戦連勝の末、赫々たる武勲を上げたタケルは、最後に異郷で死を迎えるに至った時、美しい故郷を偲ぶだけでなく、戦の空しさに目覚め、平和と人命の尊さを人々に説くまでになる。
 私はこのことを、そこだけ一ページ大の引用で印刷した解説書を読んで知ったのだが、これこそ驚くべき転調、突然降ってわいた転身であって、この曲の独創性の頂点はここに至って極まるというべきだろう。
 だが、これは命取りにもなり得る両刃の剣だ。この着想は、多くの血にまみれた近過去から現今の平和希求主義への転換という日本の歴史にあんまりぴったりなので、いつも物事を自分本位でやるのでなく、少しは他人他国の人の観点からも考えることをする人々からは、かえって、うまく辻褄を合わせす過ぎた。うさい臭い日本礼賛と思われかねないのは火を見るより明らかだ。そういう作品になるか、それともオペラ史上でも特筆に値する痛烈な風刺劇になるか。私には、これは二つに一つの綱渡り的曲芸と思える。
 團がそれをどう解決したか、それは最後までつきあった人の判断にまつことにしよう。ただ私としては新国立劇場初公演の晴れの舞台をこの曲で飾ったという事実に、最近の日本の歩みと思い合わせて、ちょっと言いようのない不安、危惧を味わったことを告白しておこう。(『朝日新聞』 一九九七年十月二十三日夕刊 「新・音楽展望」)

 ―畑中良輔が六月末でもって新国立劇場を円満退職した。初代芸術監督(オペラ)としての、準備期間も含めて二期六年の仕事だった。心からご苦労様でしたと言いたい。国の施設である以上、一方では官庁、役人の管理下におかれて予算から何から制約があったろうし、他方ではこの国で近年とみに高くなったオペラ人気のおかげで、マスコミはもとより、より大勢の人々の大きな関心の的になる結果となり、ひいては多種多様の価値観を反映する判断や意見、希望等々の対象として、何をやっても、この公と私の両面からのコントロールと批判にさらされないわけにいかない。その中での仕事であった。(略)その人が任期を終えたのに、マスコミはあまり書かない。国立劇場建設当時のにぎやかな論争を見聞した者としては、ここで、この四年間の劇場の成果とか、畑中の仕事のプラスマイナスを論じる人が出てこないのが不思議でならない。ものごとは、そうやってだんだん良くするのが大切ではないか。私はこれはマスコミの事情だけでなく、国立劇場の運営ぶりからも来たのではないかと考えるのである。」 (『朝日新聞』 一九九九年七月二十二日夕刊 「新・音楽展望」)


 上の二つは、新国立劇場の開場記念オペラ『建<TAKERU>』と、新国立劇場でオペラの芸術監督を務めた畑中良輔について書いた、吉田秀和氏のエッセイである。
吉田氏は音楽評論家、というよりも戦後の文壇、文化界の最後の傑物である。氏のこの「新・音楽展望」は、加藤周一氏の「夕陽妄語」とともに、長く朝日新聞の文化面を飾る名エッセイである。
 最近の朝日新聞は、襲名披露時の祝儀を隠匿して摘発された噺家二世や、ライブドアの悪さ仲間の芸能人を毎週登場させるほどに、長年の高級紙路線をかなぐり捨てた。その決意のほどは彼らの力量・資質の自己評価から出たものだろうから尊重すべきだが、それにしても知的退廃・低級ぶりは凄まじく、もう加藤周一、吉田秀和の珠玉のエッセイは、豚に真珠の如きものになっている。「マクドナルド」を叩くのに、元店員に制服を着せインタビューするという報道とは名ばかり、娯楽番組スタッフ連中まで報道番組を作る愚かなテレビ局を系列に持つ新聞社だから、社内からも昨今の文化面、芸能面作りには批判もないのだろう。
 それは別にして、音楽批評というものは、たとえ新聞批評ですら、吉田秀和がその頂点にいることなども幸いしてか(影響を受けてであろう)、音楽の専門的な事柄を書きながら、その作品に触れていない、また音楽の知識造詣のない者にも理解の及ぶ読み物として成立する文章が多いと聞く。寂しいことに、総じて演劇作品について評した文章は、作品を観ていない読者にも楽しめる、独立した一つの読み物となっていない。新聞劇評などは、あらすじで大方終り、稽古場か酒席かで耳にした演出者か制作者か俳優の談話に手を加えて書くくらいのもので、作品を観ていない一般読者には、意味のないものになっていて、おおよそ読まれることもない。
 最近の演劇担当記者、演劇批評家の大多数が、演劇の目利きでなく、好事家・愛好家でなく、まともな批評文も物さず、文化庁や日本芸術文化振興会、地方行政などの舞台芸術振興の助成金分配などの審査に与ったり、役所や新聞社などの褒賞制度の選考に加わったりの、舞台芸術有識者という名の卑しい業界人に成り下がっている。演劇人自らが自立更生、自助努力を図らなければ演劇の未来はないと思うが、その障害になっているのが、助成金のバラマキであり、業界ボス化する演劇批評家の存在である。
 吉田秀和氏は、開場記念の『建』のつまらなさに呆れ、一幕で退散したそうで、その後も二つ三つのオペラを観ただけのようだ。毎年五十億円を超える国税が投入される新国立劇場に招待状を手に通う演劇の記者や批評家の多くは、吉田氏のようには、つまらないと思っても、それを表明する意思も機会もない。新国立劇場には、演劇研修所の講師になりたがったり、公演プログラムの原稿執筆の機会を心待ちにするという、金目当てかボス化を図る卑しい者が続出する。助成制度の審査委員や芸術祭、褒賞制度の選考委員などにならず、最後まで筆一本の書き手を志す、本物の批評家や愛好家が集まってきてこそ、劇場としてのステータスが高まると思うのだが。
 いずれ稿を改めて書かなければならないが、新国立劇場の秋から始まった今シーズンは、オペラ部門では、『タンホイザー』『フィガロの結婚』『カルメン』の三本の作品が上演されたが、そのタイトルロール、主役級の歌手すべてに出演キャンセルがあった。この劇場のオペラ製作能力を疑うに充分な出来事である。チケットの払い戻しを受け付けないことで、怒りのおさまらない一部の購入者からは劇場を訴えるような動きもあるという。また、演劇部門では、ギリシャ悲劇を題材にした創作劇三本を中劇場で上演したが、既に芸術監督の能力の低さ、作品の水準の低さこそ評判になったが、チケットの販売成績は振るわず、普段は千席の客席を五百席に縮小して上演したが、その半分も埋まらない体たらく。三作計五十回の公演での総キャパシティー二万五千席程度のうち、有料入場者は延べ五千人を下回るのではないか。動員された劇団員や劇団付設などの俳優養成所、演劇専攻を持つ大学や高校の学生・生徒、高校演劇部の生徒などが大量に売れ残ったS席に百人、二百人が座って居たようだから、ばらまいた無償チケットは一万席分に近いかもしれない。少なくとも、どんな形かでか将来演劇に関わろうと考える、或いは既に演劇人になったつもりの者たちに、新国立劇場は普段からチケットをばらまく、チケットを購入してまでは観ないで済む劇場と思わせているこの劇場の罪は大きい。無論のこと、事前にチケットを購入して観劇する一般の観客は、マスコミ等の招待客や、このばらまきのチケットで劇場に現れる、多くの演劇関係者をどんな気持ちでみつめているか。
 客席を縮小しても一億数千万円のチケット売り上げも可能な中劇場使用で、五千万円を大きく下回る売上。であれば、数千万円の赤字を計上しているはずである。チケットのばらまき(無償観客の動員誘導)については定評のある新国立劇場の演劇部門だが、既に看過出来ない状態である。
 新国立劇場は開館十年で早くも「誇り」のない、「綻びの劇場」になってしまった。