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「閲覧用書棚の本」其の一。『左團次藝談』

GOLDONIの閲覧用の書棚にあって、貸出しをしていない本を、9月の閉店までに何冊かご紹介していこうと思う。
その最初に取り上げるのは、二世市川左團次著『左團次藝談』(南光社、昭和11年刊)である。
この著書の前半にある「左團次藝談」は、『日本人の自伝』(全25巻。平凡社、1981年刊)の第20巻『七世市川中車、初世中村鴈治郎、二世市川左団次』に採録されているので、地域の図書館ででも借りてお読み戴きたい。彼は明治13(1880)年生まれ。父初世左團次は幕末の名優市川小團次の弟子(後に養子縁組)で、後に明治劇壇を代表した、謂う所の「團菊左」の左、である。
百年ほど前の明治36、7(1903、4)年は、歌舞伎に激動激震が起こった時。2月に五世菊五郎が、9月には九世團十郎が、翌37年8月に左團次が亡くなるなど、江戸の歌舞伎を識る三名優が相次いでこの世を去っている。
この時、彼は23歳。名優左團次の実子で、市川家の弟子筋でもあり、「十代目團十郎を狙ってゐる」という噂まで立てられていたという(『左團次芸談』)。明治39(1906)年9月に相続した明治座で父の追善興行を行い、その12月、欧州へ演劇修業に出掛けた。帰国後、明治座の興行制度の改革を実践(失敗に終るが、当時の劇場内外の旧弊を改革するなど、現在の商業劇場の運営スタイルの原型を生み出したといえる)。そして、小山内薫と提携しての『自由劇場』の結成など、明治末年から昭和15(1940)年に亡くなるまで、常に演劇改革を主張し先導した。
十年ほど前に亡くなった、劇団俳優座の俳優で近代日本演劇史家でもあった松本克平氏の有名なスクラップ帳を50冊ほど入手し、読んだことがある。その中に、三世市川寿海が書いた毎日新聞の『藝道十話』という連載があったが、この二世左團次について、「日本の近代劇に夜明けをもたらせた先駆者」で、「歌舞伎俳優にしてはまれに見る教養人であり、まれに見る誠実の人」と評していた。人柄が良かったからか、進取の気性に富んでいたのか、伊藤熹朔、巌谷三一、本庄桂輔、北村喜八、浅利鶴雄、菅原卓などと野外劇を企てたり、七草会として知られた、池田大伍、岡本綺堂、岡鬼太郎、小山内薫、川尻清潭、吉井勇、永井荷風、山崎紫紅、松居松葉、木村錦花らとの交友など、ブレーンに恵まれた。
この『左團次藝談』を上梓した翌12年の5月、彼は第二次の自由劇場の旗挙げを宣言する。しかし、その3年後の昭和15年2月23日に亡くなる。功なり名を遂げた左團次だが、常に熱情を持って演劇の改革に向った彼にとっては、志半ばの死、であっただろう。
「しいて道楽といえば、読書と錦絵の収集」、「酒は一滴も召しあがらない。まったく歌舞伎役者とは思えぬ謹厳さ」(寿海)を崩さずに過ごした二世左團次の六十年の演劇人生は、比ぶべくもなくまた僭越至極弁えが無いと批判されるだろうが、私の範とするところである。


「往年、小山内君と自由劇場を起した経緯は自傳で詳しく述べておきましたが、日本の劇壇に対して刺戟を與へたい。演劇の向上に資したい。其進歩に寄與したいと考へたからでした。其頃としては、これが導火線になつて數年を出でずして、きつと良き演劇が現れる。劇壇も目覚しく呼吸をしてくるであらうと望んだからでした。ところが今になつてみても依然として同じことです。然し世間では、どうやら反響があつたやうに云つてくれました。外國では新劇運動を起した者は、反響があつたならば大概それで引下つてゐるやうです。アントワンも功成り名遂げて退いたし、ラインハルトも一仕事すると長い間休むし、スタニスラフスキイも今では隠居同然です。然し我國の現在とは事情が違ひます。我國の劇壇の現状では行詰りを感ぜざるを得ません。此儘で引込んではゐられなくなるのです。全く現在のやうなことをやつていて、これでいいのだと安坐をかいてゐられるでせうか。商業演劇としては勿論仕方が無いとしても、一藝術家として現在のやうな状態で安閑としてゐられるとしたら、私は全く不思議に思はざるを得ません。今のやうな状態では私は全く行詰らざるを得ないのです。私を大變に買被り過ぎての斯ういふ聲をも耳にします。左團次は大成した位置にゐる俳優であるのに、今更新しい運動を起すでもあるまいではないか。然し私は決して大成などはしてゐません。大成してゐるのだから、もうこれでいいと落着いてしまつてゐる人がゐるとしたら、それこそ事實上に於て行詰つてゐるのではないでせうか。『行詰り』を感ずるところにこそ『行詰り』が無いのではないでせうか。また、かういふ親切な忠告をも受けます。其人の好意は過去の自由劇場を役に立つた仕事だと信じてゐてくれるのです。さうして折角過去に認められた仕事をしたのに、今更第二次の自由劇場などを起して、もし今度失敗をしたら、折角の過去の自由劇場が臺無しになつてしまふのが惜しくはないのか。然し私は、そんなことは氣にかけてはゐません。自傳の自由劇場の項にも述べたとほり、藝術はもともと商業ではありません。損もなければ得もありません。新しい藝術上の運動を起すといふこと、ただ其事實だけに意味があるのだと信じてゐます。―『私は永久に昔の戦場から退く事は出來ないと思ひます。然し若し私が再び出陣するとしたら、私は新しい武器を提げ、新しい甲冑を着けて向ふでありませう。』―これはイプセンが千九百年にプロゾール伯へ贈つた書簡の一節ですが、私が第一回の自由劇場に上演した『ジョン・ガブリエル・ボルクマン。』をイプセンが書いてから此手紙迄四年。其『ジョン・ガブリエル・ボルクマン。』上演の自由劇場第一回の時から今迄二十八年。私の新しい武器、新しい甲冑も亦自ら異らざるを得ません。第一次の自由劇場とは、まるで別のものとして、新しくスタートを切りたいと思つてゐます。そうして今度は廣く演劇文化運動の為にも働きかけてゆきたいと願つてゐます。演劇に對する熱情は、炎のやうに、いつでも私の體を包んでゐます。否、私自身が炎です。これ以外には、私には、何もありません。……演劇に對する熱情……演劇に對する熱情……これ以外には、私には何もありません。」