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劇団文学座の七十年(三)
≪「無定見」「方向性がない」との批判を招く初期の舞台≫

 「一にも俳優、二にも俳優といったら、誤解を生むかも知れませんが、少くとも小生は新劇の現状に対して、そんな風な考えをもっています。少くとも小生の任期中は、お客様のことも批評家のこともあまり考えないで、ウチの役者達の芸術上の利害を中心に仕事をしてゆく考えであります。これが結局お客様に喜ばれ、批評家に賞められる一番の近道と考えるからであります。(略)とにかく、僕らは簡単素朴な考えをもって真直ぐな一本道を歩いているのだから、ヤレ文学座は無定見であるとか、ヤレ方向がないとかいう声を聞くと、とても滑稽に感じるのである……」「蒼海亭」パンフレット・岩田幹事"当番雑感" (『文学座五十年史』年表 昭和十四年(一九三九年)の項より)

 岩田豊雄の著書『新劇と私』には、このあたりのことが書かれている。

 「さて、この最初の試演に対して、世評はかなり冷たかった。事実、一つだって、自慢のできる舞台はなかったのだが、悪評のうちに、何かイジ悪いものが含まれていた。三人揃って、何のザマという意味、三人揃ったって、現場の仕事はできるものかという意味なぞ、いろいろあったようだ。つまり、"三人"が眼の仇にされたようなものだった。また、劇評家の大部分は、プロ派の味方だった。」(「文学座のこと(一))

 では、どんな批評が書かれていたのか。
 倉林誠一郎著『新劇年代記 戦中編』(1969年、白水社刊)から、そこに収録されている文学座試演の劇評を抜粋する。

第一回試演(1938年3月25、26日 飛行館 3回公演 入場者数1,206人)
『みごとな女』 作 森本薫、演出 辻久一、配役 あさ子(堀越節子)、直紀(竹河みゆき)、収(中村伸郎)、弘(森雅之)、女中(小野松枝)
『我が家の平和』 作 クウルトリーヌ、翻案 徳川夢声、演出 岸田國士、配役 鳥枝(徳川夢声)、その妻蘭子(杉村春子)
『クノック』 作 ジュウル・ロマン、訳 岩田豊雄、演出 阿部正雄 
『みごとな女』 ◎演出者はいったい、この作品の何を舞台に表はさうとしたんだらう? これでは結局脚本のスタイルにばかり気をとられて、肝心のものを逸してしまったといふ形ではないか? 
『我が家の平和』 ◎浅草にゐると思へば成る程腹も立ちません。初めから気楽な気持で、これはこんな芝居なのだと、そのつもりになって見物します。併しそれではクウルトリーヌが泣きませう。
『クノック』 ◎愉快な作品には違いないが、あまりに奔放で巧妙過ぎる。訓練の行き届かない若い俳優には、到底やりこなせるものではない。演出者は「俳優に活発な想像力を湧かせ」「自発性と自信を駆使してやる」為にこの作品を選んだといふが、果してその効果があっただらうか? (『劇作』 原千代海)

第二回試演(1938年6月4,5,6日 飛行館 3回公演 入場者数1,460人)
『クラス会』 作 岡田禎子、演出 久保田万太郎、配役 米子(東山千栄子=客演)、治代(毛利菊枝=客演)、女中クミ(水口元枝)、きよ(杉村春子)、力枝(白田トシ)、兼子(竹河豊子)、保子(小野松枝) 
『父と子』 作 ポオル・ジュラルディ、演出 岩田豊雄、配役 父・村山順三(徳川夢声)、子・太郎(森雅之)、松本寛一(三木利夫)、女中(塚原初子)
『魚族』 作 小山祐士、演出 岸田國士
 ◎むざんな第一回試演の黒星に比べて、今度の文学座は、兎に角及第の成果を見せてくれた。演出演技に、エキスパートを揃えて、出しものも、観客に親しみやすいものをえらんだ結果であらう。   
『クラス会』 ◎客演の東山を除いては、肝腎な「蛍の火」の唄の盛上りのところで照れて、客席まで恥ずかしくさせてゐた。
 『父と子』 ◎徳川夢声は、前演よりも、ぐっとしまって、段々と新劇俳優への過程をたどってゐる。どうやら、この試演も、素人徳川にもって行かれた形である。
 『魚族』 ◎舞台にのせられたものと、リリック・コメディ風な表現の中に、生活の現象形態の表面だけが丹念に上塗りされてゐる感じで、折角の素材が、生活感情にまで訴へて来ない。
 ◎全体を通じて、この一座のエロキューションは、話術の細部を追ふたのか、所々、大事なせりふが、巧みな言ひ廻しの中に客席に通って来ない憾があった。(『東京日日新聞』 八田元夫) 

第三回試演(1938年10月17-20日 飛行館 5回公演 入場者数1,700人)
『ゆく年』 作・演出 久保田万太郎
 ◎俳優陣が思ったより整ってゐるのも心強かった。この態度で続けたら築地座より強力な劇団になれるだらう。
 ◎三津田健の小間物商は、年齢や言葉の駆使に無理があった。久保田万太郎の得意のせりふではあるが、東京の人が、あんなに気取って、「けど」とか「いいえ」とか言ふだらうか。(Noの意味の「いいえ」でなく、自分で自分に、もう一度念を押すといふやうな意味を含んだ、この作者一流の「いいえ」もしくは「いえ」のことである)森雅之とか中村伸郎とか、若い俳優には、どこかこの作品とぴったりしない、ぎこちないものがあった。(『テアトロ』 染谷格)

 第四回試演(新劇協同公演)(1938年12月1-4日 有楽座 5回公演 入場者数6,000人)
『秋水嶺』 作・内村直也 演出・岩田國士、阿部正雄 
 ◎友田恭助氏の当り役だったもので、友田を偲ぶ意味からしたのださうだが、よい味を持ちながら、物足りなかった。
 ◎杉村春子の朝鮮婦人が出色の出来であった。
『釣堀にて』 作・演出 久保田万太郎
 ◎中村伸郎が巧かった。徳川夢声の直七は、巧いなりに、外の人と離れてゐた。(『演芸画報』 堀川寛一)

第五回試演(1939年2月24-27日 飛行館 6回公演 入場者数不明)
『蒼海亭』(原名マリウス)
作 マルセル・パニョル、訳 永戸俊雄、演出 岩田豊雄、田中千禾夫
配役 セザール(三津田健)、マリウス(森雅之)、パニス(中村伸郎)、エリックス・エスカルトフイグ(坂本猿幹冠者)、オーリーヌ(杉村春子)、ファニー(堀越節子)
 ◎今度の『蒼海亭』は純然たる翻訳劇でもなく、また、むろん、翻案でもないといふ、舞台上の性格の極めて曖昧なものであったために、舞台はどうしても俳優各個の芸に頼らざるを得なくなった。そこで、俳優は得たりとばかりに各自の持ち味を跳梁させはじめたのである。もともと「マリウス」には、かうした跳梁を許すだけの隙がある。文学座の場合は、それを悪く許したといふ感がないでもない。
 ◎演出家はこの雑然たる異種混淆の舞台のうちから自然に立昇ってくる何ものかを脇で泛然と待ち設けてゐる。しかし、俳優の方は、舞台のアンサンブル、言ひかへれば原作の精神の各自の性格を帰一させやうとする代わりに、むしろ、舞台の外の方へ、まるで幾つかの触手を差し伸べるやうに、各自のそれぞれに異る演技の性格を伸出してゐる。
 ◎かうなってくると、観客はいつの間にか作品から遊離して、その時その時の俳優の持ち味だけを賞味しようとする。もはや、舞台上には連続性が欠如してしまってゐる。(『劇作』 太田咲太郎) 

 1938年には1年で4度の試演会を開き、精力的に劇団活動を始めた文学座だが、批評は当時の二大劇団だった新協劇団、新築地劇団の公演についての劇評と比べても厳しいものであった。「文学座は無定見である」とか、「方向がない」との世評に、「滑稽」と反発した岩田豊雄だが、田中千禾夫と共同演出をした第五回試演『蒼海亭』の劇評は、上述の様に特に厳しいものだった。
 その後、39年40年と、文学座は勉強会、試演を順調に続けていくことになる。40年4月、『紀元二千六百年祝典』記念芸能祭に、内村直也作、岸田國士演出の『歯車』(第十回試演)をもって参加する。

 ―さすがに劇団自身もこの作品のひどさに気付いたらしくパンフレットに「調子の低いのは万事祝典劇のため故意にした事だ」と断わり自ら阿諛迎合を認めてゐるが、芸能祭主催者も同時に観客も随分馬鹿にされた話である。
 由来この劇団は遁辞を設けるのが好きだが今度も祝典劇の性質を勝手に狭く限定して作品の不備を蔽ったといはれても仕方あるまい。演出者も俳優もこれでは手も足も出ず気の毒の一語に尽きる。
(『東京朝日新聞』 1940年4月26日号) 

 『紀元ニ千六百年祝典』記念芸能祭参加の4ヶ月後の8月19日、警視庁による新協劇団、新築地劇団関係者への一斉検挙が行われる。主な検挙者を記しておく。
 <新協劇団>秋田雨雀、村山知義、久保栄、久板栄二郎、松尾哲次、天野晃二郎、滝沢修、小沢栄(太郎)、三島雅夫、松本克平、中村栄二、伊達信、信欣三、宇野重吉、細川ちか子、赤木蘭子、原泉
 <新築地劇団>八田元夫、和田勝一、石川尚、薄田研二、本庄克ニ、石黒達也、中江隆介、池田生二
 <その他>千田是也、岡倉士朗、山川幸世、染谷格、若山一夫

 この弾圧を受け、新協劇団は8月22日、新築地劇団は翌23日に解散する。「国家の新体制運動に即応する以外、劇団活動は不可能である事を、今こそはっきり認識」(岩田豊雄 「都新聞」談話)した文学座は、当然のことだが、検挙される者もなく、劇団解散の憂き目に遭うこともなかった。
 この年の10月、近衛文麿が組織した新体制運動『大政翼賛会』が設立された。その重要ポストである文化部長に就任したのは、劇団三幹事のひとり、岸田國士であった。