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推奨の本
≪GOLDONI 2006年11月≫

『わたしの20世紀』 朝日新聞社刊 
安岡 章太郎 著 /1999年

 丸山真男の『自己内対話』は、ノートの走り書きをまとめたようなものらしく、私などには良く解らないところがある。しかし、その断簡零墨というか、二、三行の断章に、頭の閃きを直接写し取ったような面白いところが沢山ある。たとえば、
「アンチ・ロマン」などと言うのは、私にいわせれば、現代におけるイマジネーションの枯渇を体よく隠蔽するための標語にすぎない。現代のロマンは結局スリラー(むかしのいわゆる探偵小説)ものである。十九世紀の古典的な小説などと比べるにも及ばない。三〇年代の映画と比べてみれば、「お話」における構想力の貧困はあまりにもあきらかだ。
 これとほぼ同じことを、ジャン・ギャバンは次のように言っている。
 よい映画を作るために、私がこれまで言い続けてきた三つのこと。それは第一によいストーリイであり、第二によいストーリイであり、第三によいストーリイだということだ。映画作りに必要なことは、ただそれだけ。あとはただの愚にもつかぬ屁理屈にすぎない。
 インテリ嫌いのギャバンは、またこんなことも言っている。
 いまやスタジオは寺院のようなものになってしまった。寺院といっても祈りの場所というより、むしろいろいろ考える場になってしまった。この芸人の世界に「考える人」たちが入ってきたことで、映画館から客が逃げてしまったのだ。 
 「アンチ・ロマン」などと言い出したのは、無論日本人ではない、フランス人にきまっている。それを直ちに拡めたのが日本のジャーナリズムだ。だから丸山氏とギャバンが同じようなこと言っても、それは単なる偶然ではない。丸山さんの言われるとおり、まず「イマジネーションの枯渇」があった。事情は、日本でもフランスでも、アメリカその他の国ぐにでも同じことだ。
                  (「丸山真男とジャン・ギャバンの説」より)


『芝居入門』 岩波書店刊 
小山内 薫 著 /1939年

 小説家としても有名なストリンドベリーは、演劇に関する自分の意見を集めた「ドラマトゥルギー(演劇論)」といふ書物の中で、かういふ意味のことを言つてゐる。―紋切型の道化とか、客受けを狙つた個所とか、主役が大見得を切る見せ場とか、さういつたものは極力避けなければならぬ。俳優の声が叫ぶことなしに隅々まで聞える小さな劇場が必要である。大きい劇場だと俳優が不自然に大きな声で話さねばならぬ。さういふ劇場では、声の抑揚が嘘になり、恋の告白が叫び声になり、内緒話が命令するやうな調子になり、心の秘密が咽喉一ぱいの声で怒鳴られる。かういふ演技は空々しい感じをあたへるだけで、真の藝術ではありえない。
 この意見はそつくりそのまま現在の日本の商業劇場に當て嵌りさうである。ストリンドベリーは自分の演劇論を実践に移すために、観客百七十五人しかはひらない小さな「親和劇場」を建てたり、室内の出来事をそのまま見せるやうな脚本を書いたりした。彼の考の中には、演劇における自然主義精神が最も典型的に現はれてゐる。
 自然主義近代劇の出現によつて、演技の様式が一変して、旧時代の演技は完全に影を潜めてしまつた。現在ヨーロッパ及びアメリカの演技は、細かい差異はいろいろあるが、自然主義的リアリズムを基調とし、そこから発展したものと見ていい。 ところで、ストリンドベリーの意見は旧時代の演技にたいして革命的であつたが、現在それを無條件で受けいれるのは危険である。それは舞臺におけるリアリズムの基本的な問題に触れてゐるが、前時代の誇張された演技にたいするアンチテーゼ(反対論)として、日常自然の演技を強調するのに傾きすぎてゐる。従つて、一歩誤まると素人主義におちいる恐れがある。舞臺に日常茶飯の調子の低い平板さがはびこることになるし、俳優も素人らしいのがいいといふことになる。しかし、訓練を経ない素人主義はいかなる場合でも優れた演技にはなりえない。
 俳優藝術は前にも言つたやうに、だれでもはひり易い藝術であるが、しかし高い達成にいたることのなかなか困難な藝術である。

(「一 俳優の演技」より)