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「閲覧用書棚の本」其の二。『寿の字海老』(続)

寿海の『寿の字海老』は、日本経済新聞に連載した「私の履歴書」と、芸談抄「楽屋のれん」、先輩俳優達を描いた「おもかげ」、の三部構成になっている。奢り気負い衒いのない平明な文章は、温厚、篤実な人柄が感じられ、容姿、風格、口跡良しの寿海の舞台を懐かしく思い出させてくれる。夥しい数の歌舞伎芸能タレント本が出版されるこの時代、この『寿の字海老』を読み直すと、上梓された昭和35(1960)年から今日までの、ほんの45年の歳月で、歌舞伎が、演劇が、寿海さんに叱られることを承知で大げさに言えば、日本が失ってきたものの大きさを実感する。
子供時分の一番の贔屓役者であった寿海が、演劇人として尊敬する二世左團次の脇役を長く勤めていたことを識ったのはいつの頃だったか。多分三十数年前の学生時分だろう。日本共産党の傘下劇団の前進座と袂を別った河原崎長十郎が、その後も中国共産党シンパとして活動し、郭沫若の『屈原』上演に奔走していた折、吉祥寺の前進座住宅に彼を尋ねたことがある。九代目團十郎の縁戚で、左團次や当時亡くなったばかりの寿海と一座していた長十郎の、見苦しいほどの狂奔振りが堪えられず、「ヘタでも歌舞伎を遣るしかないだろう」と諌言するのが目的、返答次第では天誅を加えるくらいのつもりでいた。初めて対座した長十郎翁は、長く政治に翻弄されたからか想像以上に頑迷で、残念ながら既に「歌舞伎」俳優ではなかった。日共とも中共とも無縁になって、「歌舞伎」を作るならば協力してやろうくらいの気持でいた自分が阿呆らしく、虚しくなり、おとなしく数十分で退散した。それにしても、齢七十の老優を叱り付けに行った二十歳の大学3年生、自分のしたことながら可笑しく恥かしく、あの時のことを思い出して笑うことがある。


「左団次さんのことは、いろいろ書きましたのでくどくは申しません。なんといっても私には一番思い出深く有難い人です。
「踊りの出来ない奴は役者じゃない」などと悪口もいわれましたが、やっぱり偉大な人でした。何せ五十何年も前から茶屋制度廃止を思い立ったり、自由劇場を創立して新劇運動をはじめたのですから、つまり、そのころから今日を見透していた人です。
現在「歌舞伎の曲り角」などといわれ、歌舞伎の不振が伝えられています。こういう時に左団次さんがいてくれたらと思います。
いつも黙々として何かを考えていた孤独の人でした。小言もいわなければ役の注文もしない人です。私など三十五年も長い間一座して小言らしい小言をいわれたのは、「鳥辺山心中」で坂田源三郎をやったとき「太田君、あんまり白く塗らない方がいいよ」と一度いわれたきりです。舞台稽古の時なども、新作物ですと型がないので私が「ここで右手をあげましょうか」と聞きますと「僕はどちらでもいいよ」といいます。この゛どちらでもいい"という時は気に入らない時で、実は左手をあげて貰いたいのです。そこで私は察して左手をあげますと、ニコニコ笑います。ニコニコ笑えば及第なのです。
もう一つ思い出すのは、前に述べた、ダンクローズ式基本体操からとって、新しい形を残したことです。まず「鳥辺山」の大詰、四条河原で、お染と半九郎が、死装束で出てくるところの「あの面白さを見る時は……」で、うしろ向きになり、半九郎がお染を抱きながら右手で舞台上手寄りの祇園町を指すところがあります。この差し方が変っています。こういうことは筆舌では説明しにくいのですが、普通踊りから来た型ですと、右ヒジを折って、手を返して胸のあたりへ持って来てから、サッと右へのばして指すのです。ところが左団次さんは無造作に胸から水平に斜め右上へ上げて指すのです。そんな型は今までにないのですが、無造作にやっていながら実に自然で優美に見えます。これなど明らかにダンクローズ式です。私も、左団次さんがなくなってから半九郎をやる時はこの型でやります。数年前京都の南座で、若手連中が「鳥辺山」の勉強芝居をやった時、私が演出のお手伝いをして、この型をしますと、武智鉄二さんが、「今の指す型は変っていますね」と不思議がっていましたので、ダンクローズの話をしたら大変喜んでいました。
「伊達政宗」という新作物をやった時もそうです。伊達政宗が部下の支倉六右衛門をローマへ使いにやるという筋の芝居で、左団次さんの政宗に私は支倉六右衛門をやっていました。大詰で政宗が「ローマへ」といって揚幕を指さすと、私の支倉がハッと目礼して幕になるのです。この時の「ローマへ」といって指さす型が、鳥辺山の月を指す型と同じで効果をあげていました。
岡本綺堂さんの「佐々木高綱」で、頼朝を罵倒する前のところで、高綱がイライラして、舞台の上手から下手をウロウロ歩き回る場面があります。初演の時は劇評で「動物園の熊のようだ」と書かれましたが、これもあちらの芝居の型をとり入れたものです。高綱がイライラした気持がよく現われていて、今も型として残っています。
「修禅寺物語」でも、頼家が夜討ちにあって、姉のかつらが手負いになり、夜叉王のところへ帰って来るところがあります。そこで夜叉王が驚いて「娘か」というのですが、ここなど普通ですと、身を乗り出して驚く程度です。左団次さんは「娘か」といって、しゃがんで両手をあげ、ちょうど殿様蛙が立ち上ったような形をしました。これもダンクローズの型です。
酒は全然ダメでした。若いころはよく、鳥屋、牛肉屋、天ぷら屋へ一緒に行きました。勘定は全部ワリカンでした。これはケチというのではなく、若い時からこの人の主義でした。
孤独でしたが、反面さびしがり屋のところもありました。神田甲賀町に住んでおられ、私など、遊びに行くと、奥さんともども大変歓迎してくれたものです。当時私は本郷三組町に住んでいまして、その後神田三崎町へ引越したところ、左団次さんはある人に「太田君は、今度近くなったからちょいちょい遊びに来るだろう」といっていたそうですが、私の方は出無精で、あまり行きませんでした。」