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東京大空襲の記念日に『断腸亭日乗』を読む

東京大空襲から六十年、永井荷風の『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年三月十日の項にはこう書いてある。「昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及び霊廟も烏有に帰す。明治座に避難せしもの悉く焼死す。本所深川の町々、亀戸天神、向嶋一帯、玉の井の色里凡て烏有となれりといふ。午前二時に至り寝に就く。灯を消し眼を閉るに火星紛々として暗中に飛び、風声啾々として鳴りひびくを聞きしが、やがてこの幻影も次第に消え失せいつか眠におちぬ」。ふと、昭和十六年十二月の日米開戦当時をどんな風に記していたかが気になった。「十二月十一日。晴。後に陰。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。浅草辺の様子いかがならむと午後に徃きて見る。六区の人出平日と変りなくオペラ館芸人踊子の雑談また平日の如く、不平もなく感激もなく平安なり。予が如き不平家の眼より見れば浅草の人たちは尭舜の民の如し。仲店にて食料品をあがなひ昏暮に帰る」。
1990年以降のこの十数年、税金による助成金や支援制度などに頼りきり、行政に擦り寄る無節操・不見識な者ばかりが跳梁跋扈する「演劇界隈」に背を向け、一般社会、とりわけ演劇に関心のない、あるいは演劇に絶望した方々にも向け、徒労に終るかもしれないささやかな啓蒙と提言をしている、決して不平家ではないつもりの私にも、荷風があの戦時態勢の時局をどんな眼で見ていたのかは興味深い。ドイツ・ナチスを模倣したという国民統制組織である『大政翼賛会』が立ち上がった昭和十五(1940)年十月十一月、その刷新改組があった翌十六(1941)年四月五月辺りを追ってみた。「この頃は夕餉にも夕刊新聞を手にする心なくなりたり。時局迎合の記事論説読むに堪えず。文壇劇界の傾向に至つてはむしろ憐憫に堪ざるものあればなり」(昭和十五年十月十五日)。また、十一月二十三日には「このたびの改革にて最も悲運に陥りしものは米屋と炭屋なるべく、昔より一番手堅い商売と言はれしものが一番早く潰され、料理屋芝居の如き水商売が一番まうかる有様何とも不可思議の至りなりと。右米屋の述懐なり」とある。劇場の盛況についても言及している。「帰途電車にて歌舞伎座前を通るにあたかも開場間際と見え観客入口の階段に押合ひ雑沓するさま物凄きばかりなり。劇場の混雑は数寄屋橋日本劇場のみにてあらずと見ゆ。近年歌舞伎座の大入つづきかくの如き有様にては役人が嫉視の眼もおのづから鋭くなるわけなり。近き中に必制裁の令下るなるべし。観客の風采容貌の醜陋なること浅草六区と大差なきが如し」(昭和十六年四月十九日)。
この年の五月十一日の項には、「頃日耳にしたる市中の風聞左の如し」として、五つばかりの話を記している。その中の一つを紹介する。「俳優尾上菊五郎その伜菊之助徴兵検査の際内々贔屓筋をたより不合格になるやう力を尽くせしかひありて一時は入営せしがその翌日除隊となりたり。菊五郎はもう大丈夫と見て取るや否や、伜の除隊を痛歎し世間へ顔向けが出来ぬと言ひて誠しやかに声を出して泣きしのみならず聯隊長の家に至り不忠の詫言をなしたり。聯隊長は何事も知らざれば菊五郎は役者に似ず誠忠なる男なりと、これまた嘘か誠か知らねど男泣きに泣きしといふ」。今は事実関係が判らないので、いずれ調べてみたい。孫の勘九郎、曾孫の七之助の似たもの親子について、仄聞するその行状、物言いなどに見られる不実さは、いったいどこから宿ったものか謎であったが、これは遺伝子のなせる業だったのか。
昭和十八(1943)年の正月一日に記した「町の噂」の中には、「浅草公園の道化役者清水金一公園内の飲食店にて殴打せられ一時舞台を休みし由。なほまたエノケン緑波などいふ道化役者の見物を笑せる芝居は不面目なれば芸風を改むべき由その筋より命令ありしといふ。」とあり、思わず笑ってしまった。