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「閲覧用書棚の本」其の七。『藝のこと・藝術のこと』(続)

 東北帝国大学教授だった小宮豊隆は、第1次吉田茂内閣の文部大臣に就任した東京帝国大学教授で国際法の田中耕太郎が短期間兼ねていた東京音楽学校校長の後任として昭和21年に就任、同校が24年に東京美術学校と統合され、新制の東京芸術大学になるまでの、最後の校長でもあった。
 最初に「音楽と政治」と題した文章を採取する。56年前に書かれたものだが、そこに描かれる教育や文化についての政治家や役所の対応ぶりは、今と寸分違わない。歌舞伎の退廃・危機は百年越しだが、官が(政が、でもある)この国での個人の営み・生活のあり様(文化)全てに介入し、かつ結果責任を取らないという行政の姿は、薩長中心の官軍による明治の太政官政府の出現以来、百三十有余年続いている。

 「私はなぜ音楽学校をやめたか。
 衆議院の文部委員会で、芸術大学に邦楽を入れることが票決され、それが文部省への要請となり、校長としての私もそれに従わなければならないはめになったからである。しかも私はそれに従うことを欲しなかったし、また従うべきでないとも信じたからである。
 三味線というものは、一家団欒の空気を作るものであるとか、農村の盆踊にピアノやヴァイオリンが使えるかと論じた委員もあった。お前はアメリカに留学してアメリカの学問をしたからそういうことを言うのだろうとか、お前は洋楽心酔者である。然し洋楽はもう生き詰まっているのだぞとか論じた委員もあった。
(中略)元来学問や芸術の事は、責任を持たせて、それぞれの専門家に委せて置けばいいのである。委せて置けないから、文部委員会が口を入れるのだと言うのなら、致し方もないが、しかしそれならそれだけの見識を示してもらいたい。原子物理学を大学に入れるとか入れないとかという問題になると、さすが専門家に委せるより仕方がないと、誰でも考えるに違いない。しかしこと音楽に関する問題になると、浪花節を贔屓にする人間でも、都々逸が三味線にのる人間でも、みんなその道の通人をもって任じる傾向があるから、始末が悪い。
 日本の将来の音楽をどうするか、音楽の面で日本を再建するにはどうすべきであるかと言うような問題は、それしきの音楽の愛を超えた、もっと厳粛な問題なのである。」(昭和24年6月11日)

 私が持ち出しをしてでもGOLDONIを始めようとした理由の一つに、演劇製作の現場と、戯曲研究や文化政策などを研究・教育する大学とが乖離している現実に対して、そのことが理解出来ずか根本的な解決を図ろうとしない演劇界、文化行政やその周辺の者に対する批判があった。以下に取り上げる豊隆の文章に触れ、このテーマが実に長い間、この国に横たわる厄介な問題であることを再認識した。

 「在来の芸術家にはあまりに理論がなさ過ぎた。学者にはまた理論があっても、芸術が無かった。在来の芸術家は、理論を持たないのみでなく、理論を嫌う傾向があった。頭を使うと芸がまずくなると言った者さえあるくらいである。勿論技術を無視した理論は、芸術の足しにならないには違いない。然し自分の芸術を客観化して、何所に長所があり何所に短所があるかを知り、絶えず工夫しつつ自分の芸術を鍛錬して行くことを可能にするものは、理論であり、もしくは知性的要素である。正しい理論が正しく芸術家に働きかける限り、それは芸術家の発展を妨げるどころではなく、反対に芸術家を刺激して一所に停滞せしめず、不断の進展を将来するはずである。
 (中略)元来日本の社会には、学問的な雰囲気とともに芸術的な雰囲気に乏しい憾みがあった。戦争に次ぐ敗戦は、更にその傾向を著しくして、専門の学校の内部でさえも、そういうものは影を潜めてしまったというのが、日本の現状である。将来日本の芸術を育て上げる為には、まずこの雰囲気が濃厚に醸成されなければならない。その為には大学は無論のこと、既に高等学校においてその醸成が企てられなければならない。然しそのことは、何も知りもしないくせに、生意気に芸術家を気取る青二才ばかりを作り出すような、みっともない結果に陥ってはならない。此所では、過去の幼年学校、士官学校などのような、眼隠しされた馬車馬を作ることを目的とするのでなく、反対に「人間」「生活」「社会」などに対する感覚の窓の開かれた人間を作ることを目的とする。重要でもないことに得意になり、下らないことを誇りとするような視野の狭い者は、仮に初めのうちはいるとしても、次第に影を潜め、少なくとも考え方の自由な、感じ方の豊かな、若い学徒を生み出すことができるはずである。」(23年3月9日)

 「多くの芸術家は、感情が一切である、知性などはいらないという。感情のない芸術と言うものが考えられないことは無論である。然しその感情が把えられ、表現されてこそ、初めて芸術は成立するのである。しかもそれを把え、それを表現するものは知性を措いて外にはない。感情の把え方や把えたものの表現の仕方の深い浅い、広い狭い、高い低いは、知性の深い浅い、広い狭い、高い低いによってきまるのである。
 知性は一般に理屈と混同され易い。口ばかりが達者で、考えること言うことが芸術の表面を滑走してばかりいるのは、真の知性ではない。真の知性とは、何が正しく何が正しくないか、何が善で何が善でないか、何がほん物で何がほん物でないか、そういうものをはっきり弁別する力である。在来の言葉遣いをすれば、それは勘であると言えないこともない。日本の古い時分の芸術家の傑作は多くはその勘によって把えられ、その勘によって表現されたものである。 然し勘は浮動する。とって押えて始終磨きをかけていなければ、ともすると消えてなくなってしまう。勘を無意識の奥から曳き出して意識的なものにし、それを所有し確保し、それに磨きをかけて強力なものにし、必要な時にはいつでも出して使えるようにするものが、知性である。この知性の働いていない芸術は、痴呆の芸術であるに過ぎない。」(24年5月20日)