2017年03月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

« 左團次の第二次自由劇場旗挙宣言(一) | メイン | ひと場面・ひと台詞≪―5月の舞台から―『解ってたまるか!』≫ »

左團次の第二次自由劇場旗挙宣言(二)

 二代目市川左団次は「自由劇場再建の夢」果たせぬままに、1940(昭和15)年2月23日に病没する。享年五十九。最後の舞台は、同年2月の新橋演舞場での『対面』の工藤、『修禪寺物語』の夜叉王。舞台との永久の別れは中日を過ぎた14日に訪れた。「幾たび打直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙なきにあらず、鈍きにあらず、源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今といふ今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸神に入るとはこの事よ。伊豆の夜叉王、われながら天晴れ天下一ぢやなう」。前年3月に亡くなった岡本綺堂の『修禪寺物語』の名台詞だが、左団次の死は、まさに「われながら天晴れ天下一」の俳優のそれであった。
 4月10日の四十九日法要の折、故人の遺志として、前進座、新劇団体にそれぞれ千円が寄贈されたという。因みに、当時の新協劇団、新築地劇団の二大劇団、北村喜八らの芸術小劇場の築地小劇場での公演の入場料は、凡そ二円前後。飛行館で試演会を続けていた文学座の入場料は一円二十銭前後である。この新劇団体宛ての千円は、前年11月に改築された築地小劇場の照明機材を補充する費用に充てられたという。
 新協劇団は「日本の新劇に最初の鍬を入れた」(都新聞)故・左団次を追悼して、この年の5月10日から「自由劇場回想公演」を実施、二日の日延べもあり34日間の長期興行となった。演目は前半が有楽座での自由劇場第二回試演に上演された『出発前半時間』(作・フランク・ヴェデキント、訳・森鴎外、演出・松尾哲次)、第二次自由劇場のために真船豊が書き下した『遁走譜』(演出・千田是也)。後半は1910(明治43)年12月に自由劇場公演として小山内薫の演出、(市川左団次のペペル、市川猿之助のクレーシチ、市川寿美蔵のサチン、市川荒次郎の男爵)で初演され、その後は「新劇十八番もの」といわれた、マキシム・ゴーリキーの『どん底』(訳・小山内薫)を上演した。演出・村山知義、装置・伊藤熹朔、照明・穴沢喜美男、舞台監督・水品春樹。配役は、滝沢修のルカ、宇野重吉のペペル、千田是也のサチン、小沢栄(太郎)のコスチリョフ、細川ちか子のワシリーサなどであった。 
 千田是也著『もうひとつの新劇史』(筑摩書房刊)には、演目選定の経緯が記されている。

 ―はじめはまた『どん底』をという話だったが、記念公演というといつも『どん底』が出てくるのはいかにも曲がなさすぎるし、一九三七年の五月の自由劇場の再建声明のさい左団次が真船豊氏に委嘱した『遁走譜』をその遺志を受継ぐかたちで上演したらどうかと私が提案したのがそもそものきっかけであった。それでも当ること間違いなしの『どん底』はそのままのこすことになり、(略)そのあげく『遁走譜』の演出は、言い出しっぺの私が受け持つことになり、ついでに『どん底』のサチンの役も引きうけ、今度は演出者の村山君のきつい御注文で、新築地でやったニヒリスト・アナーキスト的なサチンでなく、大いに人道主義的なサチンを相つとめることになった。―

 この新協劇団の左団次追悼公演が好評のうちに終った翌7月、新築地劇団は『第二の人生』(里村欣三作、八田元夫演出)を上演した。両劇団のこの5月から7月に掛けての公演が、ともに両劇団にとっての、そして築地小劇場にとっての最後の本公演となった。警視庁による両劇団に対する弾圧と、それに続く劇団の解散がその由である。左団次の死の半年後の1940(昭和15)年の夏は、左団次の望んだ新劇団の活躍が潰えた時でもある。
 2月の二代目市川左団次の死に始まり、8月の二大劇団の強制的な解散、11月の築地小劇場の国民小劇場への改称という、それぞれの終焉を迎えた1940年は、「新劇」の大きな転換点を迎えた時として記憶されるべきだろう。
 この年の10月19日、文学座の監事だった岸田國士が大政翼賛会の文化部長に就任。「新劇」の砦、象徴でもあった築地小劇場が「国民小劇場」に姿を変えた直後の12月、劇団文学座はマルセル・パニョル作『ファニー』を引提げて、新協、新築地という「主を失なった」国民小劇場に初進出した。
 「存在せずして存在する處の劇場」(左団次)を志向した明治末の自由劇場、「理想的小劇場の設立」(小山内薫)を掲げて誕生した大正末の築地小劇場という日本新劇の本流は消滅し、以来、時局に適合し、或いは迎合する戦中「新劇」という支流だけが残った、と言えば言い過ぎだろうか。