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劇団文学座の七十年(八)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(五)≫

 1940(昭和15)年6月、枢密院議長・近衛文麿は、国防国家の完成、外交方針の転換、新政治体制の整備を目標とした新体制運動を主唱、7月には総辞職した米内内閣に代わって首相に就任した。その年の10月12日、新体制運動の主体として、『大政翼賛会』が発足した。
 「この1940(昭和15)年は、新協、新築地への弾圧と、「演劇法」の制定や大政翼賛会に深く参画していく岸田國士の「右旋回」(松本克平)という、対照的なモメントを昭和新劇史に遺した」(『文学座の七十年』(六)、6月18日記述)と書いたが、岸田國士は8月の新協、新築地への弾圧を尻目に、9月には満洲国の招聘を受け現地に赴いていた。「思想の自由を守り抜いている数少ない知識人」「当時の言論に許容されるぎりぎりの境界線のところまで語」ることの出来る人物を文化部長に据え、「時代の閉塞状況にひとつの活路を見いだそう」(渡邊一民著『岸田國士論』より抜粋)としていた『昭和研究会』の三木清、後藤隆之助、中島健蔵などによる政府への工作が功を奏し、後藤からの文化部長就任を要請する電報で、岸田は急遽東京に戻り、就任を受諾した。 岸田國士の大政翼賛会文化部長就任が報じられたのは、発足一週間後の10月19日であった。
 渡邊一民は上述の『岸田國士論』(1982年、岩波書店刊)の中で、1938(昭和13)年の4月から9月まで『朝日新聞』に連載された岸田の小説『暖流』を取り上げ、「ここには、時代への反抗はいっさい存在しない。むしろ時代の肯定が前面に出ることによって、はからずもこの作品を典型的な国策小説、時局小説としているのだと言えるだろう。わたしは『暖流』をもって、やはり岸田國士の一種の転向小説だと見なしたいのである。」と述べている。
 コミュニズムからではないが、自由主義から「転向」して、そのことが評価されて、権力に最も近い文化運動の先頭に立った岸田だが、太平洋戦争勃発の8カ月後の1942(昭和17)年7月、文化部長のポストを投げ出す。『文学座五十年史』には、「大政翼賛会の官僚化にあきたらず辞任」と記されているが、渡邊一民は、「新しい文化を生みだすために、日本の改良が必要だと思った。それは国民のなかから成長するが、上から指導することも一つの方法であり、手段だと思った。これが根本的にまちがっていると自覚しましてね」「私たちは文化の再建と国民運動を考えて参加したのですが、結果は官僚勢力の拡張だった。官僚に文化や芸術は判らない、というより、彼らは文化という名で批判を抑制しようとした。文化統制が目的だった。」(林克也「敗戦期の岸田國士」『文学』1953年5月号)との岸田の言葉を採録している。
 「官僚に文化や芸術は判らない」「文化という名で(体制)批判を抑制しようとした」と、権力、官僚への不審を抱いた岸田國士が大政翼賛会を去って六十五年、亡くなって五十三年後の今日、上演台本の検閲、劇団の強制解散、国家情報機関の専属劇団への慫慂など、国家権力が強権を発動した、六、七十年前の時代を、今、ほとんどの演劇人、とりわけ当の新劇団の構成員すらが理解していないだろう。現代の国家権力による文化政策について少し述べれば、1990(平成2)年の「芸術文化振興基金」の設立、94年の総務省主導による地方公共団体に対する芸術振興支援組織「地域創造」の設立、96年の文化庁の芸術振興策としてのアーツプラン導入など、舞台芸術の周辺環境は大きく変わった。とりわけ、文化政策の施策として採用されている、芸術文化振興基金、 文化庁の(新)アーツプランなどの芸術創造活動支援事業などに見られる国家による手厚い助成制度は、戦時中は無論のこと、戦後四十五年の1990年までは考えられないものであった。泉下の岸田國士は、この税金が投入されている助成制度で最も恩恵を受けている演劇団体が、自分たちが作った文学座であり、この十八年での助成総額が5億円を遙かに超えるだろうと聞かされても、彼は容易に信じることは出来ないだろう。
 1937(昭和12)年9月6日に設立した文学座は、創立以来の七十年で、日本の現代演劇に大きな足跡を残した。創立メンバーみな既に亡くなり、七十年の歴史を知る者は、38(昭和13)年3月の第一回試演会に舞台監督として参加した戌井市郎氏ひとりになった。