2017年03月

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「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(六)

今回は、「賢外集」「佐渡嶋日記」から採録する。

一 坂田藤十郎曰く、歌舞妓役者は何役をつとめ候とも、正眞をうつす心がけより外他なし。しかれども乞食の役めをつとめ候はば、顔のつくり着物等にいたる迄、大概に致し、正眞のごとくにならざるやうにすべし。此の一役ばかりは常の心得と違ふなり。其ゆへいかんとならば、歌舞妓芝居はなぐさみに見物するものなれば、随分物毎花美にありたし。乞食の正眞は、形までよろしからざるものなれば、目にふれてもおもしろからず、慰にはならぬものなり。よつてかくは心得べしと常々申されし。

一 坂田藤十郎曰く、歌舞妓やくしやといへるものは、人のたいこをもつ氣しやうにては、上手になりがたし。そのやうに心降ると、後は役者同士の出合も、はなはだ疎遠になる物なりと、若き者どもに毎度申されし。

以上は「賢外集」の二條である。
坂田藤十郎がいかなる役者であったか、その一端をご紹介した。
今月末からの京都・南座、新春の東京・歌舞伎座は、鴈治郎改め坂田藤十郎襲名興行である。立派な平成の藤十郎になって欲しい。そして、形ばかりの歌舞伎タレント紛いが目立ち、目利きがいないマスコミや観客が騒がしい昨今の歌舞伎が、滋味深い古典芸能として、今の歌舞伎に失望して去ってしまった見巧者の観客や、ミーハーではない新しい観客が歌舞伎を観るように務めて欲しい。人気だけで芸も品も無い世襲俳優全盛の昨今、これからの観客に、初代藤十郎の偉大さをも知らしめる活躍を望みたい。

「閲覧用書棚の本」の『役者論語』、〆は「佐渡嶋日記」の十六條からひとつ、「日記」内の「しょさの秘伝」という舞踊の心得からひとつを採録する。

一 ひととせ備中國宮内といへる所の芝居へ罷下り、ふと當所にて死去せし古人金子六右衛門が古墳に参らんとこころざし、少シのよすがを求め、やうやう方角を知て、叢の中に分入、ちいさき石塔あり。花をさし水を手向、それよりほとりにて、人をやとい塚の前の薄など刈りとらせ、ほそき板をひろひ得て、矢立の筆にて金子六右衛門墓と書つけ、さしおきたり。天地は萬物の逆旅といへど、取わき役者は、一所不住にて、何國にて終をとるやらん、空しき身の上にてぞ有ける。

一 ふりは目にてつかふと申て、ふりは人間の體のごとし。目は魂のごとし。たましいなき時は、何の用にも立ず。ふりに眼のはづれるを死ぶりといひ、所作の氣に乗て、ふりと眼といつちにするを、活たる振とは申なり。それ故ふりは目にてつかふと心得べき事第一也。はてしなき故筆をとめぬ。