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文芸評論家の『演劇評論』を読む

最近ぴあから刊行されたムック『シアターワンダーランド』を見た。内容については触れない。GOLDONIでは常備しない水準のものなので、今後も棚には置かない。注文も承らない。この手の本が演劇書だと思っている新刊書店での立ち読みをお勧めする。「学力低下・学問習熟度の低い者、素養の無い基礎教育をまともに受けなかった者でも遣りたがるものが現代演劇」との私の認識について、理解を戴けるものだとは思う。83ページにあるリードの文章は凄い。「今年デビューしたての若手の子が言った」という言葉には愕然とした。松たか子をミューズと、鈴木杏を女優と称える編集担当者たちにとっては、文学座のスタッフは、「子」の扱いなのだろうか。手にとってみて、早判りで判るものなど所詮はたいしたものではない、との確信が得られたことは収穫だった。立ち読みをお勧めする所以である。
三一書房刊行の『現代日本戯曲大系』第一巻にある、文芸評論家・奥野健男氏執筆の解説は、刊行された1970年代後半にどんな受けとめられ方をしたのだろうか。「新劇は戦争によってながい間、世界から閉ざされていた日本人、なかんずく青年たちにとって、より広い世界を眼前に直接おしひらき、展開し、その世界に導いてくれる、なによりも有効な窓であった。青年たちは争って新劇を観、新劇を論じ、そして自ら新劇を上演しようとした。と同時に新劇を観なければ戦後の文化人、知識人として失格だ、新劇を観、論じることが、戦後文化人のパスポート的意味を持ち、新時代のバスに乗遅れないため、新劇を観る傾向さえ生まれた。新劇を観、それについてしゃべることが戦後のインテリの見栄にもなって行った。」「敗戦直後の新劇の人々の中に、ついに自分たちの天下がやって来た、これからは新劇が演劇の主流であるという甘い幻想の上にたった勝者のおごりやたかぶりの意識があったのではないか」「だがその勝利は自分でたたかいとったものではなく、敗戦と連合軍によってもたらされたものに過ぎなかった。そこに日本共産党が占領軍を解放軍と規定し、平和革命を夢見たと同じ思い上りとあやまりがあった。外から見ていると、当時の共産党も新劇も連合軍の権力をバックにして、時の主流になったように思われた。親方GHQの時代の寵児であった。東宝や松竹が頭を下げてくれば、大威張りで乗ってしまう、これでは時勢の逆転により、歌舞伎などの旧劇と単に入れ替ったというのに過ぎなくなる。新劇は敗戦直後、ブームに乗って余り有頂天になり過ぎた。過去の新劇への自己批判や反省がなさ過ぎた。少しでも洞察力があれば、敗戦によっても、資本主義の社会構造は根本的には変っていないことに気付いたであろうし、そのようなかたちでの大資本との提携はうまく行かず、早晩破綻することは自明の理であったのに。」「しかし、戦後の新劇は、西洋の名作に頼り過ぎたようだ。翻訳劇一辺倒であり過ぎたようだ。だからその面からの反動もはやかった。時代が少し落着くと、新劇は岩波文庫の赤帯と同じ教養、啓蒙のための芝居となってしまった。つまり西洋の古典や近代の名作の紹介劇として、自己形成期の学生やBGしか観なくなってしまった。人生のうち一度は新劇に夢中になるが、大人になれば青くさくて、観念的で観る気もしないと卒業してしまう゛はしか"みたいな芝居になってしまったのだ。そして新劇ブームの反動として新劇をバカにして観ないことが、インテリの見栄になるような新劇侮蔑の時代がはじまり、それがながく定着するようになり」「文学的には傍流的存在として無視され、戦前より更に低い位置に甘んじる結果になった。」
雑誌『文学』の1985年8月号には、同じ奥野健男の演劇評論、『小説と劇作の逆転-戦後演劇史-』」が載っている。「昭和二十年代の後半から三十年代の前半にかけて、ぼくたちは新劇をやけみたいに見歩いたものだが、それは新劇の時代遅れと、シラジラしさを確認するだけの虚しい行為だった。そしてぼくたち当時の若い文学者、演劇人は集まれば、なぜ新劇にだけ戦後文学、戦後芸術に相当するものが生まれないのだろうか、だいいち日本人の創作劇がこの十年間殆ど演じられなかった。創作劇運動を起こさなければどうにもならない。まずあのくそリアリズムを打破し、真に劇的な舞台をつくらねばと、思想的立場は違ってもみな熱い議論を交わしたものだった。今やだれの目にも明らかだった。新劇の世界にだけは、戦後劇作はない、戦後派劇作家は生まれて来なかった。日本の創作劇など要らないとばかり戦前戦中一緒にやって来た仲間である劇作家まで見捨てた新劇界が、劇作の新人を気長に養成したりするはずはなかった。その結果新劇だけは戦後日本の切実な状況を表現しようにも、それに適う劇作を持たないことになった。新劇の急速な没落は理の当然であった」。
戦後新劇の愚かさ・異常さは奥野健男の評論から窺うことが出来る。戦後六十年の今日、テレビ芸能人、芸能プロダクション頼りのボーダレスとやらの「現代の演劇」に、戦後新劇の罪とその害がどれほど宿っているかは、ぴあの『シアターワンダーランド』から学ぶことが出来る。