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大学に蝟集する演劇の『レッスン・プロ』

 梅棹忠夫の『比較芸能論』(「日本の古典芸能」第10巻。1971年、平凡社刊)を読んでいたら、こんなことが書いたあった。「職業としての芸能とはなにか。プロフェッショナルな芸能人というのは、どのようなひとをいうのであろうか」。「観客あるいは聴衆のまえで、修練によってえられたところの歌舞音曲の技能を披露する」。「それをもっておもな業務とし、それで生計をささえる人たちが、プロフェッショナルの芸能人とよばれるのだろう」。「芸能学校の数のおびただしさは、それにみあうだけの芸能教師の存在を意味する。それらの人びとは、芸能を教授することによってその生活をなりたたせている。芸能を職とするという意味において、彼らはまぎれもないプロフェッショナルな芸能人ではあるが、先にいったような第一次な意味での芸能人-今日のことばでいえば、芸能タレント-とは、かならずしもいいがたい。」
 早稲田大学、明治大学などの演劇専修・演劇学専攻や、東京学芸大学の教育学部教養系にある芸術文化課程表現コミュニケーション専攻など演劇実習をしない大学を別にすれば、日本大学芸術学部や桐朋学園短大、大阪芸術大学や近畿大学文芸学部などの舞台芸術専攻、数年前に新設された桜美林大学などの実習中心の学科には、現役の俳優や演出家、劇作家、舞台美術や照明、音響、衣装などのデザイナーなどが専任教員あるいは非常勤の講師として勤めている。産児減少化のこの時代、粗製濫造気味だった大学の生き残り戦略上、とくに学力底辺高校の進学希望の生徒の収容先として、講義(座学)ではなく実習中心の専攻科の新設こそが重要。その意味では、演劇実習専攻は恰好のコース。以前は専門学校の演劇実習専攻科が、基礎学力が不足し修学にも就職にも意欲のない高校生の行くところであったようだが、今はそれをこれらの大学が真似したか奪ったようなもの。修学意欲の無い者が、実習ならと望んで励むのだろうか。基礎学力不足と親の経済力は比例している、との説があるが、高校生の時までに、どれだけの舞台芸術に触れたのかは、親の経済力ばかりか、家庭の文化生活力とでも呼ぶべきものと連動している。
 昨年の12月12日のブログ(『水自竹辺流出冷、風自花裏過来香』)に書いたように、劇場の座席の背に足を載せて観劇するような卑しく傲慢な愚か者(そのひとりは自分が勤めている公共ホールで、だ。)たちは、三人とも東京大学、多摩美術大学、早稲田大学で教えている批評、アートマネジメント、演出の専門家。教わる方も凄いが、教える方も負けてはいない。教室での教員と学生の態度は想像がつきそうだ。日本大学芸術学部のある実習では、客員教授の演出家の休講が恒常化し、また他の演出家の講座では「学級崩壊」が起きていると言う。このような大学や、専門学校、劇団やプロダクションなどの養成機関が、演劇だけでは食っていけない「演劇人」の稼ぎの場なのだろう。それぞれに稼ぎは必要だろう。だが、稼ぎと務めが見合ってこそ、人を教えるに相応しいものではないか。
 彼らの半端な教員稼業、真っ当な「務め」と言えるのだろうか。