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「閲覧用書棚の本」其の十一。『岸田國士全集』(壱)

岸田國士全集全27巻、岩波書店刊。
今回採録するのは、平成3(1991)年12月に第25回配本として刊行された第27巻<評論随筆9>に収録の、「二つの戯曲時代」である。本著の後記によれば、この評論の初出は、昭和23年1月に岸田自身が編み刊行された『近代戯曲選』に「解説」として書かれたものであるから、その執筆は敗戦直後の22年だろうか。
僅かな例外を除けば、国税投入、文化庁などの補助金のばら撒きでしかない日本の貧困な文化政策のおこぼれに与る、貧して鈍した助成金麻薬患者と成り果てた演劇人しか生息しないこの時代にあって、私は『本質は些事に宿る』、演劇の諸相を見つめれば、そこからも政治や経済や社会が、大きくいえばこの国が、世界が見えると思って活動してきた。岸田の人生の軌跡と重なるもののない私だが、岸田はこの国では絶滅した本格の演劇人として、模範にしたい人である。  
この評論が書かれてから58年が過ぎたが、頭の先から尻尾まで補助金漬けで自立心も自制心も欠落した、あるいは初手から持ち合わせていない演出家や俳優、末流の商売人が経営するような大学の生き残り戦略に利用され、基礎学力のない落ちこぼれ高校生の収容先と化した演劇や文化政策などの学部や学科・専攻の即席教員で糊口をしのぐ演劇ギョーカイ人が作る演劇とその現状を、岸田が生きていたらどう思うだろうか。
『本質は些事に宿る』。この二十年、文化政策や演劇事情を見つめて来たが、そこで見たものはこの国の危さだ、といえば言い過ぎか。
今回の衆議院議員選挙の結果を知り、岸田のこの文章を思い出した。


「新劇」の名のかくの如き曖昧模糊たる用法の由来するところは、「歌舞伎或は新派」が劇界の主流なる如き観を示すことと一脈相通じてゐるのである。
即ち、わが国の興行界と劇場の常連とが形づくる一つの雰囲気は「歌舞伎或は新派」的なる演劇風景に密着し、相互的に生活の基盤を与へ合ひつつ、この外界への作用は、劇場の魅力に化けて、それが一般大衆の抜くべからざる封建性に媚び、動もすれば国粋を標榜して、国際的なる一切の進歩に背を向けさせ、都市的洗練を競ふことはあつても、それは常に懐古的であり、人間美の標準は紋切型のやうに、「いき」と「はり」である。美は美なりとしても、なんといふ限られた「危ふい美」の世界であらう。そしてまたなんといふ、鼻につき易い、人間性を無視した同工異曲の数々であらう。
そこには誰でも納得のいかぬものがある。おほらかなもの、真に厳粛なもの、幸福を思ひ描かせるものがない。虚構を通じての真実が稀にあるかと思へば、ただ、自然なものさへも極めて少いのである。
わが劇場の観衆は、なぜ、久しい間、舞台にそれらのものを求めなかつたのか? これはちやうど、なぜ、わが国に健全な議会政治が発達しなかつたか、といふ問ひに似てゐる。 
「俗衆」なるものは、知てゐることしか解らない、とは、フランスのある劇作家の述懐である。私は、わが国の劇場の一般観衆を以て俗衆なりとは云はぬが、しかも、見馴れたものしか観たがらず、また、さういふものの価値しか判断できないといふ不幸な事実を、わが国に於ては、特に国民の、精神的機能のうちに、著しく目立つた現象として指摘しないわけにいかないのである。