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劇団文学座の七十年(九)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『森本薫』(一)≫

 文学座の監事であった岸田國士が大政翼賛会文化部長に就任した翌月の1940(昭和15)年11月、築地小劇場は「国民新劇場」と改称させられた。12月、同劇場を本拠地にしていた新協、新築地の二大劇団の解散を受け、敵失とはいえ、主が消えた同劇場に勇躍乗り込んだのが文学座であったことは既に触れた。この月、後に劇作家・飯沢匡言うところの「文学座中興の祖」であり、自ら「新劇の岡本綺堂」たらんとした森本薫が入座する。また、岩田豊雄、久保田万太郎の二監事は顧問に退き、三津田健が代表者となる。このように、この1940年は、劇団創立3年の文学座にとって大きな変化の年であった。
 「首脳部を失い、座員たちは、心細かったろうが、嫌応なしに古参俳優を中心とする結束が生れ、それが今日の文学座の形態の基となったのである。」「主な役者たちが、一揆を起して、城を乗取ったのではなく、反対に彼等は見捨てられて、腕を組み合ったのである。およそ、文学座の座員たちは、女性的であって、一人で天下を狙う野心は乏しいのである」と、岩田豊雄はその著書『新劇と私』(1956年、新潮社刊) に記しているが、彼は「後事を託す」ような心境で、新進気鋭の劇作家であった森本を文学座に引き入れた。
 『演劇百科大事典』第5巻によれば、森本薫(1912~1946)は、文学座の創立した1937(昭和12)年に京都帝国大学英文科を卒業。高校(旧制第三高等学校)在学中から劇作の筆を取り、大学在学中には、『わが家』『みごとな女』を執筆、卒業後に『劇作』誌の同人となり、『かどで』『華々しき一族』『かくて新年は』『衣装』『退屈な時間』などを発表。また、多くのラジオ・ドラマ、シナリオを書き、ノエル・カワードの『私生活』、ソーントン・ワイルダーの『わが町』を翻訳、新鋭の演劇人として劇壇に地歩を築いた。1941(昭和16)年の文学座入座後は、『富島松五郎伝』を脚色し、『怒濤』『女の一生』を執筆、「新劇の舞台に適度の大衆性の導入を意図し」「その大衆心理を熟知した非凡な作劇技巧によって」、とくに『女の一生』は主要な演目になった、とある。また、「近代リアリズムの手法の上に豊穣な才能を遺憾なく開花させた『華々しき一族』を頂点とする」、文学座入座以前の、「初期作品群によって、当時の劇壇に新風を注入した功績は大きい」(玉山慶一著)とある。
 
岩田豊雄の『新劇と私』から、森本についての記述を少し引用する。
―森本は普通の劇作家とちがって、演劇の実際にも志があり、性格も大人びていた。戦時下の新劇に、ムリな注文もせす、さりとて、阿諛的な態度に出る愚も、知っていた。文学座の舵手として、全く好適だった。
 ―私は、彼を文学座に関係させたくせに、あまり深入りさせたくない気持もあった。作家としての彼の優秀な才能をよく知っているだけに、劇団の実際的要求で、折れたり曲ったりするのを、惧れた。『怒涛』という作品なぞに、その危惧を感じ、一言述べると、「いえ、ぼくは、新劇の岡本綺堂になりたいんですよ」と、笑って答えた。それは、負け惜しみのようであり、また、本音のようでもあった。彼のその傾向は、後に『女の一生』となって深められたが、その時も、私は惜しい気持がした。彼が死んでしまった今日、考えることは、文学座なぞに関係させたことが、早過ぎたということである。彼を、もう十年間、書斎の中に置きたかった。

 「深入りさせたくなかった」「もう十年間、書斎の中に置きたかった」と、森本に対する自らの文学座への誘いを悔いた岩田豊雄だが、では彼の悔恨とは何であったのだろうか。