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「閲覧用書棚の本」其の二。『寿の字海老』

今回は、三世市川寿海著『寿の字海老』(展望社、昭和35年刊)を取り上げる。
寿海を識っているという、もっとも若い世代は、京都・南座か大阪・中座か新歌舞伎座で、あるいは東京の歌舞伎座で観ていた1960年代の少年少女だろう。私も、そのひとりである。
昭和41(1966)年6月に、瀬戸内海で入水した八世市川團蔵の晩年の舞台の印象は、当時小学生、中学生だった私には薄いものだが、中学・高校生の時分に観た寿海は、声が良く、格調がある老優として、そして何より九代目の系統の俳優であると言うこともあって贔屓にしていた(当時の子供までを贔屓にするほどの俳優だった)。寿海おじいさんのことを、「雷蔵の養父」と紹介されることが、子供の頃から嫌いだった。雷蔵さんに罪は無いが、「何て失礼な」と、密かに腹を立てていた。
小柄な年寄りが舞台では文字通り大きな大名優寿海になっていた。最後に観た舞台は、歌舞伎座での『寿曾我対面』の工藤祐経だったか。足が不自由になっていた寿海の姿は痛々しいものではあったが、これも座頭役者としての勤めであり、それでも、老いても消えない風格こそが大事、と少し強がりながら舞台を、というよりも寿海ひとりを見詰めていたことを今も度々思い出す。歌舞伎でも能楽でも現代劇でも、風格品格のない俳優しかいない昨今、寿海のことばかり思い出している。
寿海の書く先代幸四郎、言うまでも無いが今では先々代になる、七世松本幸四郎のことである。九代目団十郎の門弟で、長男を宗家の市川三升の養子に差出し(後の十一代目市川団十郎)、三男(後の尾上松緑)を六代目菊五郎に預けたことは有名だが、家の者には、この子供達を「坊ちゃん」と呼ばせなかったほどの躾の厳しい人物だった。「坊ちゃん」扱いを受け、芸能タレントや取り巻きと遊びまわる父親の後姿を見て育つのだから、警察の御用になるくらいは当然のこと。興行会社の経営陣をも家の郎党扱いする「バカぼん」ばかりの歌舞伎界になったのは、こういうかつての俳優の偉大さを、興行資本の社員も現役の歌舞伎俳優も、そして観客も、マスコミも識らないということもその一因だ。


「《先代幸四郎の教え》
不器用だとかなんだとか批評もされましたが、舞台の大きな役者でした。先代幸四郎さんの当り役は何といっても「勧進帳」と「大森彦七」です。特に「勧進帳」の弁慶は団十郎直伝の名品で千数百回上演した専売特許です。東宝時代思いもかけなかった「勧進帳」をやったことは、前にも書きました。初日の前、渋谷のお宅で午前二時まで掛って弁慶を教わりました。何といっても私は柄がなく、とても弁慶のニンにないので、この大役に恐れをなしていたのですが、幸四郎さんに「まずヒジを張って大きく見せろ」といわれたことが大変役に立ちました。問答のせりふ回しも懇切ていねいに教わりましたが、(中略)細かいコツをすっかり教えて頂いて、どうやら曲がりなりにも勤めることが出来たのも幸四郎さんのおかげです。この時には宗家の三升さんご夫婦や三津五郎さんにもお世話になりました。それから、昭和二十四年二月、私が現在の寿海を襲名した時、披露狂言として十八番の「助六」をやる時も直接教えて頂きたかったのですが、私は大阪にいましたので、東京へ行けず、大阪の藤間良輔さんに東京に行って貰い、教えて頂いたことを聞いて無事勤めたわけです。この時幸四郎さんは身体が悪いのにわざわざ立ち上って良輔さんに教えて下さり、帰りには「寿海君にくれぐれもよろしく」というお言伝まで頂きました。それから病勢がぐっと進んで間もなく、亡くなられましたので、私のために死期を早めたのではないかといつも心苦しく思っています。」