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「閲覧用書棚の本」其の八。『ひとつの劇界放浪記』

岸井良衛著『ひとつの劇界放浪記』は、昭和56年、青蛙房刊である。大阪の松竹、東宝映画、東宝演劇、TBSテレビ、そして東宝演劇と渡り歩いたプロデューサーの岸井良衛は、文化学院在学中の大正15(1925)年、十八歳の時に岡本綺堂の門を叩いた。『岡本綺堂日記』の続編に、岸井はたびたび登場する。
昭和五年二月二十日の項には、「午後一時ごろに帰宅すると、岸井の父の辰雄氏がその義兄龍前君同道で来訪。その用件は岸井が来る四月から再び文化学院へ入学する事になったが為に、「舞台」の編輯に従事するを止めさせて貰ひたいといふのである。勿論、わたしに異議はないので、承諾。岸井は雑誌の編輯を口実にして、諸方を遊び廻つてゐたらしい。それでは当人の為にもならないので、かたがた編輯を止めさせることに決める。辰雄氏等は一時間ほど話してゆく。つづいて岸井が来たので、改めて「舞台」編輯から手を引くやうに云ひ聞かせる」とある。
大正15年、入門を許されたばかりの岸井は綺堂に郵書で、劇作の勉強の為に舞台稽古を見たいと申し出た。綺堂の返信が、この書に載っている。岸井は、「これには、いろいろの教えがふくまれているので掲げることにする。」と記しているが、これは現代にも、そして劇作家だけでなく、演劇製作者や俳優、演出家にとっても戒めになるので採取する。

「拝復 舞台稽古を見たいといふ御手紙でしたが、まあそんな事は止した方がいいと思ひます。由来、観劇以外に劇場に出入することは見合せた方がいいと思ひます。芝居は観客の一人として正面から見物してゐればいいので、それで十分に研究は出来ます。劇場の内部に入り込んだり、劇場関係者に接近したりするのは、努めて避けなければいけません。里見君(里見弴)が「芝居の魅力」と題して、真に劇を研究しようと思ふ人は決して劇場の楽屋などに入り込んではならない、その空気の魅力に因て堕落すると説いてゐましたが、小生も同感です。舞台稽古を見たり、劇場関係者と懇意になつたりして、劇場の内部の消息に通じたやうに考へるのは、いはゆる芝居道楽の人間のすることで、真剣に劇を研究する者の取るべき道ではありません。小生は門下生を堅く戒めて普通の観劇以外に劇場へ入り込むことを禁じてゐます。昔と今とは時代が違ひます。劇は書斎で研究すべき時代となりました。参考のため見物したければ、見物席から見てゐればいいのです。かへすがへすも芝居道楽の真似をしてはいけません。舞台稽古などを見たところで作劇上何の利益もありません。その時間を利用して書物の一冊も読んだ方が遥かに有益です。」

同書の中で、岸井は綺堂門下生の横顔を描く。そこにも綺堂の優しさが現れている。

「△次は山下巌さん
山口県の人で、先生の門下には大正十一年十月からということで、内閣印刷局につとめていた。たいへんに真面目な人で、ふたば会の集まりに一日も休んだことがなかったと先生は言われている。
昭和八年四月に下谷病院に腸チブスで入院した。どうも様子がおかしいということで、見舞に行く前に、何か伝言でもと、先生の家を訪ねた。果せるかな山下さんの容態はよくなかった。往きに寄ったので報告しなければいけな
いと思って、病院の帰りに先生を訪ねると―
きっと寄ると思っていた。
ということで、お腹が空いているだろうからと、カレーライスとチキンカツを取っておいて下すった。
腹をこしらえてから聞こう。
と言われて、応接間で一人で大急ぎで食事をした。
やがて先生がはいって来られたので、山下さんの容態を話して、「どうやら、いけないと思います」と、はっきり言うと、しばらくして先生は―
君、焼場は、どこが近いかね。
と言われた。意外な先生の言葉に、「えっ」と、先生を見ると、先生の目には涙が光っていた。
その月の十八日に死亡した。
お通夜から葬式から焼場まで、先生は山下さんの傍をはなれなかった。」

『提言と諌言』の8月11日<「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』(続)>に取り上げたが、弟子たちが毎年のように逝く。二十二歳で劇作家として世に出ることなく儚く逝った弟子を悼んで作った綺堂の句を、岸井は記録している。

「 七月十二日 柳田顕道逝く
 去年のけふは 燈籠買って 来りしに 」

『岡本綺堂日記』によれば、「去年(こぞ)の今日」、大正十三年七月十二日は、珍しく在京の弟子が揃い、「ふたば会」を催していた。その五月に亡くなった中嶋俊雄の新盆、夭折した弟子達を偲んだ夜だったのだろう。翌十三日、綺堂は急逝した弟子の墓参りのため、巣鴨の染井墓地、入谷の長松寺に赴く。師に付き従い参詣する弟子達の中に、柳田顕道、そして山下巌の姿もあった。