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推奨の本
≪GOLDONI/2007年7月≫

毛利 三彌 『演劇の詩学―劇上演の構造分析』
 2007年3月  相田書房

 
 新しい演劇の台頭する時期や場所には、その社会的環境にある種の共通性がみられる。人々が明白に意識せざるを得ない人間関係のずれの発生である。紀元前六世紀から五世紀にかけてのアテナイは、ペルシア戦争をはさんでの激動期であった。十六世紀のヨーロッパ精神は、中世世界を支配してきたキリスト教の内部に最大の亀裂を生じさせた宗教改革によって混乱していた。南北朝期は、日本の歴史上、前後に例のない二つの朝廷の並立した時期だが、それを可能にする精神土壌は下克上による武家支配体制の中で培われていったといえる。一六〇〇年の関が原の戦いは、まさしく天下分け目、中世的なものから近世的なものへと日本人の思考様式が変化することの象徴であったが、そのことが明白な意識となって社会変貌をもたらしはじめたのは、十七世紀後半であった。この過去と現代の激しく相克する転換期には、そのずれに対して否応なく何らかの判定が求められる。それは、新しい社会体制のための法づくりと重なる。古代アテナイの法は、紀元前六世紀を通じて激しく変容したといわれる。王制が貴族制となり、そこから民主制に移行するまでの中間段階として、紀元前六世紀後半に成立した僭主制は、一種のクーデターによる政権獲得でありながら、民心を掌握しなければ維持できない新しい政治体制であった。最初の僭主、ペイシストラトスが大ディオニュシア祭での悲劇上演を定めたと一般にいわれてきたが、実際には、現存最古の悲劇の作者であるアイスキュロスが、その後のヨーロッパ演劇の礎となる劇の原型を作り出したといってよい。すなわち二人俳優の制度である。それによって人物間の対話が可能になった。対話は、アイスキュロスの時代に成立したアテナイ民主制の基礎となる。その法は、裁判官は人民からえらばれ、被告には、告発するものと弁護するものがいるという、今日までつづく民主的な裁判制度によって裏打ちされるものである。アイスキュロスの最後作『オレステイア』三部作は、この新しい法の根拠を問うものにほかならない。それは、目には目を、歯には歯を、という復讐法から脱するために、過去の事件に対する異なる見解をたたかわせることによって、将来に意味をもつ対処方法をみつける過程である。その再現が劇の基本形式となる。したがって、『オレステイア』のように劇中裁判を行なう形でなくとも、すぐれた悲劇は、それ自体が自ずと裁判形式を模する。『オイディプス王』は、先王殺害者探しの劇ではなく、殺害容疑者を裁く劇である。証拠調べ、証人喚問といった裁判形式の対話が繰り広げられる。たまたま裁くものが裁かれるものだった、という特異な結末となるが、それもいわば裁判形式にのっとって明らかにされる。かくして、対話による対立がヨーロッパのドラマの基本形式になった。
 これに対して、日本人の法意識がヨーロッパ人のそれとは異なる様相をもつことを指摘したのは、法社会学者の川島武宜である。彼は、日本人の法意識を示す典型例の一つとして、黙阿弥の『三人吉三廓初買』のよく知られた「大川端庚申塚」の場をあげる。お坊吉三とお嬢吉三の争いの中に、和尚吉三が割って入って喧嘩をあずかるという場面だが、あずかるとは、白黒をつけることではなく、調停すること、解決ではなく和解することである。だがこのとき、川島武宜もいうように、双方納得しての和解というよりは、一段上の立場に立つものが争いをあずかって言い分をおさめさせる。今日の日本でも、裁判で争うよりも示談で決める方が好まれるが、この日本人の法意識は、江戸時代を通じて形成されていったものだろう。江戸幕府は長年つづいた日本国内の対立葛藤の調停(あづかり)の上に成立した。したがって、多くの歌舞伎劇にこの調停的判断姿勢は明らかであり、これが近代になってもなお、われわれ日本人を支配している。日本演劇に対話性が希薄であることは、ここに由来するのであろう。
(「日本演劇の特性」より)