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「閲覧用書棚の本」其の九。『明治の演劇』

岡本綺堂著、同光社、昭和24年の刊行である。
これは、「過ぎにし物語」として『新演芸』の大正9年8月号から始まった連載の追憶談。単行本としては、『明治劇談・ランプの下にて』として、昭和10年に岡倉書房から刊行され、その後も戦時中の17年に大東出版社から文部省推薦本として出され、この同光社本になり、その後も、40年には青蛙房から単行本として、55年には旺
文社文庫、平成5年には岩波文庫として刊行されている。綺堂は大正5年から雑誌連載の形で始まった『半七捕物帳』の作家として人気を博したが、『修善寺物語』『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』『東京の昔話』『長崎奉行の死』などの196篇の戯曲作家であり、随筆、翻訳、演劇研究にも多くの著作を持つ。
岩波文庫版には、綺堂家の書生で、後に養子になる岡本経一の解説が載っている。先にこれを紹介する。なお、手許の同光社本の見返しには、献本者の署名はないが、「市川猿之助様」と書かれている。現猿之助の祖父・猿翁宛であろう。
脱線するが、知り合いの作家・評論家などから贈られた署名入りの本は拙宅と倉庫に収蔵していて、展示や閲覧用の本として店にあるのは、神保町の古書店などで求めた献本署名入りの数十冊の本だ。大概は、本の所有者が亡くなり、その遺族が古書業者に処分を依頼して、それが業者の市などを通して古書店に流れたものだ。ただ、中には所有者が健在で、本人の意思でか、処分したものと思われるものがある。著者が自分の署名した献呈本を古書店などで目にしたら、どんなものだろう。「静かな演劇」とかの劇作家が、芸能タレントに贈った戯曲本、ミュージカルやストレートプレイもどきの演劇になぜか情熱を注ぐ歌舞伎俳優が、早口だか早飲み込みだかが売りのキャスターに贈った随筆本などに目を止めるたび、大事にされなかった本の不幸を、哀れみに近いものを感じる。

「劇評家狂綺堂主人の若き日の風貌を仲間は揃って゛若旦那"と見立てている。身だしなみもきっちりと礼儀正しく、色白で痩せぎすの長身であった。この若旦那は潔癖で孤独癖で、そして事によると議論好きだったらしい。俳優と私的な附き合いをせず、楽屋へ出入りをしなかった。劇作家綺堂になってからも、俳優と公的な附き合いだけだったのは、自らの信念だったのだろうか。新作上演のときでも、舞台稽古に立ち会って、初日を見るだけであった。最もコンビを謳われた二代目左団次とさえ私の交流をしなかった。したがって、俳優を語るのは舞台の上のことだけで、その私的生活には及ばない。
 書斎人である。まことに明窓浄机だった。机の上には原稿紙とペンだけ、身の廻りに本一冊、紙きれ一枚散っていない。」

岡本綺堂(本名は敬二)は明治5年に東京・高輪に生まれた。父は二百石取りの御家人、彰義隊として上野、父祖の地・奥州二本松で官軍と戦い敗れた過去を持つ。英国公使館書記官として三十数年勤めるが、明治の粋人としても知られていた。
綺堂は幼少より、漢詩、英語をこの父に教えられていたが、そんな修身が士族としての誇りや、新時代を生きる覚悟を涵養したのだろうか。

「父の腰巾着で大劇場を覗いたり、腰弁当で鳥熊の芝居に入り込む以外に、自分も一つ芝居を書いてみようという野心は、この時分から初めて芽を噴いたのであった。父は初めにわたしを医師にしようという考えであったそうであるが、友人の医師の忠告で思い止まって、更にわたしを画家にしようと考えたが、何分にもわたしに絵心がな
いので、それもまたやめてしまって、ただ何がなしに小学から中学へ通わせて置いたのである。しかも父はその当時の多数の親たちが考えていたように、わが子を゛官員さん"にする気はなかった。時はあたかも藩閥政府の全盛時代で、いわゆる賊軍の名を負って滅亡した佐幕派の子弟は、たとい官途をこころざしても容易に立身の見込みがなさそうである。そういうわけで、父はわたしに何の職業をあたえるという定見もなく、わたしもただぼんやりと生長していく間に、あたかも演劇改良などが叫ばれる時代が到来したので、わたしも狂言作者なってみようかと父に相談すると、それも好かろうと父はすぐに承認してくれた。
 父が容易にそれを許可したのは、第一に芝居というものが好きであるのと、求古会員の一人として常に団十郎らに接近していたのと、もう一つには流行の演劇改良論に刺戟されて、かの論者が主唱するように、゛脚本の著作は栄誉ある職業"と認めたためでもあったらしいが、更に有力なる原因は、こんな事にでもしなければ我が子を社
会へ送り出す道がないと考えたからであろう。八歳の春には「誰がこんな詰まらない、芝居などというものを書くものか。」と、団十郎の前で窃かに肚をきめていたわたしが、十六の歳には自分から進んで芝居というものを書こうと思い立ったのである。これも一種の宿命であるかも知れない。」