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推奨の本
≪GOLDONI/2009年4月≫

『綺堂劇談』 岡本 綺堂著
  青蛙房 1956年 

 養父の権之助はその時代の芝居道には珍しいと云われるほどの、気むずかしい、理屈っぽい人物で、あだ名を神主さんと呼ばれていたそうである。そういう人物であるから、彼は養子の権十郎(後の九代目団十郎)を寵愛すると同時に、その教育は非常に厳重であった。まず浅草馬道の手跡指南森田藤兵衛に就いて読書習字を修業させ、土佐派の画家花所隣春に就いて絵画を学ばせ、舞台上に必要な舞踊、浄瑠璃、琴、三味線は勿論、生花、茶の湯のたぐいに至るまで残りなく稽古させた。
 それがために、長十郎の幼年時代より権十郎の少年時代にわたって、団十郎はほとんど朝から晩まで息をつく暇がなかったと伝えられる。少しぐらいの病気では権之助は容赦しないで、怠けてはならぬと叱り付けて稽古に追い出すという始末。それでも団十郎は素直に勉強していた。しかも権之助の育て方があまりに厳酷であるというので、周囲の者はみな団十郎を憐れんだ。いかに修業が大切だと云っても、遊び盛りの子供に殆んど半時の暇もあたえず、それからそれへと追い廻すのは余りに苛酷であるという噂がしきりに伝えられた。
 海老蔵(七代目団十郎)の弟子たちも見るに見かねて、それを師匠に訴えた。あのままに捨てて置いたらば若旦那は責め殺されてしまうであろうと云うのである。海老蔵もそうかもしれないと思った。しかし一旦他家へやった以上、いかに実父でもみだりに口出しをすることは出来ない。殊にその当時は座元の威勢が甚だ強いのであるから、座元の権之助に対して迂闊なことを云うわけにも行かない。それでも或るとき権之助にむかって、海老蔵は冗談のように云った。
 「あなたは長十郎をよく仕込んで下さるそうですが、あんまり仕込み過ぎて、今に責め殺すかも知れないという噂ですよ。」
 それに対して、権之助は厳然として答えた。
 「成程そうかも知れません。その代りに、もし責め殺されずに生きていれば、きっとあなたよりも良い役者になります。」
 海老蔵も苦笑して黙ってしまったと云う。権之助の予言あやまたず、果たして実父以上の名優となり負おせたのであるが、その当時においては権之助の厳酷な教育法に対して、反感を抱く者が頗る多かったと云うことである。団十郎も後年は人に対して「これも養父が仕込んでくれたお蔭です。」と云っていたが、その当時は何と思っていたか判らない。いずれにしても、彼はおとなしく養父の命令に服従して、他念なく勉強していたのであった。
(『甲字楼夜話』団十郎を語る より)