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「閲覧用書棚の本」其の十五。『中村吉右衛門』(参)

― 『沼津』で役者が見物に口を利くといふ習慣が、いつごろから始まつたものか、私は知らない。第一私には、これが初めての経験である。しかし花道が見物席の中を貫き、ある場合には見物は役者の肉体に触ることもできるやうな状態で、役者がその上で芸をする仕組になつてゐる歌舞伎では、見物席の中から役者が飛びだして舞台に上つて行つて芝居をするといふやうな工夫も随分前からあつたらしいので、この『沼津』の工夫も、恐らく相当古い時分からのものだらうと思ふ。これはある意味で、見物が一緒になつて芝居をするといふことである。少くとも昔の見物はかういふ仕組だの工夫だのがあるために、役者に親近感を持ち、芝居を自分のものと感じ、役者のためにも芝居のためにも親身になつて肩を入れる気になつたに違ひないのである。
もっともこれは実は逆で、昔は見物が役者と親類付合をするやうな関係にあつたから、かういふ仕組だの工夫だのが自然と生れて来たかも知れない。しかし実はそれはどうでもいいことである。大事なことは昔歌舞伎が見物から、自分のものとして愛されてゐたといふことである。
新劇が興隆しそうにしては、またいつのまにかぐづぐづになつてしまふ。それにはいろいろな原因が考へられるが、しかし一番大きな原因は、新劇が見物から、自分のものとして愛されてゐないといふ点にあるのではないかと思ふ。もちろんそのために新劇がすぐ歌舞伎の真似をするがいいかどうかには、議論の余地が十分ある。ただ額縁の向ふで演じられてゐる芝居が、自分たちとはほとんど縁のないものであるといふ感じを与へてゐるのでは、これは歌舞伎でも新劇でも同様であるが、芝居はまづおしまひだといふことだけは、知つて置く必要のあることである。(『沼津』の花道)

豊隆のこの『中村吉右衛門』の中に、唯一「新劇」への言及があったので採録した。
「いつのまにか」「ぐづぐづにな」ってしまう「新劇」。
「ぐづぐづ」こそ、「新劇」の、今も有効な謂なのかもしれない。

『中村吉右衛門論』が『新小説』に載ったとき、豊隆の師である夏目漱石は、
「もつと鷹揚にもつと落ち付いて、もつと読手の神経をざらつかせずに、穏やかに人を降参させる批評の方が僕は真に力のある批評だと云ひたい。」と手紙で窘めた。(「私の『中村吉右衛門論』のこと」)

―私は『中村吉右衛門論』を書いて以来吉右衛門の為に弁じたり、吉右衛門の為に景気をつけたりしてゐるうちに、劇評の専門家のやうなものになつてしまつた。それが漱石先生には気にいらなかつた。これは別に先生が吉右衛門を嫌つたわけでもなんでもなく、ただ私が学問に専念する代りに、劇場内部の浮き浮きした空気の中を、得意そうにあるき廻つてばかりゐることが、私の将来の為によくないと、先生が考へたからである。そのことは先生の手紙だの随筆だのの中にも書かれてゐる。然しその先生は大正五年(一九一六)になくなつた。それとともに私は『漱石全集』の編輯を引きうけることになつたので、到底芝居など見てゐるひまがなくなつてしまつた。自然私は劇評の筆を折り、劇場からも遠ざかることになつた。ただその後も私は吉右衛門の歌舞伎だけは、機会が許す度に断えず観、且つ屡批評して来たのである。

外国文学の研究者や出版の編集者で、演劇の批評に手を染める者がこの時代にも生まれるが、これからは、そんな者達が劇場・ホールの中を得意そうに歩き回る姿を見る度に、吉右衛門の為に弁じたり景気をつけたりしているうちに、劇評の専門家の様になっていた豊隆を叱った夏目漱石を思い出すことが出来そうである。