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劇団文学座の七十年(六)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(三)≫

国家権力が制定を急いだ『演劇法』について述べる前に、我が国初の文化立法である「映画法」に少し触れておく。
 この法律案は、内務省、文部省と、前年に内務省から独立した厚生省によって立案され、1939(昭和14)年3月に帝国議会に上程、成立し、同年4月に公布、10月1日から施行された。
 倉林誠一郎著の『新劇年代記 戦中編』には、映画法の全文二十六条の骨子を、岩崎昶著『映画史』から引用して次のように記している。

 1 映画製作及配給業者の許可制
 2 映画製作従事者(演出者、演技者、撮影技術者)の登録制
 3 劇映画脚本の事前検閲
 4 文化映画、ニュース映画の強制上映
 5 外国映画の上映制限 
 6 映画の種類、数量、配給組織に対する命令権 
 7 違反者への罰則

 ここでは、映画法の全文を記載はしないが、その骨子は、概ね岩崎昶が要約した通りであり、統制の為の法律であることは疑いがない。敢えて付け加えるとすれば、この法律の目的、保護奨励策についてだろう。
 その第一条には、
 「本法ハ國民文化ノ進展ニ資スル為映畫ノ質的向上ヲ促シ映畫事業ノ健全ナル發達ヲ圖ルコトヲ目的トス」
 とあり、また第十条には、
 「主務大臣ハ特ニ國民文化ノ向上ニ資スルモノアリト認ムル映画ニ付選奨ヲ為ス」
 とあり、その具体的な策として、その第十五条に、
 「主務大臣ハ命令ヲ以テ映画興行者ニ対シ国民教育上有益ナル特定種類ノ映畫ノ上映ヲ為サシム」
 「行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特定ノ映畫興行者ニ対シ啓發宣傳上必要ナル映畫ヲ交附シ期間ヲ指定シテ其ノ上映ヲ為サシム」
 とある。

 劇団俳優座の俳優で、また、演劇研究者、演劇資料収集家でもあった松本克平(4月26日の『提言と諌言』[(劇団文学座の七十年(三)「無定見」「方向性がない」との批判を招く初期の舞台)]で記したように、1940(昭和15)年8月の、新協劇団、新築地劇団に対する弾圧の時に検挙されている。)の著書『八月に乾杯―松本克平新劇自伝』(1986年、弘隆社刊)によれば、当時、文部省の官僚で、内務省、厚生省の革新官僚達と映画法の制定を画策していた不破祐俊が著した『映画法解説』(1941年、大日本映画協会刊)の記述の中に、ヒットラーの映画政策を取り入れ、「従来の出来上った映画を検閲でカットしたり禁止したりするという消極的方針を一擲して、企画の段階で監視、批判、指示、訂正、或いはやめさせると同時に、映画製作に従事する各技術者の思想と姿勢を予め調査し、不適格者を日本映画界から完全に追放することを目指した、ファッショ的な法律であることを示している」(『八月に乾杯』)とある。
 松本克平と一緒に検挙された千田是也は、その著書『もう一つの新劇史』(1975年、筑摩書房刊)で、この映画法の制定される直前、また彼が新築地劇団を退く直前の1938、39、40年を次のように回想している。
 
 ―だがその一方では、新築地の俳優たちの映画出演が急速に増えつつあった。
 この二年余の<新劇興隆>のおかげで、映画会社の連中が新劇団の存在、その統率力、素人ばなれのした企画力、個々の俳優の力量に関心をもちはじめたせいか、劇団にたいする出演要請や提携作品製作の提案が急に増えてきたからである。(略)
 一九三八-三九年度の公演収入が前年度に比べてずっと少なくなり、やっと実りかけた<職業化>への夢がまたあやしくなり始めていたし、築地小劇場が改築工事のため約五ヶ月閉鎖され、東京で充分な本公演を持つことが困難になったり、予定されたいくつかの上演脚本の出来あがりが遅れて公演のめどがたたなかったりしていたときだっただけに、この映画出演の増加は劇団にとっても大きな救いであった。したがって幹事会としては、映画進出を積極的におしすすめざるを得なかったのである。と同時に、このことが劇団の統一を乱したり、演劇活動の障碍になったりすることのないように、南旺映画と共同のユニット映画製作委員会に、岡倉、山川、八田などの演出部員を参加させるとか、各俳優の映画出演を幹事会で厳重にコントロールするとか、いろいろ気を遣いはした。しかしこの映画進出の結果、劇団の大部分の俳優の<職業化>への欲求と演出部員の芸術的意欲との間に大きな溝がつくられ、やがてそれは新劇団としての新築地の命とりになるのを喰いとめることはできなかった。
 そういうことが直接の原因であったとは言い切れないが、『海援隊』の関西公演を了え、『空想部落』の撮影にかかり出した頃から、私も、なんとなく、劇団などというもののなかにいて、いくら頑張ってみてもあまり意味はないような気がしてきた。正式にやめたのはその翌年の二月であるが、一度そう思い始めると、新築地の仕事にはちっとも気が乗らなくなり、その後もずっと書記長の<要職>にあったわけだが、何をやったのか、さっぱり憶えていない。(「Ⅸ 隠れ蓑をきたリアリズム」)

 1940(昭和15)年4月、文学座は東宝映画と提携して、「東宝映画文学座演劇映画研究所」を開設した。また、杉村春子が主演した豊田四郎監督の『奥村五百子』(製作=東京発声映画、現東宝の前身)が公開されたのは、同年6月である。これらは、「映画法」が施行され一年足らずの時期のことだが、映画出演で口を糊していた新協、新築地両劇団の俳優たち、たとえば滝沢修、小沢栄、松本克平、信欣三、宇野重吉、薄田研二、本庄克二、そして千田是也などがこの年の8月に一斉検挙されたが、彼等のその後は、起訴或いは不起訴と別れるが、その殆どの俳優たちは、千田が言うように、演劇人としての<職業化>も、映画出演での口過ぎのような<職業化>も不可能になった。
 いずれにしても、この1940(昭和15)年は、新協、新築地への弾圧と、「演劇法」の制定や大政翼賛会に深く参画していく岸田國士の「右旋回」(松本克平)という、対照的なモメントを昭和新劇史に遺したと言える。